雨の夜の夢




「私を覚えていないでしょう」
 開口一番、女はそう云った。可笑しな夢だ。傘も差さずに佇むその姿から目を離さぬまま侑は眉を顰める。覚えていないはずがない。海馬から抜け落ちた人間が夢になど現れるものか。侑が名前を呟くと女は哀しげに微笑んだ。もう数年も昔に亡くした恋人の名は、やはり彼女のもので間違いないらしい。
 無意味な問答であった。こうまで御膳立てされて、いったい彼女以外の誰がこの夢の主賓として相応しいというのだろう。
 暮れ方の交叉路に降りしきる雨は彼女を永遠に奪われた日と同じ温度をしている。今しもあの曲がり角から、ヘッドライトの閃光が闇を裂きながら顔を覗かせそうな。雨粒の一つひとつをも反射板として、大ぶりな水晶が砕け散る様にも見紛う鋭い煌めきが齎されるような、長らく五感にこびり付いていた情景である。侑は我知らず左肩を摩っていた。疼きの感触は随分懐かしく思われる。彼女に突き飛ばされたその箇所に掌のかたちの凍傷が残っていやしまいかと、当時は繰り返し確かめたものだが。
 それをこの女。覚えていないなどと、見透かしたような顔をして。
「……俺の夢が、この俺を随分と人でなし扱いしてくれたもんやな」
「そりゃあ、そうでなくちゃ困るから」
「それ。如何にもあいつの言いそうな台詞や」
 平素の戯れであれば侑をよろめかすことさえ到底叶わなかったはずの小さな掌が生んだ渾身の推力を思い出す。咄嗟に我が身を庇った体勢のまま、此岸の路傍に一人倒れ込んだときの痛み。そしてその巨大な反作用により呆気なく彼岸へと押しやられた、数秒前まで隣にいたはずの女の献身を。
「……忘れたことなんて」
 ない、忘れられるはずもない。言いかけて口を噤む。女の微笑は依然として、悲哀と慈愛を綯交ぜにしたかのような。侑はその貌を注視した、そう促されたような気がした。
 闇色の髪は濡れて張り付き、まどかな頭蓋骨の形をはっきりと浮かび上がらせている。覚えのある形だ。しかしそれは恐らく生前彼女を構成していた曲線ではない。侑は目を凝らすうち、それに気が付いてしまった。何故なら、あの掌に収まるほどのまるみの馴染み深さ。つむじを起点とし、畝りながら頭部に沿う毛束が想起させる、あの張り合わされたような均整は。実のところ、彼女がほんとうに“そう”でなかったかどうかよりも明白な論拠を侑はもっていた。それは既に朧になりかけた在りし日の恋人の姿よりも、余程鮮明に焼きついた輪郭なのだ。
 先刻、愛の言葉など溢しかけた口から吹く自嘲の息に音はない。確かに侑は彼女を覚えてなどいなかった。
 愛したはずの女の頭蓋はバレーボールによく似ていた。


(22/26)


| | |

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -