聖臣くんとドライブデート




 可能性
 ゼロじゃないなら
 ゼロじゃない
      佐久早聖臣

 別にこれは佐久早聖臣さんご本人が作った標語でも川柳でもないのだが、もしも彼に交通安全スローガンを百通り提出させたら恐らくそのうちの七割くらいはこういった内容のものだろう。佐久早聖臣は慎重な男であった。彼はあらゆる事態を想定し、可能な限り備えようとする。その度合いときたら、ネガティヴとか妄執とか哲学とか言い換えてなんら差し支えないくらいだ。
 つまり、“かもしれない運転”なんて言葉を知らずに一生を終えるべき運転者がいるとすれば、それは私の恋人たる佐久早聖臣をおいてほかにない。

「じゃあ、俺は車内の方担当するから。お前もさっき言ったところ特に注意して、くれぐれも油断するなよ」
 しかしながら、彼は既に知ってしまっていたのだ、その悪夢の如き慣用句を。
 途方もない後悔の念に苛まれながら、渡された用紙を黒く埋め尽くす夥しい数のチェック項目と目の前の愛車を交互に見比べる。若葉マークの大型ルーキー・佐久早聖臣の“かもしれない運転”は乗車の前から始まるらしい。このパステルカラーの軽自動車の平和そのもののような、愛されるべくしてまるっこいフォルムにここまで猜疑の目を向けることができるのはある意味才能と言えるだろう。
 免許取りたての聖臣に運転を勧めてしまった己の迂闊さを心底恨む。と同時に同情する、私に。
 だって、ただちょっとばかし遠出しようというだけで恋人が日頃問題なく乗り回してる車をこんなめちゃくちゃに点検させる男いる? まあ事実いたんですがね、そんな無茶苦茶な公道童貞の点検奉行が。でもいると思わないじゃんそんなやつ、いくら聖臣が佐久早聖臣だからって、私が運転するときはここまで念入りにチェックを入れてきたことはない。まさか運転してもらう身だから遠慮していたとでもいうのだろうか、あの佐久早聖臣が。車借りてる身であるうちももうちょい遠慮できないもんかな。
 ともあれ遅れて湧き上がってきた抗議も罵倒も今更声にしたところで可愛いマイカーに我が物顔で乗り込み扉まで閉めてしまった恋人には届かない。茶番に付き合う以外の選択肢は用意されてはいないようだ。
 私は仕方なく、ボンネットの猫バンバンから取り掛かることにした。エンジンルームで猫ちゃんが暖をとっているかもしれない、そう唱えながら残暑の太陽光で発火寸前まで熱をもった愛車を平手打ちする女の姿をいっそ滑稽だと笑ってほしい。可能性がゼロでない限りそれは確かに起こり得るのだと教祖様は説かれるが、仮にこの季節にこんなとこ入り込んでたとしたら既に焼肉なっとるわ。
 しかし天上の神さまとやら。彼の運転でのドライブデートなどという夢物語にささやかな憧れを抱いたことは、その代償として朝イチで焼けつくアスファルトに這い蹲らなければならないほどに罪深いことだったのでしょうか?
 昨晩テレビを眺めながら「そうだ、折角免許取ったことだし運転してみる?」と白々しく提案したとき、私の中にまあちょっと、ほんの僅か、運転を聖臣に押し付ければ自分は楽できるんじゃないかという邪な期待があったことは否めないが。それでもこんな文字びっしりのチェックリストとかいう謎の戒めと釣り合うだけの咎かそれは? 聖臣もなんで今回に限ってやる気満々なわけ、普段なら断りそうなもんなのに。

 タイヤのサイド部分に穴をあけられているかもしれない、周囲に釘が落ちているかもしれない。絶え間なく目を配らせながら、まあ一応デートだしと久々に引っ張り出してみたお気に入りのロングスカートの裾を膝裏に挟んでしゃがみ込む。そのままもそもそと足を動かして車体の後方に回り、今度はナンバープレートのネジが緩んでいないか、つまり信号待ちの間に外されて次の信号で売り付けられる隙を与えてはいないか、と。……ごく平凡な賃貸マンションの敷地内駐車場で聖臣は何を危惧しているのだろう。彼がついこの間まで通っていたのは果たして本当に私も卒業したあのゆるゆる教習所だったのだろうか、やばい秘密結社の養成施設とかじゃなく?
 最後に車両の下部に発進と同時に起動するタイプの爆弾が取り付けられていないかを確認し終えた私は、同じく車内を隈なく調べていた男に「車外異常ありません」と敬礼する。私が助手席側から扉を開けた時、聖臣はちょうど運転席で狭苦しそうに身を縮めながら、ドリンクホルダーの住民を指先でつまみ上げて強制退去させているところだった。ぞんざいな扱いに私は眉を吊り上げる。
「ちょっと、私のモトヤくん」
「……人形に妙な名前つけてんじゃねえ」
 妙な名前って、あなたの従兄弟くんと同名ですが。
 いつも私の安全運転を隣で見守ってくれている、マロ眉がチャーミングな柴犬くんがこちらに投げて寄越される。見れば見るほど元也くんそっくりな彼の本来の居場所はペットボトルに乗っ取られ、もう帰るべき家もない。
 ああ、かわいそうなモトヤくん。
 彼を両てのひらにひしと抱きしめてから助手席窓側のドリンクホルダーに丁重に迎え入れる私の様子を聖臣はやけに不機嫌に睨めつけていたが、とうとう大きな溜め息をひとつ、座席の調整を始めた。
 うわ、聖臣、本当に運転するつもりなんだ……。
 こちらは既に汗だくの満身創痍だが、所詮“かもしれない点検”など前座に過ぎない。言うなれば自らを磔にするための十字架を背負ってゴルゴタの丘を往く段階がそれだった。
 いや、聖臣がクッソ細かい男だなんて百も三九三も承知だけども、発進前からこんなだったら公道での運転、なんぼ程のもんになるんだ……。ドライブデートへの淡い憧れなどとうに消し飛び、今やただただ言い知れぬ緊張感が胸を満たしている。もちろん器用で周到な彼のことだ、技術面への不安はない。決してそういうやつではないのだけれど。
「……ねえ聖臣、やっぱり私が運転しようか?」
「は? 今更なに、俺の運転が信用できないわけ? 古森より上手いけど?」
「そりゃあ……元也くんはまだ免許持ってないからね」
 なんでそこ張り合ったのか全くわからんまま、フンと鼻を鳴らした聖臣に「さっさとシートベルト締めろよ」と促される。もたもたすると更に機嫌を損ねそうなので大人しく従えば、本来安全装置であるところのシートベルトがかつてないほど拘束具じみて私の身体を固定した。いよいよ拭い切れぬ磔刑感。

 かくして佐久早聖臣とのドキドキ☆ドライブデートは走り出してしまったのだった。

(続かない)


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