種子なら疾うに




※オメガバースパラレル


 幸運にもなまえは長らく名目ばかりのオメガであった。中学校を卒業する歳になっても一向に発情期がこなかったのである。お陰様で学校も部活まで元気に皆勤賞。行政の規定により、学校からはオメガ側にのみアルファの生徒情報を共有されたが、お互い興味を抱くことすらなく。念のためにと常に携帯させられていた抑制剤だっていつも知らんうちに使用期限切れてるし。なまえは特に感慨もなく、複数発見されたそれらを掌に握り込んで潰す。三年間を共にした制服から発掘された、圧縮されすぎて小石と化したレシートだの、いつのか分からん菓子の包みだの、そういったものたちとまとめてゴミ箱に突っ込んだ。そりゃ彼女だって、診断結果が出た当初は口酸っぱく言われたものだから一応いろいろ気をつけてはいた。でもガサツが極まりすぎて、今やあんまり覚えていない。なまえは思う、自分がオメガであることなんて身体の方も忘れかけてるんじゃなかろうか。もはやオメガらしくなるよりも診断結果をベータに訂正した方が早そう。
 まあそんな感じで日々を過ごし、バース性に足を引っ張られることなく競技を続けられたのは彼女にとって僥倖だった。小学生のころ幼馴染に誘われて始めたバレーボールはなんやかんや好きだったので。
 スポーツに於けるオメガ性のデメリットは顕著だ。周期的に訪れる発情期で本人は練習もままならず、発情抑制剤だって効能が不安定なうえ身体機能を低下させる。そもそも他者を惹きつけるという特性自体トラブルの種でしかない。片田舎の公立中学程度の規模では問題なかったけれど、進学先の鴎台高校はよりによってバレーボールの強豪だ。バースが能力の全てを決定するわけではないが、一般論としてトップレベルにはアルファ性が集まりやすい。まあ強いのは男子の方らしいけど、何にしても有望な選手たちと一介のオメガとのいざこざなどもってのほか。もしなまえが一度でもヒートを起こしていたならば女バレへの所属すら許されなかっただろう。干物女サマサマだ。
 なんかこの先一生こんな感じでずるずるやっていけたらいいな。ていうかやっていけそう。性別如きに振り回されず、誰とも番いになんかならずに。
 環境が変わるんだからいつも以上に気を張れという担当医の忠告も中学に上がる時と同じ内容だったのでついつい聞き流し、なまえはどこまでも楽観視する。なんなら高校から送られてきたアルファ生徒の名簿にも目を通さなかった。相手の名前だけ知ってたってしょうがないし、たぶん関わることないし。まさかその中に自分の番いがいるなんて思いもしなかったし。


