一番星と止まり木の詩




 息を潜めて、身を縮めて、与えられる愛が過ぎ去るのを待つ。決して応えてはならない。脳裏に響く警鐘、それは理性という防壁だった。私から彼を守る唯一の。
 額にそっと翳される、自分とは別の体温の気配。寝室のしじまが幽かに揺らぐのに素知らぬふりで空寝を続ける。目は開かない、声も出さない。きっと応えてしまうから。……恋人という特権に甘んじておきながら、なにを今更、とも思う。しかしこれは最後の砦なのだ。
 私から光来に触れることはしない。
 手を握れば枷となり、抱き締めれば重荷になると心得ていた。私は彼のものだけど、彼を私のものにはできない。その構図は私にとって絶対のもの。光来も尊重してくれている。彼は宗教をもたない。けれど、この世にある種の宗教を必要とする人間がいることを知っていた。まるで理解できないと怪訝に眉を寄せつつも。彼は私に赦しを与えた、神の如くに。私の信仰を肯定し、それでも傍に置くことを望んだ。ただ、一番近くで見ていてほしいと。
 そもそも彼に求められたなら、私に拒絶する道理などない。身体の、心の一切を明け渡すことでさえ。私が絶対にその手を振り払えないと知りながら、しかし彼は枕を並べるまでになろうと、依然として不用意に触れてはこなかった。私が彼に触れることを畏れるのなら、自分からも極力触れない。そう決めているらしかった。少なくとも日中、私が起きている間においては。
 いつからか私が寝ついた頃、慈しむように触れてくる掌に気付いてしまった。
 自分のせいとは分かりつつ、いっそ痛ましいまでにやさしい手つきに胸が疼く。ねむる女の髪にそっと触れる癖は、きっと遣り場のない愛情の発露だ。寝台に纏いつく冷ややかな闇から、息を殺して溶け込もうとする私の輪郭を暴き出すように。起こすつもりはないらしい、産毛を掠める程度の距離感を保ちつつ、掌はこなれたなめらかな仕草で暗がりを撫ぜる。
 どうして明かりのない夜の中でも、この人は私を見失わないのだろう。夜気に浸されて同化した陰を、容易に照らし出してしまうのだろう。なんて、愚問だろうか。だって私はいつも、すっかり寝入ったふりをしながら。かたく鎖した瞼の向こうにさえ彼のまぶしさを感じている。色素の薄い彼の髪の、その膚の、身の内に湛えた光の色。彼はあまりに当然に輝くために、自身が光であることに自覚がないのだ。可視光線の全ての波長を均等に混ぜ合わせてできる、白色光の奇跡的な繊細さを知らないでいる。それでいい。彼は、そのままで。けれど私は、それではいけない。
 求めてはならない。
 胸裡に唱えながら眠りにつく。長らくそのようにしてきたから、既に当たり前のことだった。朝、遮光カーテンの端から光が洩れ出すのを合図にそっと布団を抜ける。光来を起こさないよう慎重に。目覚まし時計は彼のために鳴るのだ、私のではない。未だ深く眠っているらしい光来の寝顔はあどけなく、薄闇の中でやはり静かに発光しているようにさえ見えた。その幼子じみて滑らかな額へ、いかにもやわらかそうな髪へ、無意識に伸びかけた手を戒める。六時三十分、彼が目覚める時間に温かい朝食を。「おはよう」と微笑みかける準備を。恋人の振る舞いを許された信者として、自分の為すべきことを数える。
 ただ止まり木でありたい。コートに立たない時間、彼が羽を休められるように。それでいて、飛び立つに惜しみない程度に。

 繋ぎ止めないためにと握り返さずにいた手が、こちらから解くにも都合が良いと思い及んだのは最近のことだ。そんな日が来るなんて想像だにしなかったから、私は自分が逃げ出す時のことなんて考えたこともなかった。
 どうやら光来が結婚を見据えているらしいと、口を滑らせたのは白馬くんだった。

