わだつみの裔




 胸鰭に秘められた五指の骨は、かつて鯨が陸に棲んでいた頃の名残だそうだ。静かに差し出された治のてのひらを見つめながら、ぼんやりと麻痺した私の脳裏には、子どもの頃に博物館で見た巨大な骨格標本が思い出されていた。慎ましい案内板が示すとおり、鯨の鰭にあたる部分には、なるほど五本の指骨があった。その、生きる場所も姿形も異にする生命体がもつ私たちとの共通項を、幼い私はひどく恐れたものだ。
「……なあ、手」
 治の低い声が、恋人の察しの悪さに焦れてか、それとも慣れない行為への気恥ずかしさからか、やけに素っ気なく響く。
「繋ご」
 簡潔に要求を述べながら。銀鱗を翻す魚の如くひらりと主張するてのひらが、あの日の鯨骨の形と重なる。警鐘じみて脈を打つ胸に、私は言葉を詰まらせた。
 恐ろしかったのだ。その勇壮で崇高でありながら、形だけは人間と結び合えてしまいそうなほどに似通っている大きな手掌が。たとえば繋いだ手から伝わる温度と共鳴し、かみさまのようなその生き物が、人に焦がれはしまいかと。
 甚だしい思い上がりだ。仮に鯨の鰭に手を伸ばしたとて、人のもつはかない体温など、雄偉なる体躯の底に眠る骨には届くまい。五千万年もの時を渡る硬骨の記憶に矮小なこの手が触れるなど望むべくもないというのに。
 それでも差し延べられる手に竦むのは、私が未だこのように信じているからだ。つまり、どんな睦まやかな恋人たちの群れの中にあっても、私と治が手を繋ぐことなどあってはならないのだと。
 治のてのひらはバレーボールのためにある、侑のてのひらと同じように。否、バレーボールに捧げられる侑の愛を受け止めるために神様が用意したのが治の手だったのかもしれない。
 治の骨には侑のトスに応える感触が染み付いている。その事実は神聖で、私の決して立ち入れない領域にあって然るべきだった。手を繋ぐなどという当たり前の機能は、そもそも彼の手に備わっているべきではない。よく似た形をしてはいても、治のてのひらは神様の片鱗だ、凡愚の私の手とは違う。遠いわだつみを恋うように、私は彼の特別な手を、触れ得ぬほどの距離を隔てて、ずっと想っているはずだった。治がコートを去ると聞かされたときも、治に恋情を告げられたときでさえ、そう信じて疑わなかったのに。
 遂に痺れを切らしたらしく、一向に応えぬ私の手をとって治は歩き出す。足を縺れさせながら、殆ど引き摺られる格好で私も続く。その強引さが喉元に突きつけてくる、彼の手が新たに会得した人としての機能。人に触れるためのものでは決してなかったはずのてのひらで、現に彼は私を求めているのだと。
 春めく前の身を切るような風の中で、はじめて触れた治の手は温かかった。バレーボールをしていた頃、彼のからだはこのようであっただろうか。この先私と手を繋ぐことが当たり前の日常に変わろうと、私の知り得ぬその真実をきっと彼はいつまでも憶えている、土を忘れぬ鯨のように。とうとう私が手を握り返すと、治の苛立った早足が緩む。
 手と手の繋がる交点に、時折確かめるように力を込めながら、治はゆったりと歩く、おおきな生き物としての歩調で。
 この行き着く先で彼がなにものになろうとも、揺るぎなく、彼の骨格は彼のかたちだ。地を蹴る脚を鰭に変えても、もう二度とバレーボールに触れることがなくても。彼だって分かっているだろう、だから、こんなものは無意味な感傷だ。それでも願わずにはいられない。私の体温が、美しく完成されたこの人の骨を微かでも溶かしてしまうことのないよう。
 どうか彼をかみさま足らしめた何かが、薄れども損なわれることなく、硬く厚いこの肌の向こうに残り続けますように。
 そっと絡め合わされる指と指。その本数だけが揃いの、大きさの違う二人分のてのひらが、不格好な祈りを形づくっている。


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