 蓋を開けてみればなまえはしっかりオメガだった。発情期がこなかったのではない、誰か運命の相手を待っていたのでもない。なんと既に番いが成立していたのだ。そんなことある?
「思い当たる節、俺はあるけどねぇ」
「マジ?」
「うん。ふざけてなまえの首噛んだ記憶あるもん」
 あるらしい。まあ現に、何ら物的証拠を示されたでもなく、仮入部で訪れた体育館で鉢合わせた瞬間から二人は互いを番いと分かった。どうしてと言葉では説明のつかない、所謂本能ってやつだろう。この背の高い優男風の同級生が中学進学と共に疎遠になった幼馴染だとなまえが気が付いたのはそれから一拍遅れてのことだ。
 変わらない、というよりは。印象としては寧ろ、記憶の末尾にあるものよりも幾分幼くすら思える。なまえは部活終わりに合流した昼神幸郎をまじまじと観察する。どうせ帰路は同じだからと学校では各々新たな部内での交流を優先した。だからまともに向き合うのは今が初めてだったが、路線バスで隣に乗り合わせ、腰を落ち着けてよく見てみれば、なるほど一瞥して彼と気付かなかったのも無理はない。かつて成長と共に形を変えていったはずの生来のものを彼は取り戻していた。たとえば高学年の頃に刈り上げてしまっていた栗色のやわらかな癖毛だったり。バレーにのめり込むうちに見る機会の減った柔和な角度の眉だったり。
 けれど幼い頃当たり前にあったそれらが当時失われつつあったのだということに、なまえは今の今まで気付いていなかった。ある意味で、知らないうちに彼は変わった。生き方の方向性というのだろうか。無意識に己の頸筋を摩る。バスが悪路に差し掛かったタイミングで、なまえは声をひそめた。
「……いつ?」
「ん?」
「噛んだのって、いつぐらいのこと?」
「んー、たぶん四年生くらいのときかな。ほら、コーチの食あたりでクラブが休みになって、うちの犬の散歩がてらちょっと遠くの公園行った時に」
「えぇー……あんま覚えてないんだけど」
「なまえがコタロウにじゃれて甘噛みとかするからさぁ、俺が仇討ちって感じで」
 ありそうな話だ。犬と同レベルの遊びで転げ回るバカガキの姿が容易に思い浮かび、なまえは頭を抱えた。バース性の発現は平均的に第二次性徴期、小学校高学年頃とされている。健診時にバースの検査を行ったのは小学五年生だったと記憶しているので、ギリギリその前か。色気もクソもねえ。つまるところただの事故。
 なまえは昔から記憶力に難があったよねえ。他人事じみてのんびりと幸郎が続ける。口角こそ上がって見えるが、この状況をどのように捉えているのかはいまいち読めない。通路側に座る彼の視線は現在ではない時間を辿るかの如く空を漂い、それが時折蕩けるように甘やかな色を帯びるものだから、なまえの方は釘付けになっていた。薄暗い車内で、外からの強い光に黒々と浮かび上がる、目鼻立ちのはっきりとした横顔の輪郭。間違いなく幼馴染の面影、けれど見たことのない顔だ、と思う。
「俺は人間だから結構印象に残ってるよ。ふざけ合いがいきすぎて噛み付いちゃうとか、流石にね。野生じゃよくあることなのかもしれないけど」
「ねえその話さ、前提として私が野獣だったりする?」
「普通の女の子っぽくはないよね。それでもちゃんと女の子なのがすごいところなんだけど」
「なに急に、女とか」
 平静を装って受け答えをしつつ、なまえは密かに息を呑んだ。何てことない応酬の中にもなまえの知らない幸郎がいる。一緒にボールを追いかけた幼馴染は、少なくともこんな平然と毒を吐く少年ではなかった。そもそも県一の名門でバレーボールをすると勇んで寮にまで入った、あの健全な情熱はどこにいったのだろうか。なまえは幸郎の三年間を知らない。彼がふと睫毛を伏せる度、陰を落とす瞳の昏さにぎくりと背筋が伸びる。
 番い。自分とそうなる人がいるなんて考えたこともなかったけど。今なまえを“女の子”だなどと言い捨てた、彼がそうなのだ。なまえは、かつて幼馴染であったその存在を形容する言葉を脳裏に探る。男、アルファ……なまえの知らない何か。急勾配をのぼる車体が大きく揺れるたびに思い知らされた。自分の肩が接触する高さが精々彼の二の腕あたりであること。その筋肉質な硬さ。幸郎は昔から長身であったが、体格差に緊張を覚えるのは初めてだ。横にいる限り否が応でも性別を意識させられて、居心地が悪い。不意に、どこか茫洋としていた幸郎の瞳がなまえに焦点を合わせた。静かに見下ろされている気配に思わず身をかたくする。喩えるならば猛禽類に睨まれた獲物の心地。心臓が耳の裏に移動したのではと疑うほど鼓動がうるさいのに、いつの間にか途絶えた会話の、数分にも及ぶ沈黙は鼓膜を狂わせそうだった。どうして窓側に座ってしまったのだろう。なまえは後悔する、この位置取りでは物理的にも逃げ場がない。やがて幸郎の手がゆっくりと伸ばされ、咄嗟に目を瞑ったなまえの顔――の横にある降車ボタンを押した。次、停まります。淡々としたアナウンスに唖然としていると、頭上で思い切り吹き出す声がする。
「……あのさぁ」
「あはは、ごめんごめん、からかい過ぎた。女の子扱いされるの、相変わらず苦手なんだね」
「ほんと勘弁してよ、センシティブな問題なんだから」
「うわあ、難しい言葉知ってるねえ。全然変わらないと思ったけど一応成長はしてるんだ」
 二人が降りるバス停は同じだ。なまえは幸郎を強めに小突き、追い立てるようにしてバスを降りる。この後の道のりも殆どを共にするというのにあんな醜態、暴力にでも訴えなければやってられない。ああ、なにもかもが癇に障る。春とはいえ冷たく冴えた宵の空気が頬の熱を意識させるのも。どれだけ蹴っても殴っても相変わらずへらへらと締まりなく笑っている幸郎にも。クソこいつ、昔だったら絶対やり返してきたのに歯牙にもかけやがらねえ。
「……言っとくけど、番いだからって変なことさせないから!」
「変なことって具体的には?」
「は、はあ? 具体的にって、だからそんなん……女扱い、みたいな?」
「具体性に欠けるなー」
「ッ!」
 負け惜しみの捨て台詞さえあっさり潰されなまえは歯噛みする。年頃と言えど恋愛偏差値ビリギャルレベルのなまえには、番い、或いは男女のあれそれなど正直モザイクの向こう側の出来事だ。具体的な単語など、冗談まじりに口に出すのも憚られるほどだった。まして、無縁と信じていた自分が当事者になるなんて。
 一方、幸郎は少しも動じていない。どうせ私を見下して面白がってるんだ。彼女の卑屈な心持ちに反し、なまえ、と呼び掛ける幸郎の声は存外馬鹿になどしていなかった。優しげでさえある。なまえは羞恥のあまり潤んだ目だけを動かすようにして、そちらに視線をやる。幸郎は穏やかに微笑んでいた。
「大丈夫、なまえの嫌がることはしない。これでも理性には自信あるし、心配しなくても俺からは手出さないよ」
 丁寧に含めるような物言いに毒気を抜かれる。途端になまえは彼の表情に見覚えのある気がした。幼い頃、そうだ、あの頃の幸郎は自分と同じくらいのやんちゃで、だから物珍しかったんだ。芝生になまえを組み敷いた彼の、三日月型に歪んだ目元。恍惚か慈しみか、その微笑は喩えようもなく甘やかで。記憶に呼応するように、朽ちかけた百合にも似た濃密な香りが鼻腔を擽った。一面芝のあの公園にはそういえば目ぼしい彩りなどなかったのに、確かに覚えがある。
 あ。これ、幸郎のにおいだったんだ。
 ぼんやりとそんなことを考えながら、彼女は気付かない。口腔に溢れた唾液を口端の微かな隙間から洩らし、自分がどれほど熱っぽく番いの男を見上げているか。身体中の血が沸騰するなか、頸に疼痛が甦る。少年の歯並びのかたちをして。
 なまえは惹き寄せられるまま、夕陽に手を翳すのに似た仕草で幸郎の頬の輪郭をなぞった。求められる行為をわかった上で、幸郎はそっと身を屈める。唇はまず彼女の耳元に寄った。「なまえの嫌がることはしない」静かなルールの宣告。制約付きのゲームを愉しむように、吐息は笑みを含んでいる。
「全部、なまえの合意のもとでしてあげるね」


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