 お盆の時期に合わせて開催されたクラス会はそれなりに集まりが良かった。参加者リストには光来の元チームメイトである白馬くんの名前もあったので、私もずいぶん楽しみにしていた。プロスポーツ選手とは言え、夏はオフシーズンなのだ。光来だって三年時は別のクラスだったため会には出席しないが、連休の前半は各々実家を拠点に過ごすと決めて、私と同じく帰省していた。
 窮屈そうに身体を折り曲げながら鴨居をくぐり抜けてきた白馬くんの登場に場が沸く。光来がいつまでもヘタクソ扱いするので忘れがちだが、彼もまた日本代表にお声がかかるほどの人だ。目を惹く体格や元々の人柄もあってすぐに輪の中心になったから、すっかり人気者の旧友がひと段落つけて私の横に腰を落ち着けるまでには少々の時間を要した。相変わらず大きいなあ。彼の手元にあるとビールジョッキでさえ小さく見えるが、心なしかその恵まれた体躯が縮こまるように丸まっている。昔から目立ちたがりのきらいがあるけれど、散々揉みくちゃにされて流石に辟易したのかもしれない。
「白馬くん、飲まされてる?」
「飲むより食いてえんだけど……」
「うん、ちゃんと食べた方がいいよ。でもアスリートなんだからピザばっかりは駄目。あ、ほらだし巻き卵。卵食べて、卵。あと野菜ね、取り分けてあげるから」
 それにしても白馬くんは、つい構いたくなる人だ。空っぽのままのお皿を見ると老婆心が湧いてしまう。栄養バランスを頭の片隅に置きつつ、でもおなかいっぱい食べてほしくて頼まれてもいないのにおかずを放り込む。白馬くんが軽く笑った。
「なんか手慣れてんな。いつも光来の世話焼いてるからか?」
「光来は私が口出さなくても自分で管理できてるよ。どっちかって言うと五つ下の弟」
「子供扱いかよ!アスリート扱いしろよ!」
 他愛なく軽口を叩き合いながら、白馬くんはいつまでも白馬くんだなあと当たり前のことを思う。彼だって光来と同じ舞台に立つ人なのに、こんなに気安い。光来といるときの私がこれほど締まりなく笑うことがあるだろうか。大皿を引き寄せようと身を乗り出して、白馬くんの身体を掠めた。隣にいるのが光来だったら曝さなかったであろう失態だ。気心の知れた友人同士なら、失態とすら言えない。白馬くんのお皿に一通り取り分けてあげて、小さく息を吐く。覗き込んだグラスに揺れるのは甘ったるいカクテルと、陰気な女の面影。私は一体いつ頃まで、光来に素のままの自分を見せていたのだったか。
「……なんだよ、元気ねえな」
 もぐもぐと口いっぱいにごはんを頬張っていた白馬くんが、たぶん私のつむじを見下ろしながらきょとんと瞬きをしている。見なくてもわかる。仕草のひとつひとつが無垢というか、かわいらしいほどに素直で善良な人だから、心配そうに眉を寄せているのまで手に取るように。しぜん絆されて綻んだ唇で、大丈夫だよ、と紡ぎかけるのに「あ!」と得心の声がかぶさった。思いがけず、口を噤む。
「もしかしてマリッジブルーってやつか」
「え?」
「結婚すんだろ、光来と。そろそろだってあいつ言ってたぞ……って、これもしかして、俺がバラしちゃ駄目だったのか……?」

 鈍器で殴られたような衝撃だった。あれからずっと、頭がうまく働かない。
 私から触れさえしなければ何も問題ないと高を括っていた。
 朝起きて、光来のための朝食を作って。出掛ける彼を見送り、洗濯物を干して、自分も仕事に赴く。部屋の掃除も苦ではない、一緒に住むにあたって家事は一切引き受けると譲らなかったのは自分だ。光来が帰るまでの空き時間には夕食を作りながら、光来の試合の録画や、リアルタイムの配信を観る。彼の活躍を特等席で眺めることを許されつつも一介の信者としての心得を忘れず、粛々と彼に尽くす。そういう今日の繰り返しがずっと続いていくものだと、何となしに盲信していたのだ。
