春にして神を亡くし




 ペトリコール淡く香る朝、仄光る水溜りに翅をとられて、ひとひらの蝶が溺死していた。治との待ち合わせに指定された駅前広場の片隅でのことだ。早朝の静謐をそのまま落とし込んだ、つめたく澄み渡る水面に伏せながら、それは息絶えて尚も残された鱗粉で水と親しむことを拒絶している。ただ無機的な異物としての白く褪せた亡骸。春の一部に成り損ねた、かつて春と呼ばれたはずの何某かの残骸であった。
 なんとなく、目を逸らしてはならない気がした。漠然と兆した使命感は思う間にも確とした芯を得る。見慣れるまで目を凝らし続けるほかにないのだ。一晩中降り続いた雨にところどころ穿たれた翅の、その透きとおった疵からやがて水に侵されていくであろう惨憺たる屍。そこに私の期待した春のほんの片鱗さえ見出せないのだとしても。
「あれ、待たせたか。時間通りと思たけど」
 それでもやはり、浅い水鏡に映り込む人影がただ無彩色の陰でしかないことに安堵してしまう自分がいる。
「……待ってないよ」
「? そぉか」
 高校の卒業式からまだいくらも日を経ないというのに、私は今、顔を上げることをひどく恐れていた。じっと水溜りを睨めつけているのがやっとのところだ。対岸に立った待ち人を見ず、色をもたないその鏡像をのみ睥睨する様子を彼はどう捉えただろうか。治が踵を返す気配がした。
「ほんなら、行こか」
 はじめて見る、下ろしたてであろう小綺麗な靴底が鏡面の端に触れ、保たれていた静かな均整を崩してゆく。伸びやかな水紋が、蝶々のかろい死骸を揺らす。揺蕩う異物を異物のまま、この寂しい場所に取り残すことにはほんの少し胸が痛んだけれど、割り切るのはさして難しくない。治が一瞥さえくれなかったそれを視界の端に残しつつ、私の足も歩き出した。
 だってあれは、生命の萌す季節の周縁に吹き溜まる、ありふれた死のひとつに過ぎない。
 決して同伴者を引き離さない緩やかな歩調は、鈍い女の脚にさえ容易に追いつくことを許した。ふと過ぎる、つい先日大阪へ発った侑は未だ暫くこんな風には歩けまいと。私は、私と連れ立つための歩みの、その一歩分後ろについて、今度は治の足元に視線を据えておくことにした。擦り切れていないスニーカー。片割れと競って走ることを想定しない靴の、その汚れを知らぬやわらかな白色が悲しかったけれど。それでもそれが視線を上げた先にある、このさき彼のいのちの代謝に押し流されていくだけの、あのシルバー・アッシュの髪色を眺めるときほどの痛みを齎すことは決してないと分かっていたから。
 わかっている、それもまた春という文脈においてありきたりなひとつの断章であることは。克服しなくてはならない。この先この人の隣を歩もうという意思が、ほんの少しでも残されているのならば。私は顔を上げることもしないまま、しかしその前段階のつもりで、すっかり黒髪に成り果てた後の治を眼裏に描こうと試みた。中学までは髪を染めていなかったというが、宮兄弟の地毛なるものは私にとっては全くの未知だ。さしあたっては、染め残された刈り上げ部の和毛や、彼らの特徴的な眉を思い浮かべる。やや濃茶がかった柔和な印象の毛色ははたして彼の纏う毛皮として相応しいものだろうか、茫洋と気怠げな薄光の中に時折冷徹な威力をちらつかせる、曇天の隙間を縫って一条差し込む光にも似た、あの痛切な翳りと閃きに勝るほどに? 想像の中、鋭利な銀光を失った治は熱狂とは無縁のひだまりにぽつりと佇む、ひと幹の木蓮のように穏やかな顔つきをしている。春の木陰のやわらかな薄闇色、それが彼の本来持って生まれた色などとは到底信じ難い。けれど、もしいま私が視線を上げた先、女の歩幅を気遣う彼の髪根に、既にその色が取り戻されつつあるのだとしたら。一見して異物めいても、眺め続けるうちに馴染んでしまうのだろう、春の片隅に追いやられたあの紋白蝶の骸と同じく。感傷などくだらない。事実は常に事実として横たわる。目を逸らそうと躍起になったところで、いずれ前を向いた先にあるものは、もう取り返しのつかないほどにただそのようにあるのだと。わかって、いるのに。
 高校バレー界最強とも謳われたバレーボールプレイヤーが、あわせてそう称された片割れをひとり残し、髪の根本からただの人間へと変容してゆく様を、実のところ私は未だ正視できずにいる。
 治が何度となく私を呼び出す目的はつまり、私の誤解を正そうというわけなのだ。私があまりにも治の未来を信じ切っていたものだから、不憫に思っているのだろう。或いは私に取り憑いた幻影に、ありもしない責任を感じているのかもしれない。
「……引退するまで待っとって」
