アイラブユーの訳し方




 手を、振り解いたと。悟られはしなかっただろうか。繋ぐというにはあまりに緩い、拙い触れ合いだったから。思えば一度だって光来が私の手を握ったことなんてなかった。ふたりきりになる帰路でそっと指を絡める習慣、いつからか決まり事のようになった行為にも、互いを繋ぎ止めようとする意図などそもそもありはしなかったのだ。とは言え、なにもこれまで私たちの間で交わされてきた言葉に、感情に、嘘や錯誤があったわけではない。多少格好つけのきらいこそあれど、星海光来が幼馴染の女を特別に扱っていたのはおそらく傍目にも明白であったし、私が彼に心底惚れ込んでいることに気付かぬ者などいなかっただろう。私たちは確かに心を寄せ合っていた。きっと、誰に憚ることもなく恋人であった。しかし二人の交点は尚も拘束足り得ない、まるで互いの指先が偶々引っ掛かってしまっただけの。脆い結び目だったのだ、一方が歩幅を変えるだけで容易に解けてしまうほどに。
 突然足を止めた私を、軽くつんのめりながら先んじた光来が怪訝そうに振り返る。その真っ直ぐ相手を射抜く大きな瞳をいっとう気に入っていたはずなのに、今はひどく居心地が悪い。私は空を指すことでひとまず追及を逃れようとした。
「見て、月が綺麗」
 翳した指の隙間に月を透かす。案の定、光来の首肯は得られない。宵空には細切れた重灰色の雲が散らばり、その隙間を縫うように洩れ出すばかりの月影であった。しかし、此方から見えていない部分も向こうで変わらず輝いている、そう証すに足る眩さでもあった。もうすぐ高校を卒業して、私と光来の関係もこんな風になっていくのが本来なのだろう。遥か天を仰ぐように、画面の向こうの活躍を眺めて。
 どうやら彼が私の視線を追っていないこと、解放されたその手が未だ何処にも行かず私を待っていることには気付いていないふりをする。初めて光来を振り払った、この空っぽの手に触れる夜気のつめたさにも。こうあるべきなのだ。人が人の手をとるということは、その瞬間、それ以外の何ものをも掴めないということなのだから。
 いま私たちの間に横たわるたった半歩分の断絶。このか細い裂け目が、私という荷を光来から引き剥がすための最初のひと筋となる。そう思えば自然と口許が弛んだ。
「これからさ、光来は遠くにいくんだよね」
 三年生にして春高優勝。卒業後はプロの道へ。華々しくスポットライトを浴びる幼馴染へ手向ける言葉の、その負け惜しみじみた響きとは裏腹に、自分の声は意外なほど穏やかに凪いでいた。愛しているなんて月並みだろうか。それでもこの人の幸せを願っている。到底届かぬ彼方にそれがあるのならば掴み取ってくればいい、そのためならば手を離せる。そのために私は、決して光来の手を握り返すことなくこの日を待っていたのだ。
 空を見上げる視界の端で、微かに首を動かすような気配があった。光来は相槌を打ったのか、それとも口を噤んだ私に続きを促したのかもしれない。続きなんてないよ。私は内心で呟いた。だから、もう私を待たないでほしい。
 遠くへ行ってください。私のことなどかえりみず、どこまででも行ってください。月が綺麗だとか、死んでもいいだとか、そういう鮮烈な愛の台詞と比べたら、随分しみったれて聞こえることだろう。けれど、本心からの願いだ。――私を置いていってね、光来。
 光来は私の真意を汲み取れただろうか。逸らされることなく注がれていた視線と漸く目を合わせてみて、息を呑む。朧な月明かりは彼の虹彩に不思議なニュアンスを与えていた。いつだって強い意思をもって瞠られている彼の双眸は幽かな光、寄る辺ない祈りさえ見逃してはくれないらしい。……知って、いたけれど。事もなげに延べられるその手が、何一つとして取り零すはずないことなんて、とっくに。
「連れていってやる」
 あっさりと言い放たれて、気付いたらまた手を引かれている。相変わらず、望めば容易に振り解けるだけのやさしさで。ずっと昔から知っていた気がする。強引に奪ってくれないくせに、捕まえていてくれないくせに、この手は何度でも私を迎えにくるのだ。私がほんとうに、心から拒絶しない限りにおいて。そして私はその度に思い知らされる、星海光来はアイラブユーをこうやって訳す人なのだと。
 どんな愛より、祈りより、彼の意志こそが最も強い。光来がそう決めたのなら、私にはもう、安全な場所から彼を見上げるだけなんていう選択肢は残されてはいないのだ。かつて前肢を翼に変える決断をした鳥類はどうやって飛翔の覚悟を固めただろう。私は弱いから、一人で飛べる翼はないから、せめてもう二度と振り解けない指先に少しだけ力を込めることを許してほしい。


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