モイラの糸を引きちぎる




※オメガバースパラレル


 元来饒舌な人ではないが、それにしたって珍しい類の沈黙だ。重苦しい、というよりはいっそ穏やかであるかもしれない。無垢で、純粋。まるで肩書きやイメージというあらゆる鍍金を剥いだ先にある、彼の心そのもののような。まさに意表をつかれたといった感じで、会話は途切れたままだった。
 先ほど一度きり吹き込んだ青嵐にとっくに掻き回されたはずの言葉尻が、この1Kのどこかに未だ溶け残り、仄かに匂い立ち、私たちはただその空気を嗅ぎ取るように呼吸している。レースカーテンの襞を模った陰の畝り、或いはさびしい光の波に包まれて。この凪は、私の発言を最後に訪れた。それ自体はよくあることながら、問題はこれが彼の──圧倒的強者ゆえ常に迷いなく歩むあの牛島若利の、恐らくは返答に窮した結果であるということだ。

 ──運命の番いを見つけたの。だからもう若利くんとは一緒にいられない。

 突然頬を張られたとして、彼はこんな顔をするだろうか。いつものことながら、彼の表情筋は感情を大きく写し取ることはないけれど。それでも精悍な印象の眉は普段よりほんの少し上がって、吊り目がちの鋭い眸は、動揺に揺れるほどではなくとも、微かに瞠られているように見えた。
 申し訳なく思うと同時に胸のすくような心地もする。私たちは男女であったが、二人してアルファでもあった。幼い時分、無邪気に将来を誓い合った頃には知り得なかったバースの性質。そして支配者たるその性を同じくしながらも横たわる、断絶と呼んで差し支えないほど決定的な格の違い。一般に、アルファ性同士の交友関係はその生まれながらの好戦的な気質、高い自尊心の衝突により破綻しやすいという。にも拘わらず私達が二十余年を幼馴染として、剰え恋人という関係性をも問題なく継続できたのは、ひとえにこの牛島若利という人物が、挑む気さえ起きぬほど圧倒的に、抜きん出て優れたアルファであったからだ。
 人生の殆ど始まりの頃から牛島若利が傍にいる。しぜん、アルファというよりも、女としての振る舞いが板についた。巨樹の陰に芽を吹いた不運な痩せ木のように。そんな日々に甘んじながらも、心の奥底にずっと、敗北を良しとしないアルファの本能は息衝いていた。私の根は、枯れ腐ってなどいなかったのだ。先日出会ったオメガ――運命の相手が気付かせてくれた。まさしく天啓として。
 隣を許されながらもずっと引け目を感じていた相手に、別れを突きつけて、僅かばかりでも動じさせて、アルファとしての私は確かにこの状況を喜んでいる。初めて彼に拳が届いた。そんな高揚。

 からん。溶けかけた氷の小気味良い崩壊で、口をつけずにいるアイスコーヒーが存在を主張する。けれど今、それは少しも問題にならない。あの最後の一音から、一体どれだけの間、私は彼の言葉を待っているのだろう。気を抜けば爪先から血が抜けていく眩暈と、静寂に似た耳鳴り。無論、盛夏の日中に静謐などあり得ない。真白い遮象カーテンと網戸だけを隔てて、大気を泡立てる蝉の声や、葉擦れのさざめき、何事か沸き立つ子供たち、すべての夏の音に目まぐるしく揺り動く外気と今も地続きでいながら。その一切を締め出して、今ここにあるのは沈黙。視界には、たった一人のひと。この期に及んで、この人が口を噤むだけで、私の世界は遍く音を失うのだ。けれど。私は深く息を吐いた。それも今日まで。彼がどれほど別格に優れた存在だとしても。彼に傅く女ではない、アルファとしての生き方を選ぶ。私は、揺るぎなく私を見据えたままの彼の眼を、決意と共に見つめ返した。