 結婚、したら。それの何が変わるのだろう。表向きにはさして変わらないのかも知れない。私の姓が星海に変わって、もしかしたら左手の薬指に指輪なんか与えられて。
 つけっぱなしにしていた録画から歓声が上がって、思わず夕飯を作る手を止めた。得点したのはシュヴァイデンアドラーズ、見事スパイクを決めた選手がアップで映し出されている。その首元にきらりと光る、あれはペンダントトップ代わりに結婚指輪を通しているのだそうだ。愛妻家のチームメイトの惚気を愚痴りつつも、光来の目元がやわらいでいたのが印象深い。きっと彼もそのようにする。あの神聖な白線の内に私の存在を、己の一部として持ち込んでしまう。
 弾かれたようにリモコンを引き寄せ、電源ボタンを押し込んだ。袖を掠めたはずみで用意していた箸立てを倒してしまい、意味もなく泣きたくなる。あらゆる音が神経に障って、耳を塞いでしまいたい。カトラリーがシンクに散らばる澄んだ音も、墜落した鳥の断末魔のようで。
 聞くに、多くの鳥類は骨の内側に空洞をもつが、その特徴は飛ぶことのない走鳥類などには見られないという。軽いということは飛翔の要件だ。空の高みを知る種ほど身を削り、重さを捨てて進化してきた。空中戦を矜持とする彼は?
 応えるな、と理性が喚く。真夜中に施される愛撫のように、与えられる愛情に気付かないふりをして躱せばいい。……けれど、本当は分かっている。言葉にされたら、きっと二つ返事で承諾してしまうと。私たちの関係に名前がついたときもそうだった。二人で暮らす家の鍵を、受け取ってしまったときも。
 だって今、私は途方に暮れるほどの幸福をおぼえている。
 瓦解しそうな理性を掻き集めて、出来上がった料理にラップをかける。もうすぐ光来が帰ってくる。もし、今日の夕飯時にでも切り出されてしまったら。明日の朝、次の休日。白馬くんに打ち明けているくらいだから、そう遠くないことだけは確かだ。
 焦燥に駆られてペンを取った。浮かぶだけの言葉を書き殴る、光来には非がないこと、探さないでほしいこと。自分の意思で出ていくが、信仰はきっと永続すること。端々に弁明じみて散りばめた、愛とか好きとかいう単語に自嘲する。この言葉が少女漫画の中と同じくらい重たければよかった。人を愛し、愛されることが、世界の全てであればよかったのに。手紙と呼ぶには拙すぎる走り書きに、何か大事なことを書きそびれた気もするが、今は時間がない。次は荷物を纏めよう。元々私物は多くないから、旅行鞄一つで事足りる。
 玄関扉を手早く施錠し、鉄製のドアポストに鍵を落とす。大袈裟に反響する金属音は歪な鐘の音にも似て、呆気なくも取り返しのつかない決断を祝福した。
 二度と立ち入れない楽園に背を向ける。甘やかな夢に満ちた其処に未練がないはずもないが、それでも迷いなく歩き出せるのは、いつかは醒める夢であるとどこかで察していたからに違いない。だから振り返らない。ふと、残してきた書き置きのことが過ぎる。光来に言い損ねた言葉を、ついぞ思い出せなかった。

 生活の全てを光来のために捧げていたつもりで、案外私の暮らしぶりは彼を欠いても変わらなかった。朝起きて、朝食をとり、洗濯物を干して出社する。掃除をして、夕飯を作って、それら全てが自分の生命維持のためになっただけだ。空き時間には相変わらずバレーボールの試合を観ている。光来はどうしているだろうと取り留めもなく考えたりもする。
 家事手伝いがいなくなったら実際不便なのではないか。己の役目もかなぐり捨てて飛び出してしまった浅慮を恨み、そして自分の代わりの誰かがその穴を埋めることを思っては気が滅入った。けれど後釜がどんな人間だろうと、私ほど重くはないだろう。愛を受け取るに相応しい人が、彼の隣に寄り添って支えればいい。光来に必要なのは、物分かりのいい顔をしてその実彼に妄執している信者などではあり得ない。ほんとうに止まり木のように、大人しく彼の帰る場所を守れる恋人だ。
