不治を赦す




※花吐き病雰囲気パロ




 名残惜しく離した唇から最後に白銀の花弁を零し、斯くして病は完治した。恋愛の成就。私たちを苦しめてきた花吐きの奇病はなんのことはない、長年かけて拗らせてきた感情を解きほぐし、互いの素直な心の内を明かし合うだけで終着を見たのだ。私たちは足元に散らばった最後の花々に視線を遣り、次いで顔を見合わせる。薄らと頬は染まり、唇はまだ、このひとの体温を覚えている。私の両肩をやさしくつかまえていた光来の手にほんの僅かに力が篭り、とうとう心を通わせた私たちは、互いの微かな震えさえ感じ合っていた。ああなんて単純な話だったのだろう。嘔吐中枢花被性疾患――耳慣れぬ病の名、その唯一の治療法をはじめに聞かされたときは絶望を覚えたものだったが。
 あの光来が、手の届かないところに行ってしまうものと疑わなかった幼馴染が、同じように私を想い、同じ病を患っていたこと。
 都合の良い夢物語のような事実を証す、たったいま彼が吐き出した光そのもののような白銀の百合。誰も踏み入れない遥かな高原を覆う、汚れを知らない雪のいろ。両想いの確信によってのみ治癒する奇病の幕引きを告げるのがその花なのだ。光来の花吐き病は完治した。私と結ばれることが、彼の望みであったのだ。この信じ難い状況を反芻し、やっと理解すると、胸の底から込み上げてくるものがある。巨大な感情の奔流は、声にならない言葉たちは、殆ど質量を伴って咽喉につかえたように思われた。
 ああ、こんなときはどういう顔をしたものか。涙を。まず涙を止めて、それから。不恰好に口角を持ち上げたまま、私は唇を戦慄かす。安堵、歓喜、驚愕、くるしいくらいの幸福……喉に張り付くそれらを吐き出すために、言葉を選びきれなくて、しゃくり上げ、咽ぶ。瞬間、花が舞った。白銀の百合ではない。不意の色彩に、二対の目が見開かれる。それは鮮血の如く色付いた――……

「……大丈夫か?」
 血を吐くように咳き込むことで、忌まわしい違和感を喉から剥がす。今日だけで何度目の発作だろう。治るどころか次第に悪化してきている気さえする。一緒にいたって恋人らしい振る舞いのひとつもできない役立たずの女の背中を根気良く摩ってくれるこの人に、せめて感謝を述べたいのに。口腔を満たす唾液塗れの醜い花は、もはや私に発声を許さなかった。
 光来がこの症状から解放されてもう一ヶ月が経とうというのに、私の病は未だ彼を恋人とは認識しない。花を吐き続けることは、不毛な片想いを手放していないのと同義だ。だのに私を見捨てもせず、言葉ばかりの愛情を信じ、光来は私の苦悶に丸まる背を撫ぜる。
 恋。恋のはずだ、と胸裡に唱えては打ちのめされる、信仰の類語としてのその響きに。いま私の臓腑に息衝くそれは叶った恋などでは決してない。ただいっとき報われたように思われる、ひとつの信仰だったのだ。信仰は、成就、と言い換えるべき終着点を持ち得ない。幸福の絶頂にも不幸のどん底にも、それはただはてしなく、胸に懐かれているだけのものだから。神が如何にすげなかろうが、気まぐれに寵を受けることがあろうが揺るぎなく――信徒は、信奉するのみだ。癒えぬ病はどうしようもなくそれを突き付ける。それでも。
「……勝手でごめんなさい」
 この人を好きでいたい。絶え間なく花を生み出させる、苛烈な信心の隙間を縫って。か細くも長く尾を引く、哀れな願いだった。……本当にこの人のためを思うなら、身を引いた方がいいのかもしれないけれど。そっと彼の服の裾を引き、愛を告げる。と、光来は少し呆れたようなやさしい顔をして、指先だけを弱々しく握り込んだ私の手を解かせる。
「勝手ってなんだよ。そんなこと言ったら、俺だって勝手だぞ」
 そしてその手を、今度は彼自身のてのひらで包み込むように。実際以上に大きく感ぜられる、あたたかい掌。指と指とを絡ませて、それだけで涙が溢れる。
 いつか突き放されたって、或いはこの恋慕が私を死に至らしめるとしても、きっとこの人を好きでいることは変わらない。そうやって想うだけで満たされる心を、更に、私の神は掬い上げ、こうして応えてくれるのだ。
 幸福、まるで致死量の。息が詰まり、私は再び身体を折り曲げる。烈しい咳嗽に悶えながら撒き散らした花の、そのひとひらを愛しげに摘み上げる指先が一瞬、視界の端にちらついた。
「いいんだ、お前が治らなくたって」
 空咳の齎す耳鳴りの向こう。私には聞き取れない声で、神の赦しが紡がれている。
「ずっと苦しんでいればいい。俺への気持ちを手放して花を吐かなくなるくらいなら」



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