「……驚いた」

 百年も続くかのような、実のところほんの一分にも満たない沈黙の末、彼は言葉を選び取る。そして考え込むように眉を寄せては再び押し黙った。おどろいた。私はその動詞を胸の裡にのみ復唱する。驚く、というのは、しばしば彼の心の機微を肩代わりしてきた単語であった。
 天童ならば指摘するだろうか。ふと、遠い地にいる友人の声が耳の奥で愉快気に弾む。若利くん、それ驚いたとは違うんじゃない。ひとつの畏れもなく彼を指差し、けらけらと笑いながら、誤りであると断じてみせる。天童はしばしば、牛島若利の感情をより適切に言語化しようと試みた。そんな場面を見かけた当初、ひどく衝撃を受けたものだ。天童はベータだった。私はアルファでありながら、彼の言葉のなにひとつとして否定できた試しがない。今も、咄嗟に何も言えずにいる。たぶん劣等感を通り越して、刷り込まれた信仰に近かった。
 嫉妬、羨望、屈辱、傷心。若利くんは知らない。凡愚を掻き乱す多くの情緒、そのひとつひとつに与えられた名前を。さながら人の情に首を傾げる絶対者の如く。遥か天上を舞う猛禽類に、踏まれて潰れる虫螻と同じ視点を持てというのが土台無理な話だろう。“気にせずとも生きられる”という強者の特権は彼の心を正しく無垢に保っていた。少々無神経と言えるくらいだ。
 私はたったいま彼が驚きとして処理した感情に想いを馳せた。まさか傷付いてはいないだろう。何かしら刺さってはいるとしても、そもそも彼が真実私を愛していたとは思えない。律儀な彼のことだ、恋人という名目など幼い約束の遂行か、或いは“所有物”の呼び変えに過ぎまい。とすれば、反故にされた怒りか。否、この人に限ってそんな器の小さなこと。軽く伏せられた鳶色の瞳は深く、私にはその底に沈んでいる真意を汲み上げることは叶わない。天童のように聡くはないのだ。結局、与えられる言葉を待つばかり。
 ややあって、何か緩慢な咀嚼を終えたかの如く、彼は口を開いた。「何故だ?」簡潔な疑問だけが吐き出され、今度は私が瞠目する。唖然とした。なぜ?なぜって、何に対して?
「すまないが、考えてみても分からなかった。お前が誰かと出会うことが、どうして俺と別れることに繋がる?」
「……若利くん、運命の番いって知らない?アルファとオメガの間で、遺伝子的に最高に相性がいい組み合わせ。出会ったらその時点で、もう避けようもなく惹かれるの」
「いや、それは知っている。訊きたいのは、俺よりもそれを選ぶつもりがあるのか、ということだ」
 言いながら、実にさりげない所作で、テーブルを挟んだ向こうから逞しい腕が延ばされた。出会っただけで、まだ番っていないな。確信的な呟きと共に、全てを見透かした手つきで、その乾いた親指が唇の端に触れてくる。皮膚と肉を隔てて丁度犬歯のあたり。オメガの頸を咬むための、アルファに顕著な鋭い牙。顔を背けようにも、押し込むほど力強く追従され、そこで初めて悪寒が走った。若利くんはいつもの淡々とした調子を崩さない。なのになにか、嫌な予感がする。
「俺がいるから、相性のいいオメガを前にしても理性を保った。お前は選ばなかった。この先も変わらない」
 泰然と告げる彼の中に渦巻く感情の種類は依然として読み取れない。しかしその瞳に反射する、蒼褪めた女の方は明白だ。畏れ。そこで震える声を絞り出させたのは、皮肉にもその無力な“女”を殺したいという私自身の願いだった。ちがう、と。アルファの私は反論する。
「これから変える。あの人と番いになって……ッ若利くんには、バレーがあるでしょ?世界のトップレベルで戦えるくらいすごい。でも今の私には、何もないから」
「俺がいるだろう。他に何か必要あるか」
「……私だってアルファとして、自分の力で生きてみたい」
「話にならないな」
 瞬間、ひゅ、と喉が鳴り、私は数秒前の悲壮な覚悟が虚しく砕け散るのを感じた。彼の長い中指が頬骨を捉え、逃げ場なく、犬歯を圧力に軋ませてくる。加減された痛みのうちに今更思い知る。ずっと卑屈に仰ぎ見ていたつもりで、彼が自分と比べてどれだけの高みにいたのか、ひとつもわかっていなかった。たとえばこの人の意思ひとつで、私の犬歯など簡単にへし折れるということ。不意に命を、運命を握られる感触が背筋を凍らせた。
 私がアルファとして生まれついたことなど、彼の前では何の意味ももたないのだ。
 それを十分に理解させてから、彼は指の力を緩める。そのまま流れるように後頭部を掴み、有無を言わさず引き寄せた。口付けるためではない、単純に頭を下げさせようとして。抵抗の余地もなく、私はその惑星の軌道にも似たベクトルに随う。
 視界を奪われる刹那、私は彼の目を見た。そして気が付く、感情など推し量る必要もなかったのだと。自分が彼と同じアルファであるなどという傲慢を棄て、身の程を弁えて覗き込めば、彼の瞳に秘密などない。無垢で、純粋。そこにはそれだけ。私と対峙する彼は真実そのもので、ただ本来あるべきように導いてくれていただけなのだ。
「運命は関係ない。お前の番いは俺だ」
 テーブルに額を伏せるかたちで抑えつけられ、私はその宣告を頭上に聞いた。巨きな掌を介して頭骨にまで響く低音は重く、二人ともアルファだなんて、番いになり得ないなんて、論じる気すら起きないほどに。
 もしも。アルファとオメガの結び付き、人間という動物の習性として理解されているそれが、文字通り運命、神の定めた摂理なのだとしたら。それを上書きする存在を、一体なんと呼び崇めるべきだろう。
 若利くん、と小さく呼べば、応えるように接触する。頸の皮膚が、突き立てられた鋭い犬歯に食い破られる感触。文字通り肉を抉られる激痛の奥に、何か甘美なものがある。痛みに悶え、喘ぎながら、私は陶酔をも貪っていた。本来アルファが味わうはずのない、相手に全てを明け渡し支配されることの恍惚、その絶頂。溢れる涙が頬を濡らした。
 窓からそっと吹き寄せた風が涙の跡を撫ぜて冷やす。が、それだけで、今やこの部屋の外に満ちる夏の気配など他にはひとつとしてわからない。若利くんだけが私の世界だ。幸福も苦悩もなく、それは端的に事実である。
 運命だと信じた相手を最後に一度だけ思い浮かべた。最後だ、それはすぐに掻き消される。私はもうあの人には会わない。この先思い返すこともないだろう。
 私の神は若利くんだ。女でもアルファでもなく、あらゆる摂理を塗り替えられたこの身のうちに。ただその揺るがぬ確信と、頸の疼痛だけが残った。


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