 窓の外には秋が深まりつつある。季節も移ろっていくというのに、どうしても消せなくて、未だに光来との連絡手段は断っていない。けれど、あの家を飛び出した晩に一度メッセージが飛んできたきり、通知は沈黙していた。書き置きが功を奏したのだろうか。自由を許してくれるのが彼らしいとさえ思う。離れるべきだと思う反面、心のどこかでは見つけてほしいと願っていたのかも知れない、自分の身勝手には心底辟易する。欲深い私はやはり彼に相応しくない。傍にいればきっといつか、彼の翼を汚しただろう。
 これでいい、と液晶画面に映し出された選手としての彼を眺める。今シーズンはチケットを取らなかったから、全ての試合をこうして観戦することになる。会場に足を運ばないのは、見つかってしまうと危惧したからだ。少しは自惚れ混じりに記憶を美化しているだろうか。けれど昔から、彼は観客席の私をよく見つけた。人と心が繋がるというのはああいう感覚なのかも知れない。まだ彼に向ける感情がただの恋心であった頃。まだ彼が名もない私だけの星だった頃。彼が私を見ていると確かにわかる瞬間があった。画面越しの中継では、流石にもう叶わないけれど。
 試合が始まれば、果たしてコートの上の彼は、私が家にいようといまいと少しも変わらないらしかった。まさしく八面六臂の大活躍。俺を見ろ、と主張するかのように。私の一番星は誰よりいっとう高く飛ぶ。一番近くで見ていてほしいと、いつか彼に言われた言葉を思い出した。淋しさも後悔も追いやって、溢れるほどの感慨が胸を満たす。大丈夫、傍にいなくたって。きっと私はどこにいたって彼を見失うことはない。だって幼い時分から、どれほど深く冷たい夜闇も彼を阻むことは叶わなかった。どころかいっそう眩しく見せる扶けにすらなってしまう。冬の宵空に灯るひとつぶの凍星、その切り裂くほど苛烈な光さながらに。そんな星を愛してしまった。幸福すぎて、いっそ不幸と呼び換えられるくらいだ。
 この人にもう決して触れられないなんて。
「……見てるよ、」
 呑み下せない想いが口をつく。涙に変わる。堪え切れず、相手コートにスパイクを叩き込んだ光来の背に、チームメイトと喜びを分かち合う横顔に、液晶越しに触れてみた。と、思いがけず彼の視線がカメラを向く。瞬間、時が止まった。
 勘違いではない。画面越しでも確かに、目が合った。
 光来の大きな双眸が、そこにいないはずの私を捉えてますます見開かれ、やがて安堵したように細められる。それで今更のように思い知った。闇に身を潜めても、これほどの距離を隔てても、自覚なく光たるこの人は、どうしても私を見つけてしまうのだ。惜しげもなく私を照らし出して、決して逃がさない。
 そのまま見てろ、と言うように、私をまっすぐ射抜いた瞳を不敵に眇める。時間にして数秒、視線はすぐにボールへと戻っていったのに、打ち込まれた楔は抜けない。折角生殺しで見逃してくれていたのに、逃げ出そうとした罰なのだろうか。応えるな、と繰り返していた理性も信心も粉々に砕かれて、結局私は彼のいるコートに、あの高みに、連れて行かれてしまうのだと確信した。重荷になりたくない、止まり木でありたいと望んでいたのも本心のつもりだったけれど。モニターにしがみつくようにへなへなと崩れ落ちて、思わず笑ってしまう。ああそうだ、あの書き置き。さよならを書きそびれていたんだ。


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