聖臣くんに悪戯をする




 それは深く深く刻まれた神経質の名残りを留めつつ、それでも眠っている間だけは幾分ゆるむ恋人の眉根のすぐ近く。静かに遠ざかろうとする油性マジックのペン先がぷるぷる震えてしまっている。言わずもがな、原因はこの額に燦然と存在感を放つ彼のチャームポイント。
 ……聖臣のほくろ、増やしちゃった!
 目の前の現実を噛み締めて、ついでに唇も噛み締めて笑いを堪える。そう、佐久早聖臣のおでこの二連ほくろは今まさに三連ほくろへと進化を遂げたのであった。

 こんなことをして喜んでいると、寝込みを襲うなんて卑怯だなどと事情も知らずに咎め立てる部外者が往々にして現れるものだ。そんな方にこそまずはこちらの言い分を聞いていただきたい。そもそも問題は、この佐久早聖臣という男の完璧主義じみた精神性がストイックな自己管理に留まらず、共同生活者の習慣までも侵犯しようとするところにある。
 恐らくは多くのファンが抱いているはずのイメージそのままに、聖臣は基本的に無用な昼寝をしない。生活リズムが乱れるとか、睡眠時の姿勢がどうとか、理由なら訊けば訊いた数だけ湧き出てくることだろう。別に、彼のそういう隙のない在り方に不満があるわけではない。元来の慎重な性格に加え、身体を資本とする生業だ。人一倍自身のコンディションに気遣うというのは至極道理に適っているし、できることなら陰に陽にと支えていきたい所存である。奴が私のうたた寝を妨害してこない限りにおいては。

 いつもいつも佐久早聖臣の肩を持っては黄色い声を浴びせる女性ファンの皆々様に問いたいのだが、あなた方は空想上の同棲生活の中でゴム手袋を装着した佐久早聖臣に遠巻きに割り箸を差し伸べられて鼻ちょうちんを割られたことがあるだろうか? マウントをとらせていただくようで恐縮だが私はある、それも現実で。光さすリビングでの心地よい午睡の目醒め、瞼を上げるとそこには蛆でも見るかのような目で自分を見下ろす佐久早聖臣がいる、そんなイベントが頻発する。いかがでしょうかこういう生活。百年の恋も冷めない?
 いったい人の昼寝を邪魔する以上の罪悪がこの世にいくつあることだろう。私が釈迦ならカンダタがなんぼ程の極悪人だろうと守った他人の安眠の数だけ地獄に涎の糸を垂らしてあげたい。鼻ちょうちんの風船を贈ってあげたい。しかし私の恋人はたとえ地獄の底にいたって差し出された救いの手を素手では絶対掴まないような男だ。私がソファで気持ちよく涎なんか垂れ流していた日には、その百はくだらないご高説の手札を切って容赦なくぼっこぼこにしてくださるというわけ。反論しようにもこの男の生活態度にはおよそ非の打ちどころがない。その上複雑骨折した蜘蛛さながらの寝相の私を遠回しに気遣っているかのようなコメントを賜ることさえある。私は苦々しく思いながらも毎度毎度大人しく正座させられ、教祖様の有難いお言葉を俯いて船漕ぎながら聞き流すほかなかった。
 ところが、ところがだ。本日買い物を終えて帰宅してみると、ソファに腰掛けて腕を組んだまま、なんと右斜め下に軽く項垂れてこちらを向いているつむじ。いやいや特大ブーメランぶっ刺さってますやん! 逃す手なんてあるものか、すかさずペン立てから油性マジックを引っこ抜き、私の復讐はここに成った。誰に糾弾できよう、ちょーっと寛いでいるだけでネチネチネチネチケチつけられてきた日々を思えば、我ながら随分とかわいらしい戯れだ。寝込みを襲うとかなんとか、そもそも私の安らかなまどろみをいつも殺菌スプレーでぶっ散らしてくるのは聖臣の方だし。

