桃と卵
【治】桃源の胎動





「果物やったら食えるやろか思て」

 気遣わしげに此方を見遣りながら、帰宅した治はスーパーマーケットの袋から掌大の果実を取り出した。まろく、どこまでも角を持たぬその輪郭は、淡い産毛で縁取られており。滲み色付く薄皮は乳白色の肌の内に生々しき血潮を秘めるが如く。桃、と喉を鳴らす私にやおら微笑みかけ、「せやで。すぐ剥いたろな」治は台所へと向かった。自ら目利きした桃を彼は、それは丹念に洗うのだろう。少し考えて、私はベッドを抜け出した。

「なんや、寝とったらええのに」
「別に体調悪くない。たぶん、家事だってできるし」
「それはアカン。食欲あらへん言うとるやつを、俺は平常とは認めん」

 このところ、夫は少し過保護気味だ。特に、何も食べる気が起きないとはじめて告げた日の狂乱ぶりときたら。食に何より重きを置く彼にとって、つわりは重篤な病らしい。頑なに首を振る深刻な面差しに、それなら家事は控えるけどと苦笑をこぼす。

「でも、治が料理してるところ見ると、食欲湧くから」
「……まあ、見とるだけならええけども」

 治は宙から探り当てたレバーハンドルを捻り、水流を小気味良く絶ち切った。冷たい流水にさらされた桃の実は引き締まり、殊更張りの出た表面に水滴を弾き返しては、如何にも瑞々しげに艶めいている。片手で水気を払いつつ、案外無骨な彼の手がステンレス製ナイフスタンドから包丁を引き抜く、胸のすくような鋭い音色。

 最初に治に惹かれたのは、美味しそうにご飯を食べる姿に見惚れてしまったのがきっかけ。この世全ての幸福を頬張らんばかりのその食べっぷりは、勿論今だって大好きだ。けれど、日々発見を重ねてきた数多ある愛すべき要素の中に、後年一層際立ってきたものがある。治がはたしてそれに気付いているのかは定かでないが。私は料理をする治を傍らで眺めることがこの上なく好きだった。

 治は器用に包丁を滑らせ、やわらかな外皮に引っ掛けると、見る間にそれを取り去った。すっかり暴かれた繊維質の潤みが手際良く圧し切られるたび果汁を洩らして匂い立つ。思わず息を呑むほどの芳しさに、治もうっとりと唇を舐め潤している。

「見い、美味そやろ。俺が選んだんや」

 思うに彼の目に留まることは、食物にとって至上の栄誉なのではあるまいか。情熱を以て向き合うゆえに、彼に視線を注がれる食べ物は何であれひどく魅力的に見えた。桃を剥く、それだけの行為にさえ、神の腹を捌き、取り上げた嬰児を掲げるかのような、いっそ危ういまでの美しさを宿す。

 ああこれなのかもしれないと、一体何度過ったことだろう。治の愛し方が、彼の愛するものを悉く、こんなに眩しく見せるのであれば。私を乱暴に組み伏せるあの男の手を思い出すとき、幾度も繰り返された意図の解らぬその行為の理由付けとして行き着く仮定。仕様がないのだ、私も治に愛されている。そんな風に自己暗示的に刷り込んで納得するほかなかった。その感覚は赦しよりは諦念に近い。

 無意識に下腹を撫ぜる私に視線を送り、何も知らない治の声は幽かな笑みを含んだ。
「食欲湧いた?」
「……うん」
「そらよかった。食えるもん食うた方がええ、」
 愛おしげに目を細めて、治が継ぐ言葉を私は知っている。
「もう、一人の身体やないんやから」

 治は私が宿したいのちを、当然、己が子と信じて疑わない。

 沈黙のうちにも、果肉の内に満ち満ちていた澄みやかな体液は、割り開かれた傷から際限なく湧き出でて。長く筋張った指に絡み、てのひらを溢れ、手首に浮き出た細い骨に沿って伝い落ちていく。ああ、余所見してもうたなぁ。のんびりとぼやいて、治の赤々とした舌が、肘の内側を今しも滴らんとする雫を捉え、そのまま這い跡までも貪欲になぞり上げた。
「お前も味見するか」
 差し出された光まみれの両の手は料理を能くする、誰より愛する人のものであるはずなのに。切り分けた果実を捧げ持つ形に見覚えのあるわけは、ボールを送り出す彼の人の手つきをそのままひっくり返したかのようだからだと、絶望的なほど容易に思い当たってしまう。

 綺麗に解らされたひとかけらを摘んで口の中に放った。じわりと舌を麻痺させる果汁の濃さ、熟れた食感。喉から躰を滑り落ちて、やがて胎盤で繋がる彼の子に届く。

 ガラス器に整然と盛り付けられていく桃の身は、八つ裂きにされたみどり児のように、甘やかな蜜を垂れ流している。


(桃と卵2/3)


 | 

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -