逃げ水を飼う




 その家には女の形をした空白がある。



 交番の前に掲げられた交通事故件数看板に、味気なく赤い“管内死亡・1”。彼女の顔を思い浮かべようという時、先ず真っ先に治の脳裏を過ぎる光景がそれだった。縦棒たったの一本で完結されたその記号が宮侑の婚約者を表しているなどと、あの日あの道を行き過ぎた内の一体幾人が心得ていただろうか。Vリーグファンはもとより、侑のチームメイトにさえ存在を知らぬ者も多い、ひとりの女の生。つい前日に失われた、治の数年来の友人であった彼女の命。抜けるように青い空の下、信号無視の車に跳ね上げられて。あの細く柔らかな肢体が二度と手の届かないものになったなどと、少なくとも治には到底信じ難かった。

 はたして宮治が秘めやかに想い続けた女、宮侑が最も長く傍に置いた女は、そのどちらにも看取ることを許さぬまま、統計上の数字へと身を変えた。



 忌日、数年前の夏に息を切らして駆け抜けた道程をのろのろと辿りながら。治は重くのしかかる憂鬱に暑さ以上に参っていた。情け容赦ない太陽光が肌を炙る、呼吸するだけで肺まで茹りそうな気温である。一応、手土産もあるのだから、あまり呑気に歩いてもいられない。しかしながら、年に一度あのマンションの一室──彼女を欠いたまま在り続ける、悍しいあの部屋に足を向ける時、どうにも歩みを鈍くしてしまう治を一体誰に咎められよう。

 侑の家には空白がある。それはとうに世から喪われたはずの、ひとりの女の形をしている。


「俺や」
「詐欺か」

 鳴らしたインターホンの向こうから、開いとるからはよ入れ、と声が続く。入ったら鍵かけとけ。あ、スリッパ使えよ、一番下の青いやつ!インターホンの前を離れ、玄関扉を開く瞬間にまでやいやいと追撃してくる喧しい指示。いちいち命令されているようで癪だが一応は家主の希望だ、仕方なく従う。サムターンをつまんだまま肩越しに目をやった靴箱の脇。掛けられた三段のワイヤー・ラックには、いつもの如く二足のスリッパが吊るされている。
 上から数えて三段目、治が迷わず手を伸ばした、表面のつるりとしたものが来客用。今は空いている一段目は、いつ見ても無駄に履き心地のよさそうな侑のルームシューズの定位置である。そして、二段目。如何にも拘りの薄そうなタオル地の、まろやかなオレンジ色こそが、この家の来客が初めに出遭う、彼女の遺品のひとつであった。

 片割れのセンスではあり得ぬはずの花柄の玄関マットへ歩を進めつつ。少し考えて、治は一度は手に取ったスリッパをラックに戻した。


「スリッパ使えや言うたやろ」

 居間で治を出迎えて、侑は案の定不機嫌に眉を寄せた。

「ええやんか別に。暑苦しいねん、侑だって実家じゃ履かんやん」
「この家では履かなアカンて決まっとんのや、汚い靴下で歩き回んな」
「汚なないわ」
「ええから、玄関戻れ。追い出されたいんか」

 もはや馴染みのやりとりである。試しとばかりに裸足で踏み入ってみれば、ただちに侑の糾弾は始まる。スリッパを履け。頑なにそう繰り返す。理由を問うても、そう決まっている、としか答えない。
 彼女を亡くしたあの夏、初めて家に上げた治に、スリッパを履くよう強いたときと同じように。
 元々、室内履きの習慣のない家に育った侑だ。間違いなく彼女が持ち込んだ価値観である。彼女の生前から侑が日常的にルームシューズを履いていたのかどうかまでは、家に招かれたことのなかった治の知るところではない。しかし、少なくとも彼女を亡くしてからの侑は、生家での習慣よりも彼女のルールを重んじているように見えた。

 彼女のものであったはずの言葉を。他でもない、あの侑が当然のように吐いているという事実は、此処にかつて女が在り、そして永遠に不在となったことを証すかの如く。

 込み上げる吐き気と共に、何故だろうか、ふと口をつこうとする言葉がある。毛を逆立てた獣のように睨めつけてくる侑に背を向け、治はいつもの如く来客用スリッパを取りに戻る。

──愛しとらんかったくせに。

 伸ばした指で、まるで今朝まで使われていたかのように平然とそこに在る女物のスリッパをひと撫で。埃をかぶることも許さぬまま、侑はいつまで彼女をここに留めておくつもりなのだろう。今にも湧き上がらんとする衝動から目を逸らし、するりと滑り落ちる治の指先は取るべき物を誤らない。

 愛していなかった、などと。侑が口走ったわけではない。固く噤まれたその唇から、愛していたと零したこともなかったが。
 ただ確かに言えることは、彼女を真に愛してやれるはずだったのは治であって、侑ではない。治はそう信じていた。


 スリッパを履いてから再び立ち入ると、別人のようにあっけらかんとして、侑は今度は治の手元に視線を送った。

「ちゅーか治、なんやその菓子。土産か」
「侑のやないぞ、あいつんとこに持っていくんや」
「はあ? なんでやねん、ここ置いてったらええやろ」
「……この部屋、遺影すらないやんか。置いてったところで侑の腹に入るだけや」

 苦虫を噛み潰したような治に、しかし侑は事もなげに言い放つ。

「どっかに供えたらあいつが食うんか? 何にしろ納骨堂なんか物置いてかれへんのやから持って帰んねやろ、ほんなら一緒のことやんか」

 しれっと伸ばされる手を数度躱したが、しつこい連撃を前にしては防衛側が不利だった。ひとたび敵の手に渡ってしまえば、奪い返そうという気も起きず。テーブルについた侑が早速包装を破り、茶菓子にするそれを治もつまむ。「なんやねん甘すぎ。ほんまにセンスないな」「せやったら食うなや」「治、買うてくるもん毎度微妙やで。おにぎり宮のおにぎりにせえ」どうせ侑は、そこらの駅で買った適当な土産とでも思っているのだろう。治が都度買ってくる彼女の好物を知っていた試しがない。

 治は溜め息を押し隠しつつ、侑の首元を未だ彩るまどかな銀白色のリングを視界に入れぬために俯いた。短めのネックレスチェーンに下げられたそれは一対の婚約指輪だ。そうやって形見の指輪を試合中すら身につけながら、しかし侑は彼女の好むものを知らない。何を慈しみ、何を悲しむ女なのか、どんな顔をして笑っていたのか。そういう血の通った思い出を、一切と言っていいほど持たない。彼女を欠いた空白だけが、侑が認識する“彼女”の姿なのであった。


 この家には遺影がない。だから来客が彼女の面影を求めるには、記憶の内を探るほかなかった。あの晴れた日の事故件数看板。海馬に強烈に焼き付いた喪失感を掻き分けて、故人の顔を。治の記憶の上澄みにいつも真っ先に現れるのは晩年の彼女ではなく。もう少しだけあどけない、まだ誰のものでもなかった頃の少女の姿が、いつまでも鮮やかなままなのである。


 高校の制服に身を包んだ彼女と治は、その時もやはり友人だった。

「侑が好き。まっすぐバレーボール追いかけとる侑を、ただ、ずっと見ていたいんよ」

 内緒にしてな、と悪戯な含みを帯びたその声は未だ治に憑りついて離れない、ひとつの後悔の依り代である。欄に身を乗り出して、空を眺めていた身体をくるりと反転させて。治に向き直っても尚、彼女の瞳は揺るぎなく、夢を見ていた。宮侑という夢を、それこそバレーボールに熱を上げる侑と同じ目をして。風に嬲られる長い髪を咎める仕草すらなく、何かを恋い求める喜びに、頬を赤らめてはにかんでみせる。
 爽やかな夏空を背負うのがこんなにもよく似合う。純な少女であった。今にして思えばひたすらに、一途なばかりの子どもであった。

「……告らんでええの」
「うーん、どうしよかなぁ。別に、カノジョにならなくてもええんやけど……治なら言う?」
「知らんわ、勝手にせえ」
「えー、訊いといて突き放すやん」

 彼女の想う相手が侑であることに幾許かの安堵さえ覚えていた自分を未だに呪う。同時に、致し方ないとも思う。彼女が侑のものになるなどと、はっきり言って治は想像だにしなかったのだ。いつのまにか侑と彼女が公然の仲となっても、その楽観は不思議と変わらず。

 そうだ、どうせ侑は彼女を選ばない。気紛れに傍に置いたところで、あのひとでなしに長く関係を続ける甲斐性など。全て受け入れるとばかりに微笑う彼女だって所詮、ただの女だ。何もかも振り捨てて突っ走る子供に、冷徹な癇癪を起すリアリストに、すぐについていけなくなり、やがて堪えかねて身を引くだろう。侑を好きだと宣った女が、或いは憧れを以て背を追った選手が、そうして擦り減っていくのを幾度も見送ってきた。隣にあり続けた片割れとしての、それは諦観にも似た確信である。

 ただひたむきであるがゆえの、その業は侑の強さの証明でもあった。

 だから、侑に消費され疲弊した彼女が自分のもとに落ちてくる日まで、手を拱いていればいい。傷付き弱った女を籠絡する容易さを治は知っている。
 治の予想に反し、彼女は侑の傍を離れなかった。意外なことに侑もまた、静かに寄り添う彼女を敢えて突き放す気もないようだ。やがて治がバレーを引退し、高校を卒業し、帰る家すら侑と異にするようになっても。彼女はずっと侑の隣に居た。治は相変わらず、彼女の友人でしかない。

 侑と彼女が共に暮らしていることを知ったのは、兄弟揃って実家を出てずいぶん経ってからのことだった。というのも、治は侑の出場する試合の会場に仕事がてら足を運び、プロとして“一番楽しく遊ぶ”姿を眩しく眺めながらも、バレーボールを離れたその日常にまで踏み入ることを、何とはなしに避けていたからだ。住居に関しては聞かずとも、多くのVリーガーと同様寮生活を選択したものと思い込んでいたが、なんと早い段階から練習場の近くに家を借り、恋人と同棲していたという。侑のチームメイト伝てに知らされたときはそれなりに衝撃を受けたものだ。真っ先に自分の耳の調子を疑う程度には。

「なんや、言うとらんかったっけ」
「聞いてへんわボケ。家族誰も知らんかったぞ」
「そうなん? じゃあ今言うとくわ」

 声こそ荒げぬものの明らかに憤慨した様子の片割れに、しかし侑は悪びれない。治は頭を抱えたくなる。ああ、何故これまで気付かなかったのだろう、侑の首元。鈍く光を反射するペンダントトップの、角をもたないその形に!冷たく輝く枷にも似た、それはごく簡素なデザインの指輪であった。おそらくは彼女の指にも、同じ誓いが嵌められている。
 他人事のように侑は言った。

「あいつは俺と生きるんや」

 決定的な一言に、思い切り頭を殴られたように。足元がぐらつく心地がした。

 一年、二年、己の夢へと邁進する治が目まぐるしい日々に揉まれるさなか、目の届かぬところに粛々と紡がれ続けていたはずの、二人の生活が想像できない。別れたという噂すら耳に入ってこない以上、細々とでも続いているものだとは思っていたが、知らぬ間に婚約まで。侑は彼女に愛を囁いただろうか。あの、バレーボールを愉しむためなら悪魔に魂も売りかねない、ひとでなしが?
 そうであればいい、と。混乱する思考の中からついに拾い上げた明確な願い、そのあまりのなめらかさに、驚いたのは治自身だ。しかし、紛う方なき本心だった。ひとたび触れてしまえばそれは、他のあらゆる感情を押し退けて表出する。

 独りでも強く在れる侑の心の、冷たく凝ごった一面を。温め、解きほぐすのが彼女の指であったならいい。侑と侑のバレーを愛する彼女が、いちばん近くでその生き様を見守って。二人が互いに尊重し合い、日々笑い、幸福の内にあったのなら。治の与り知らぬ幸いが、治の訪わぬその家に満ちていたというのなら。片割れが切り捨ててきたものや、実を結ぶことのない自身の慕情、治の手の内に残る痛みの記憶の、それら悉くが報われるようにさえ思われた。

 結局、そんな独善的な感傷に意味がなかったと思い知らされたのは、彼女を永遠に喪った夏のことだった。


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