彼もまた原罪を宿す




 彼もまた原罪を宿すひとりであると、弾かれたように思い知った朝。(のみど)に林檎を詰まらせたような隆起が私の目醒めの視界にあった。佐久早の規則的な呼吸に合わせ、それは静かに微動している。自ら齧り付かせんと匂い立っては人を駆る、まるで狂おしい果実のかたちであった。
 そうだ、目を開いたのは、目蓋の向こうがいやに眩しかったからだ。その原因こそがこの男の青白い喉頭。遮光カーテンの合間から朝日が細く差し掛かり、その冴え冴えとした輝きがどうやら私に覚醒を齎した。佐久早はまだ眠っているらしい、己の身体が今、どれほど眩く異性の瞳を灼いているとも知らずに。たまらない気持ちになって、そっと鼻を寄せてみる。彼の喉仏からは冬、早朝の湖畔に満ちているのに似た、淡々たる切なさが香った。
 この人の体内にはきっと清らかな水が巡っているのだろう。つい数時間ほど前までそう信じて疑わなかった。否、私は今でもその情景を眼裏にありありと描くことができる。根深く、鮮烈な信仰であった。冬薔薇の花脈さながらの蒼褪めた血管の末端までを、きんと冷えた透明が流動する様。幾度も幻視した、だってこの人はあまりにきよいために、低俗な人の営みとは縁遠いように思われたのだ。内に月光を湛える如く仄光る膚の滑らかさ。このしなやかな断絶で以て、私たちは決して交わることなき生き物として存在していたはずだった。
 ひとつ夜が明けても未だ現実味を帯びない、佐久早が私とのセックスを望んだなんて。


「別に其処は終着点じゃないだろ」
 なにを怖がってるのか知らないけど、と彼は付け足した。口ぶりから察するに、彼は女の方こそこういった触れ合いを恐れるものと信じているらしく、それは半分当たっていた。けれども私が、佐久早が肉体的な繋がりを嫌悪する人だと思っていたのだって本当なのだ。私が一度としてこの男との身体の接触を欲しなかったのはそのためだ、いま私が弱々しく彼の手を振り解こうと試みるのも。
 水が水以外の物質に濁されるように、女とのまぐわいは佐久早を穢すに違いない。
 だから、長く傍らにいる女を気遣った結果がこれならば、それはお門違いというものだ。私は佐久早を、佐久早の望む彼自身の在り方を理解している、そのように自負している。セックスがあらゆる男女の関係継続に不可欠などと誰かに吹き込まれたのならばそれは大いなる間違いなのだと諭してやった。
「……前々から思ってたけどお前、俺のこと何か変に勘違いしてるだろ」
 しかし佐久早は盛大に溜め息を吐き、その掌は私の手首を縫い留めたまま。それで尚持て余された長い指は、私の指の付け根までを確りと捕らえて離さなかった。恋人を慈しむかのような、知り得る限り初めての手つきで。意外に思ったが、彼は本当にその気でいるらしい。まるで人のようなことをする、そう考えて、私は私がこの人を崇拝しているということを、改めて強烈に自覚した。
 組み伏せておいて、佐久早は一応私の返事を待っているらしい。佐久早が行為を厭わないのであれば、彼が先刻言い当てたもう半分、私の恐れを開示するほかないだろう。黙して是非を問う黒曜の瞳に、決して嫌悪感ゆえではないとだけ前置く。
「でも、恋はいつか終わるから」
 終着点、という単語を先ほど彼が選んだことを思った。それは実に的を得ている。
「始めてしまったら、あなたは終わりを見出そうとするはずだ、無意識的にであろうとも。だから私は凡ゆる区切りを恐れている」
「は、終わりってなんだよ」
「知らない。でも必ず終わらせるよ、あなたはそういう風に生まれついた人だから」
 好む好まざるに拘らずやり切ってしまう、それが彼の性分だった。開いた本は内容の如何を問わず、最後の一字に至るまで余さず目を通すように。難解なパズルを寝食忘れて完成させてしまうように。たとえばキスを千回したら、これ以上ないほどのセックスができたら、或いは子どもが産まれたら。どこかの時点で佐久早は私を手放すのではないか。彼は同じパズルを二度とは解かない、なれば一度終わらせた恋が再び熱をもつこともない。一方で信仰は永続する、この人がこの人であるだけで。
 彼はうつくしい人だ。清く、ただ光、指向性のみを有する力にも似た、純粋で透明な存在だった。人間の業、情など保有すべくもない。そんな風に濁るはずがないと思っていた。濁らないのであれば、不毛な恋愛に身を窶すまでもなく、私はこの人を永遠に愛していられると信じていた。
「……じゃあ、看取る」
 それだから、如何にも不機嫌そうに眉を寄せた佐久早が溢した単語に、私が暫し唖然としたのも無理からぬことと許されたい。「なにその顔」まんまるく目を見開いて絶句する私を睨め付ける視線は、果たして己が看取らんと欲する女に向けるに相応しいものだろうか。射殺されてしまいそうなほどに鋭く、ただその奥には、確かに情が灯っている。私は思わず喉を引き攣らせた。
「ばっ、……かじゃん。馬鹿じゃん」
「うるせえ、なんて言ったら満足なんだよ」
「だって……佐久早がそんな非現実的なこと言うなんて思わなかった」
「なんでお前が俺のこと勝手に決めてるわけ。無理かどうかは俺が決める」
 力を込められて、手首の熱を意識した。動揺を見てとってか、佐久早の口許がゆるい弧を描く。拒まぬことなど百年も昔から知っているとばかりの、確信的な表情だ。
「お前が死ぬまで見ていてやるよ。俺は“そういう風に生まれついた”らしいから」
 愛の言葉に思われた。人のように意地の悪い顔をして、男はそんなことを言った。


 佐久早が情を結べる人間であるということを、私は本当に知らなかったのだろうか。少なくとも、理解した上で目を背けていた、と言ってしまえばそれははっきりと嘘になる。この人の掌に熱く血の通っていることを、身の内に人と変わらぬ情欲が滾ることを、想像しようともしなかった。出逢ったときからずっと佐久早はうつくしかった、その形容詞ひとつで私の中の彼の像は完成されていた。今もまさしく美しい。彼もまた只人であると、理解してしまった今でも尚。
 気まぐれに彼の起伏する喉、原罪の象徴に舌を這わせる。佐久早が不快感からか低く呻く、その震えを、昨晩散々蹂躙された粘膜に感じ取っている。背徳的であった。甘やかであった、神経質なこの男が急所を曝して眠る、その無防備な姿を眺めていられる特権というのは。私は笑い出したい気持ちになり、とうとうそれを堪えなかった。
 この世に神が在るとして、考えてみれば、この人に罪のないはずがないのだ。寧ろ彼ほど罪深い人はそうそういないだろう。蓋し、原罪の本質とは、自らを神とすることだ。人類最初の男が神に叛き、知恵の果実を呑み込んだように。善悪の判断を己に委ね、その意志にのみ従うこと。誰に指針を求めることもない、差し延べられる救いの手を決して待たぬ彼の(きよ)さは、神の加護から最も離れたところに佇む。無垢ゆえに美しいのではない、美しいのは人たる彼の血の通った苛烈さだった。
 閉じた目蓋を縁取る繊細な睫毛の先が震える。今しも見開かれんとするこの目蓋の向こうに、いつか私を看取る瞳がある。


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