桃と卵
【侑】いずれ孵卵の刻はきて




 卵が恐ろしい。中身が分からないからだ。いつか私が呟いたとき、侑は冷蔵庫の前でぽかんと首を傾げた。「割ったら大体、黄身と白身が出てくるやん。それか……なんかの雛?」侑があまりに悪意なく目をまるくするものだから、私も毒気を抜かれ、ひとまずその場は適当に、まあそうかもしれないと首肯してみせたものだ。もっとも、あれはそら言だった。

 卵は内に企みを秘める。みな一様に、一見して無害そうな輪郭に覆い隠されてはいるものの。実のところ、ただ硬質な殻を破り出んとのみ欲する卵核が何者であるかなど、割り開かれる刹那まで、ほんとうには分かり得ないのだ。

 侑が服越しに撫で上げる肌の、いびつな半楕円の膨らみ。下腹にかけて鈍角に広がりゆくなめらかな起伏は忌み嫌う鶏卵によく似ていた。

「目立ってきたなぁ。そないに細こくて妊娠とか、正直ほんまかいとか思とったけど……こんくらいなったら流石に分かるわ」

 貴重なオフにソファで寛ぎながら、侑は飽きもせずその形を確かめている。神秘に触れた子どものように、円い声でしきりに不思議がる。おるんよな、ここに。俺とおまえの。すごいなぁ。え、単に肥えたわけやなく、やんな?紛れる失言を軽く小突けば、やり返せない侑は神妙に口を噤む。それでも往復し続ける大きなてのひらが胴回りを離れる気配はない。あの侑が私に触れる手つきとは到底信じ難い、恐るべき繊細さで以て、幾たびも撫で摩る。生命を秘してしずかに歪む曲線を、何を隠しているかも判らぬ悍しき胎を、愛おしげに。

「……ねえ、それ、バレーボールじゃないよ?」

 思わず零すと侑は驚いたように顔を上げ、それから眉を下げて破顔した。

「わーっとるわ、アホ」
「本当に? ボール触ってるときみたいな顔してた」
「ほぉ? そらお前、どういう意味か分かって言うとんのやろな」

 皮肉のつもりだった。侑はしかし、拗ねた形に尖らせた妻の唇に気付きもせず。おどけて胸を張ってみせ、二の句は的外れに得意げだ。

「バレーしとるときと同しくらい高揚しよるってことやろ、こいつが生まれてくること考えると」

 あの宮侑が、だ。
 屈託なく向けられる勝気な笑みに何か意地の悪い気持ちになった私は、内心密かに付け足した。バレーボールのことしか頭にない、自分が楽しく遊ぶことを第一としてきたひとでなしへの、決して表出させぬ意趣返し。

 たぶん、少し温度差のある認識をも見逃したまま。未知への期待に声を弾ませ、きらきらと遠くを見詰める侑はどこまでも無邪気だった。バレーボールと同じくらい夢中になれるという予感、それをはじめてのよろこびであると言う。裏を返せば妻と定めた女にさえ、それを齎すことは叶わなかったのだと。

 そうやっていつまでも子どもじみて。脇目も振らず享楽に耽る男の、とりこぼした人情を埋め合わせることが片割れとしての責務のつもりであったのか。私を組み敷くときの彼の人は、いつも瞳の深いところを覗こうとしていたように思う。私が侑に語らぬ中身を、或いは単に暴こうとしていたのかもしれない。

 私が畏れる未知を彼らは嗜好する。夫の前で強情に鎖していたものを、自分にさえ分からぬ腹の底を、彼の人の手で引き摺り出されるときに私は安息さえ覚えていた。彼の人の腑には関心のないまま。己の寂しさを言い訳にし続けた罪に対する、あれの本質は罰だったのだろうか。

 侑が帰ってきたら、と。彼の人は低く囁いた。「侑にも同しこと、させたればええだけや」侑が遠征で家を空けた晩のことだ。どうしてその一夜が選ばれたのだろう、計略か気紛れか、訪れた彼の人は避妊具を持っていなかった。
 隔てられぬまま交接する雄雌器を外皮越しに撫ぜながら、拒絶に身動ぐ不貞の女を揶揄う温度のない嗤い。彼の人らしくもなかった。「まあでもしやんかったとして、あいつ、判ると思うか?」暗がりで私を見下ろす瞳に閃く、冷たく冴えた光。眦を愉悦に歪めるとき、その貌は益々にして夫との区別を曖昧にする。「侑はお前んこと見よらん。自分がいつ出したかだって、覚えとらんに決まっとお」正気の余地もなく揺すられて、果てには胎の奥に塗り込まれて。はらはらと私の頬を伝った涙を、彼の人は恍惚と舐めとった。


「「なあきっと、俺に似た子がうまれるで」」


 不意に。耳元にそよと吹き寄せた風に息を呑んだ。見渡せど、そこに悲痛な夜はなく。清潔なリネンのカーテンが、午後の白い光を滲ませて揺れている。

 何もかも夢だったのかもしれないと唐突に思った。今はじめて目覚めたかのように。瞬くうち、ほろほろと、既視感が指の隙間をすり抜けていく。茫然とする私の瞳を覗き込み、優しいだれかのように侑が微笑っている。──いけない、気付いてしまう。

 本能的に危険を察しながら、とうとう目線を逸らせなかった。胸の底に芽吹く欲、侑の瞳に自分が映り込むという可能性に。バレーボールにのみ向けられるものと割り切っていたその執着が、自らを振り返るその悦びに。

 それらはそうやすやすと失われるものではないはずだ。少なくとも、私が“彼の子”を身篭っている限りに於いて。

 おずおずと、腹に添えられた手に手を重ねて応えてみせると、侑は瞠った瞳をすぐに穏やかに細め。(振り払わない、)それから余らせていたもう一方のてのひらで、この手の甲を包み込んだ。(侑が、私を見ている。)やわらかな熱を帯びていた。

 きりり、締めつけられた胸から迫り上がってくる、幸福に息を詰めて咽び泣く。呑み下すべき許されない願いが喉元につかえ、灼けつくようだった。

 生まれてこなければいい。元がどちらの種とも判らぬ“侑と私の子”の重み。ずっとここを、この淋しい空洞を、背信の質量に代わって満たし続けてくれたなら。

 浅ましいことを自覚している。にもかかわらずこの仮初のさいわいに縋りたがる、何ひとつとして明かさぬままに。泣き崩れる妻をごく自然と抱き留めた夫の腕に、咎なきが如く甘んじたこの日の私を、良心は延々と責め苛むだろう。日ごと緩やかに卵へ似寄り、いずれ罅割れるこの身を以て。

 げに疾しきは、ただ在るままに外界を志向する封じ込められた何某に非ず。其を守るふりをして円く粧う、脆く臆病な外殻であると──……。


(桃と卵3/3)


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