やがてやさしさに蝕まれ




※子供が出てきます。


 トスが得意でないというのは、とても貴方らしいと思った。
 それは若利くんのもつ他のスキルや同じトップレベルのバレーボールプレイヤーと比較した時の話であって、勿論並大抵の技量とは比ぶべくもないけれど。薄水色にぼやけた空の下、父親としての彼が初めて放ったラバーボールの行方を見守る。幼い子供にとらせるには些か鋭い軌道だろうか。五号球よりもひと回り大きな軟球は、行手を阻む空気の抵抗に頼りなくぶれながら、いっぱいに伸ばされた両腕をすり抜け、後方の芝生に柔らかく弾んだ。
「すまない、少し高かったな」
 幼い息子は気にしたふうもなく、彼自身まで転げるかのように夢中でボールを追いかけていく。多忙な父との時間は貴重で、外で一緒に遊ぶなんて経験がないものだから、もう何をしたって楽しいのだ。若利くんの目元がふ、と緩む。大方、ボールを拾い上げる小さな手の、あのふっくらとした様をもみじ饅頭などと称した友人の言葉でも思い出したのだろう。如何にもやわく、未発達で、庇護欲を擽る子供の手だ。息子はボールをそのまま投げ返すことはせず、父の仕草を真似て一旦宙へ放ると、拙いオーバーハンドパスを試みる。が、空振り。まるい額にぽこんとぶつかったボールが、時折不規則に弾みながらこちらまで転がってきた。屈もうとする若利くんをやんわり制し、今度は私がそれをする。ふわりと浮かび上がったボールはゆるやかな放物線を描いた果てに、五指を大きく開いて構える幼子のてのひらに吸い込まれていく。若利くんが少し意外そうに眉を上げた。
「バレーでお前に負けるとは思わなかった」
「バレーじゃないよ。こんなの、ただの遊びなんだから」
 なんでもないように言いながら、声は弁明じみた色を隠しきれない。内心、当然だ、と思っていた。子供にとらせるトスなんて、彼は不得手で当然だ。
 隣に佇む若利くんの恵まれた巨きな体躯を見上げる。王者。彼の所属するチームに悉く、或いは彼自身を指して、使われてきた称号だった。その名を冠するに相応しい風格が肉体だけでなく内面からも滲み出ている。ずっと、最良のセットアップを献げられる立場にあった人だ。彼にとってのトスは自分が打つものであって、誰かに渡すものではない。これからもそうあるべきだと思う。
 息子が懸命に返したボールが、触れれば歪む不確かな輪郭を備えて、覚束ない軌跡で、若利くんの足元を目指している。彼の触れるべきものではない。先んじて屈んだ私の目の前で、しかし硬く筋張った強者の手が鷹揚な所作でそれを攫う。
「練習させてくれ。普段なかなか家族の時間を作れていない。“遊び”というものに、俺は不慣れだ」
「……出た、真面目。世界の牛島選手なんだから、父親らしくとか考えなくていいっていつも言ってるのに」
「いや……。お前たちのためという以上に、これは俺自身の望みだな。自分勝手かもしれないが」
 子供用のボールを弄ぶ自らの左手を眺めて、懐かしむように目を細める。その温かな視線を我が子へと注ぐ時、彼の横顔はもはや誰もに仰ぎ見られる絶対王者などでなく。
「昔、父にバレーを教わった。俺もしてみたいと思ったんだ」
 ぎこちない手加減に軸を揺らし、弱者のためのやさしいトスは殆ど飛距離を延ばせない。不恰好にも墜落すれば駆け寄ってきた息子に笑われ、珍しく決まり悪げに「難しいな」などとぼやく。その声色すら喩えようもなく穏やかで。胸を締め付けられる心地がした。まるで深夜のドキュメンタリー番組が牙を失う象の進化をリポートしていた時みたいに。
 誰にもトスを譲らない貴方であってほしかった。いま我が子と視線を合わせるために片膝をつき、そっと頭を撫でるべく天賦の左手を翳している。彼は既に父親だった、不可逆的に。遠からず、子供に合わせたままごとのバレーをも体得してしまうのだろう。


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