 引退、という響きがまだ遠く聞こえた、あれは高校一年の終わり頃のことだ。練習試合を終えて体育館から出てきた背中を思わず呼び止めた。私はそのとき治に、単に想いを打ち明けただけだった。治に恋焦がれていた、けれども自分を振り向いてほしいなどとは望むべくもない。ふと気付いてしまっただけなのだ、普段朴訥としている同級生がコートに立つとき、その眠れる獣の灰褐色の皮毛が、切実な純銀の輝きを宿すことに。目の覚めるような発見の齎した瑞々しい歓びと、知らぬ間に光に貫かれ、傷付けられていた心臓の痛みに堪えかね、また日ごと増していくその重みを手放そうとして、ただ感情を、たった二音の言葉に託して吐き戻した。
 血を吐くような吐露は、さながら信仰告白の様相であったろう。振り返った治は普段眠たげに下ろしている目蓋を意外そうに瞠り、少しの沈黙の後、引退という語を口にした。返答を求めていなかった私は、言葉が返ってきたことにまず面食らって、だからその意味を深く考えもしなかった。高校三年生の一月、治がその話を蒸し返してくるまで、まるっきり忘れていたくらいだ。「随分待たせてもうたけど、」そう切り出した彼の徒人のような面持ち、緊張に強張った表情を思い返せば酷なことをしたと、身勝手にも胸が締め付けられる。「前に好きって言うてくれたの、まだ有効?」
 わからない、と私は答えた。
 高校の部活動の引退がすなわち選手としての治の幕引きと同義であるなどと、想像だにしなかった。私は宮治とバレーボールを切り離して考えたことがなかったのだ。それでも最高学年に進級する頃には既に皆の知るところであった治の進路は、分かたれた侑の道と同じく、特別親しくもない同級生からすれば遠い世界の物語として。日常生活を送る上での接点の乏しさも手伝い、上手い具合に消化されつつあった治への想いは、最後の春高を終えて数日、私を迎えにきたという彼本人に唐突に引っ掻き回された。私は内心の混乱を誤魔化すこともできず酷い顔をしていたと思う、まるで被害者気取りの顔を。
「バレーを辞めた治を好きでいられるかどうか、まだ分からないの」
 治は微笑んだ。仄かに下がった眉の涅色が憐れんだようにも、傷ついた表情にも見える。
「……そんなら、今度は俺が待つ番か」
 答えが出るまで付き合おうという治の申し入れに対し力なく頷く以外の選択肢は用意されてはいなかった、あんなに神々しく思われた銀糸の髪の、その乾いた毛先に点在する傷みの痕跡がどうにも目に付いて、淋しくて。
 本当は待っていたわけじゃない。だからあなたも待つ必要はないと、撥ね付けるべきだったのに。
 一歩先から、心なしか浮かれたような治の声が聞こえてくる。今日食べに行くものを私と決めようと、幾つか候補を用意しているらしい。事前に行き先を決めておかないのは、その時々の互いの気分を擦り合わせ、その瞬間の自分たちにとっての最高を選ぶためなのだと以前語っていた。食べ物について話す時、なるほどこの人の弁舌は弾む。その情熱はコートに立つ時と同等、或いはそれ以上に。彼なりに示しているのだろう。治は選択したのであって、何を失くしたつもりもない、侑も同じだ。バレーボールを辞めた後も変わらぬ自身の幸福を、わざわざ目に見えやすく、私が答えを出す一助とするために、普段は機微の見えづらいその外面にまで引き出してくれている。そういうときに私は、おまえのほうこそ誤解しているのだと叫び出したくなる。
 この人は私が悲しんでいると思っているのだ。私を、宮治がバレーボールを喪失すると考え、そこに悲哀を見出して彼を憐れむような女だと思って、それを誤解であると暗に説く。それは私を待たせた上で意図せず裏切ってしまったと考えたゆえの、彼なりの埋め合わせなのかもしれない。私に対する治の配慮は常に真摯であった、それがまったく的外れだとも気付かぬままに。
 彼が何一つ欠く事なくあり続けることはわかっている。それでも私は未だ彼の髪色を視界から除く。失うのは私なのだ。彼の銀色を神性の証と信じ込んでいた、私がひとりで身勝手に、治と彼のバレーを失う。
 相変わらず地を這い擦る視界に不意に白色がちらついた。蝶ではなく、今度は花だ。子供の好奇心か、或いは分別のない若者の悪ふざけか、もがれ打ち捨てられた白木蓮の蕾。まさか望んで飛び降りた訳ではあるまいが、はたして真実はわからない。
 ──治がすっかり黒髪になってしまった後、それをとっくに見慣れた頃、楽しげにごはんの予定を立てるこの人の隣に立つことを、私は受け入れられるのだろうか。“彼”を欠いたまま?
 開きかけの蕾は光のうぶ毛を身に纏わせ、羽化の途中で間引かれた天使の蛹のように粛として押し黙っている。探していた春は、確信していた季節は何処にもない。ありふれた生き死にばかりがそこらじゅうに転がっていた。


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