不可視の飛翼をかなしむに




 あなたに言葉を与えたあの日を呪わぬ夜はありません。コートで喝采を浴びているあなたの、生き方そのもののようなまっすぐの指が、観客席の一部に過ぎない私を探し当てるとき。いつも痛いほど迷いのない声が、柔く円く、女の私に合わせた言葉を選び取ろうと惑うとき。私が、あなたの特別であることを実感するたび罪悪感に打ちのめされるだけのよく弁えた女の子であればまだ救いがあったでしょう。一方で、この心は苟も幸福を感じずにはいられない。ひとたび得てしまったこの特等席を手放すことがどうしてもできない。それはさながら、眩い悪夢のようでした。
 後悔を手繰るたび行き着く心象の夕暮れの公園には、いつだってあの呪いの言葉が反響しているのです。

「すごい。星海くん、翼があるみたいだね」

 ああ、空想せずにはいられません、虚しい仮定だとしても。もしも私が風船から手を放さなければ、或いはあの日に風がなく、風船が掛かったのがその枝でなかったならば。名残惜しく樹上を見上げていた私が、偶然通りかかったクラスメイトの男の子にそれを言うことはなかったでしょう。現実とは非情なものです。風船は空まで逃げ切れず、木の枝に搦め取られていました。子供の手には到底届かない、しかし、ある特別な男の子の助走をつけた跳躍を以って辛うじて届く高さに、その尾を捕らわれてしまったのです。
「おれ、たぶん届くよ」
 正直に言って、当時自分よりも背の低かった同級生の申告を私は話半分に受け止めていました。体育館履きが入っただけの小さなナップサックを預かって、私があなたに何も言葉をかけなかったのはそのためです。じっと風船に視線を留めたまま、測るような歩幅で距離をとるあなたをぼんやりと眺めていました。可能だ、とも、不可能だ、とも考えず。ただもう風船はこの手に戻らないと、胸に満ちていた漠然とした諦観が鮮やかに砕かれたのは直後のことです。
 その頃バレーボールを始めたばかりだったあなたは、テレビの向こうの選手から学んだのでしょうか。助走の三歩目、膝を使って深く踏み込みながら、後背に引き絞っていた腕を振り上げていく流れに乗って、全身の力で真上へと跳び上がりました。思わず溢れた感嘆の声は、きっとあなたにも聞こえたはずです。今にして思えばその一連のなめらかな動作は星海光来の磨き上げた最たる武器、スパイクを打つ姿に重なりますね。力強い羽撃きひとつで、誰しもに希望を振り撒くような。すっかり魅せられた幼い少女は、数分前まで宝物に見えていた風船すらも眼中になく、手を差し延べる目の前のヒーローだけを見つめていたことでしょう。そして私は、私があなたにそれを言ってしまったのです。
 翼がある。
 その刹那あなたの満面に広がった驚愕と、綻ぶようにそれを塗り替えた無邪気な発見の喜色ときたら! ひとりの男の子を破顔させた言葉の、己が手を離れた弾丸の如き凄まじき威力に震える夜はほどなく訪れました。

 あなたは知らなかったのでしょう。けれど私などが言葉にせずとも確かに、あなたには生まれ持った翼がありました。きっと、タイミングさえちょうど良ければ、世界中の誰にだって見つけられる。その翼で以って、いつかみんなを置き去りに、どこまでだって飛んでいけたはずの。私が言葉にしたせいで、あなたはその概念を私から与えられたものと信じてしまった。こんな私を、あなたの翼をはじめて見つけた、何か特別なものをもつ女の子だと思い違いをしてしまったのです。
 星海光来が初めてスターティングメンバーとして選出された試合のさなか、不敵に人差し指を立てたあなたが観客席を指したとき、その延長線上には私がいました。刹那の衝撃がいかほどのものかは、あなたの想像の及ばぬところです。それはなにひとつ特別なものを持たない私を、自分の犯した罪の重さに震え上がらせるには十分すぎるほどに。



「俺に、俺が飛べる事を教えたのはお前だろ」
 私の耳よりも少し上の高さから。囁きは白息に紛れ、即座に溶け消えてしまうほど低くひそめられていました。まるで恋人の髪に降る細雪を戯れに融かさんと息吹くような。静かな、愛の言葉でした。何故、漸く叶った大事な舞台から私を見つめ返したのか。私の問い掛けに対する、それがあなたの答えでした。
「お前に俺を見ていてほしい」
 言葉を詰まらせた私の頭を片手でそっと引き寄せ、すぐに離す。掠めるだけのそのやさしさは、ネットを挟んであなたと相対する人たちにはきっと想像もつかない。
 息が触れるほどの距離にあるあなたのマフラーの結び目を、私は呆然と見つめていました。
 空を往く鳥が飛翔の権利と引き換えに骨の内に空洞を湛えて生まれてくるように、何かを失わねば得られぬ強さがあるのだとしたら、星海光来が真っ先に切り捨てるべき荷は私です。あなたの内に私の存在を見出したその瞬間、私はそれを己の口で伝えねばなりませんでした、だってあなたは荷を負っていることにすら気付けぬ人だから。そう、強くなりすぎたために、あなたは私を抱えたまま飛び立ててしまう。私はあなたの胸中の、恐らくは最も核心的な部分を察してしまいました。私を連れて行く気でいるのでしょう、この先私が毎日こつこつ、死ぬまで煉瓦を積み上げ続けたところで到底届かぬ高みにまで。
 ここで私が拒絶しなければならない。あなたの身体を押し返すためにやっと挙げた両手で、あろうことか私は、あなたの背に触れました。自分の胸に縋って静かに肩を震わせる女を、その時あなたがどのような顔で見下ろしていたのか分かりません。あなたは私を抱き返すことはせず、ただ、手袋を外したのでしょう。温かな指で髪を梳いてくれました。
 あなたの背中のなめらかな手触りを私は己に焼き付けました。見ることも触れることもかなわない、美しく逞しいその翼を言葉にしたことが私の罪です。私はあなたに翼を与えてなどいない。本当はあなたに相応しい価値あるものなどひとつも持ち合わせぬ、ありふれた女です。自分のために、バレーボールのための大切なてのひらを凍えさせるあなたを、叱りつけねばならぬ立場です。それを理解していながら、私はあなたの手をとうとう拒みませんでした。夜毎自分を呪いながら、生きていく覚悟を決めたのです。
「見てるよ、光来」
 絞り出すような幽かな声に応えて、あなたが微笑うのを聞きました。
「ずっと見てる」


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