 さて後はこの無防備なアホ面を写し取って残してやるのみ。ついでに元也くんにも送ったろ。うきうきと、敵の首級を挙げるが如くスマホのカメラを構えてみて、はたと気付いた。……なんか、ブロマイドみたいだ。というかこの既視感は、雑誌の特集? こないだ聖臣も取材を受けた、あの顔のいいスポーツ選手集めたグラビアの……。
 そこで私は漸く思い知らされた。浅はかだったと言わざるを得ない、私が数秒前までバカウケしていたのはほくろを増やしてやるという行為そのものの可笑しさに対してであって、改めてカメラ越しに見てみるとこの程度全ッ然ギャグになっていないのだ。佐久早聖臣、顔が良すぎる。涎や鼻ちょうちんでも装備しているならまだしも、ただほくろが三つ並んでいるだけなんて、寧ろちょっと格好良く感ぜられるくらいだった。え、オリオン座の真ん中のやつじゃん。神秘的かよ……。
 眠れる恋人のミステリアスな魅力に打たれているうちに、無音カメラがなんの面白味もないただのイケメンを数十連写していたので慌てて親指を画面から離す。切り取られたどの瞬間においても佐久早聖臣の額には三連ほくろが鎮座していたが、それらは例外なく宗教画であった。ファンに流したらお金とれそう。佐久早聖臣を顔面への小細工で貶めるの、不可能では? しかしながら千載一遇の機だ、どうして諦められようか。報復の手段をただひとつしか持たぬ私はスマホを投げ捨て、半ばやけくそになって再び油性マジックの蓋を開けた。

 そんなわけで聖臣のほくろ、現在六つ。バレーボールのラインアップシートよろしく二列×三行でフォーメーションを組んでいる。

 描いては撮り、撮っては描きを繰り返し。この段階になるともはや復讐云々というよりも、私の心に満ちていたのは謎の全能感であった。神様が夜空に星を増やすときってこういう感覚なのだろうか。デコのほくろが六つになったところで相変わらず聖臣の美貌には傷ひとつなかったが、みごと等間隔に並ぶ六つの点々が我が子のように愛おしく思われる。まあ内二つは別に腹を痛めて産んだわけでもなんでもない、聖臣についてきたコブなわけだが。私は日々の戦略的仮眠を妨害されてなお佐久早選手のライフスタイルに理解のあるめちゃめちゃいい女なので連れ子にも差別はなしだ、上手くやっていこう。と。
「……ん?」
 そういえば、どれが連れ子だったっけ。ファン需要を意識してお金とれそうな素敵な角度から構えていたスマホを退け、まじまじと実物を眺めてみる。……どれも差がない、すべてが完璧に彼の生まれ持ったほくろに見えた。どちらが前衛で後衛だったのかもはやわからない。いちばん最初に打った点、元の二連の上だっけ下だっけ。打ち上げ花火はどこから見るのが正解だっけ。
 悪戯も潮時か。不意に冷静になった頭でいい加減に聖臣が起き出す可能性などが憂慮されてきた。少々名残惜しくはあったが、私はティッシュと日焼け止めを取りに立つ。証拠隠滅は早いに限る、顔に落書きしたとかバレたら私こそぶっ殺されて夜空に輝くお星様にされかねないのだから。かつて元也くんと共謀した数々の悪戯に向けられた闇より深い瞳を想いつつ、でもこっそり待ち受けに設定するくらいならバレないかなぁなどと思いつつ、日焼け止めを垂らしたティッシュで落書きを拭ったら、ほくろが増えた。……増えた?

 ぱちぱちと目を瞬かせて、もう一度よく確かめる。聖臣のほくろ、現在七つ。

 滲んで伸びたとかではない。元々お行儀よく並んでいた落書きについては薄れる気配なくそのままに。眉尻側の列の後ろにはっきりともう一つ、マジックのペン先ほどの太さの同じような点が出現していた。リベロかな? いやいやいや、そんな馬鹿な。
 改めてティッシュでもうひと拭い。増える。めげずにもう一往復。また増える、殖え続ける──……。

「き、聖臣……? あのー……起き、られる?」

 怖いことを申し上げてよろしいでしょうか。既に私の中には目覚めた聖臣にガチ説教されることへの懸念など欠片もなかった。何故なら聖臣は、佐久早聖臣だった何かは、気づいた時には既に全身を油性インクに覆い尽くされ、人の形をした陰の如く変貌していたのだ。なに、地獄?
 はじめこそ一列につき三行の法則を保っていたものの、額を真っ黒に塗り替えてしまって以降はそれどころではない。聖臣のほくろ、現在推定四桁個数。つかもうほくろというか、パニックに陥った私がごっしごしと擦るごとに勢力を広げ続けた暗黒点は点ですらなく、もはや肌から逃げ出して世界を侵食する闇と化していた。
 一向に蜘蛛の糸下りてこないけど、なんか私、カンダタより悪いことしたっけ? 人のほくろ増やしてほくそ笑んでたのがそれ? 空間の全てが点描画みたいになってきてて、もうこれどうすんの。完全に自分の手を離れ擦らずとも増殖し続けるに至った意味不明な闇の中、私は半泣きで謝罪しながら聖臣だったものにしがみ付くことしかできない。
「聖臣、起きて……死なないで……」
「おい」
「うぅ、聖臣のほくろ、無量大数個……」
「何言ってんの」
 光明は釈迦の唾液でも鼻水でもなく、もちろん助けた覚えもない蜘蛛の糸でもなく。ぺいぺいと軽く頬をたたくてのひらの感触が、はたして私の意識を引っ張り上げた。ゆっくりと明瞭になっていく視界に、佐久早聖臣の端正な顔立ち。いつもの如く眉間にしわは寄りつつも、半覚醒の私を見つめる目がかつてないほどやわらかに情を滲ませているのは、自分も昼寝をしていたという後ろめたさからか、それとも肩に凭れて寝ていたらしい私が泣いているからなのか。
 きよおみ。名前を呼ぶ自分の声が存外掠れて憐れっぽくて、ますます呆然としてしまう。どんな夢みてたんだよ、と溜め息を吐きつつ、満更でもなさそうに髪を撫でてくる聖臣は、そういえば案外甘えられるのが好きだったなと思い至った。お互いの性格上、滅多に甘い雰囲気にはならないというだけで。

 そっか、夢か。聖臣、ちゃんとここにいるんだ……。

 もう涙まで見られて失うものもないので、思い切ってぐいぐい擦り寄ってみると「いつまで引っ付いてる気」と目を逸らされる。うわ、照れてるの貴重だなあ。日頃素っ気ない恋人の動揺に気をよくして、髪の根元を揉み込むようにあそぶ大きな掌に頬擦りなんかしてみたり。
「ごめん、なんか安心して……聖臣がいなくなってなくてよかった」
「いなくなるわけないだろ」
「うん。わかってるけど」
 ぎゅうっと抱きついて縋ってみると、聖臣も呆れたようなことを言いつつ、軽く重心を傾けて応える。やばい、悪夢に託けてファン卒倒の空前絶後のいちゃいちゃタイムが始まってしまった。今日の聖臣は私の惰眠も叱らなければ、抱擁を引き剥がすこともないだろう。極楽の蓮池のほとりにだってこんなに穏やかな午後はあるまい。こうなってくるとなんだか私も、日頃のうらみつらみも忘れてちょっと素直になれる気がする。
「ふふ。聖臣、すき」
「……なに今日、夢で頭でも打ったわけ」
「いい日だなって思って。聖臣がここにいて、珍しく優しくて、ほくろもちゃんと三つあって……あっ」
「は?」
 前言撤回、私は秒で引き剥がされて正座させられた。いちばん最初に描いた点はどうやら下のやつだったようです。


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