青から失う僕たちの




 人がはじめに失う色は決まっており、それは青色なのだという。
 教室のカーテンを引きながら背中越しに語りかける。最後の夏休みが始まる少し前から、彼女の恋人は窓際の席で空を眺めていることが多かった。今もその席で頬杖を突いている、つまらない授業を聞き流すときのように。
 「待っていてほしい」そういう旨の言葉を彼は確かに投げかけてきた。半分は本音だろう。彼女は安堵さえ覚えた、どうやらその半分の本音を担うのが、彼女が賢しらな屁理屈を展開するたびうんざりと肩を竦めて見せていた、ただの恋人としての側面であるらしいことに。彼の中に未だ、その類の弱さが残されていたことにひどく安心して、だから彼女は彼に引導を渡すべく、そっと語り起こすのだ。
 人は、青から失う。
 いま窓の向こうに鎖してみせた、目を灼くような夏空を仰ぐとき。或いは暮れ泥む街に遍在する陰翳の、あの淋しげな青灰色を知覚するとき。この先ずっと、この言説と共に彼の名前を思い出すだろう。予感であり、確信でもある。それは彼女が自らに課すひとつの呪いでもあった。
 青はどこにでもありふれている。すなわち及川徹という男は、その幻影は、さながらまなうらに残る火傷の如く、殆ど絶えることなく彼女を苛み続けるのだ。この夏が終わり、秋が過ぎ、冬を越し、春と共に彼が去り。及川徹の在った痕跡を、この教室が、この街が、この国が、人の営みの目まぐるしき代謝のうちに、すっかり押し流してしまった後にも。
 光を湛えたカーテンが微風を受けて揺れている、その波打つ薄緑色の中にさえ、成分としての青色はあるのだから。
「どうして失うんだろうね」
 ややあって、及川は呟く。振り向いて見とめる項垂れた旋毛。すかさず彼女は温めていた回答を差し出す。「光を視すぎると、」瞬間、試すような瞳に射抜かれて。彼女の声は幽かに震え、それで尚、なめらかに滑り出た。
「……光から目をまもるために、水晶体が濁っていくんだって。ただ陽の下で生きているだけでも、少しずつ」
「サングラスみたいだ」
「そう。かけると色が違って見えるでしょう。同じだよ、可視光線の中でも波長の短い、青い光を透し難くなるの。だからまずは深い青色から識別しづらくなっていく」
「うーん。おまえって、たまにちょっと理系っぽいこと言うよね」
 教科書を読み上げるような淡々とした口ぶりに辟易してか、及川が苦く眉を顰めた。彼女はからりと笑う。
「少なくとも語学よりは得意かな」
 全て、用意していた答えゆえに。なんでもないように言い連ねてみせて、彼女は漸く息をついた。洞観から逃れんとした目線が行き着く先、机に置かれた初学者向け教本の、その彩り豊かな表紙に押し込められた馴染みの薄い言語を想う。そしてそれが音となって交わされている、遥か遠い国の日常を。
 アルゼンチン共和国とは光溢れる楽園だろうか。
 日本の対蹠地に位置する、南北に長いその国土のうち、及川がどこに飛び込んでいくつもりでいるのか彼女は知らない。そんな未知の世界へ身ひとつで旅立つ及川を、生まれ育ったこの街で待つと、たったひとこと言明する。この祝福されるべき男の輝かしい生き方を見つめ続けるための宣誓。その選択肢こそが、一等まばゆいものに思えた。その言葉はきっと及川を支えるし、その決断はこの先彼女に訪れるはずの、及川徹を欠いた空しい四季を、ただ今だけの杞憂に変えてくれるだろう。それもまた予感という名の。
 伏せられていた長い睫毛が細雪を振り落とす仕草で震える。彼女はもう一度及川と視線を合わせた。核心に触れられるのを待つ彼の眼光は静かに研ぎ澄まされている。眩耀を、彼女は直視する。
 このまぶしさは青を即座に失わせるに足る。
「……青色はきっと、私たちに与えられた正気の指標なんだ」
 遠い国へ赴く及川との間に生まれるであろう、物理的な開き以上の致命的な懸隔は何度か想像した。それは断絶と言い換えて違和感がない。
 それで尚、待てる、と。及川を待ちたいと、彼女は確かに願ってしまったのだ。その結果何を失うとしても。光に目を焼かれる恍惚と引き換えに、他の全てを捨てることすら欲する。それは正気を手放すことに等しい。
「私は失いたくないな」
 だから、待たないことにした。及川徹のもう半分の本音が、バレーボールプレイヤーとしての彼が望んでいたように。
「青色の喪失は代償なんだよ、眩しさを正視することの。多くの凡人は光を耐え難きものと見做している。たとえそれを愛していても、身を曝し続ければまともではいられない」
「まともでいたいんだ?」
「あなたのまともで平凡な部分を、残らず貰い受けてあげるためにね」
 及川はふ、と相好を崩した。
「わかった、おまえも置いていってあげる」
 その時カーテンを大きく揺らして吹き込んだ風が、開かれたテキストの頁をぱららと捲った。翻る布の合間から零れ、机上にばら撒かれる鮮烈な日盛りの破片。思わず引き付けられた視界に、陽気な異国の挨拶が踊るように明滅する。アスタ・ラ・ビスタなんて出来すぎてはいまいか。まるで二人の道の別れることが、はじめから定められていたかのようだ。視界が滲むのを誤魔化すように、彼女は噛み締めたままの唇を吊り上げる。
「……決めてたくせに、何を今更」
「どうかな。おまえにも俺以外の全部、捨ててほしかったのかもしれないよ」
 及川は笑ったが彼女は取り合わない。及川はとっくに決めていたのだ、ここで彼女が息の根を止めてやるまでもなく。いずれ帰り着く場所として彼女を望む、恋人としての及川徹は、この世のどこにもいなくなる。このさき及川は青色など見ない。彼は既に失って、彼女を振り返ることもない。この期に及んで覚悟が必要だったのは、彼から目を逸らす理屈を欲したのは、本当は彼女の方だった。
 このカーテンを次に開いた瞬間から、自ら選んだ呪いによって彼女は打ちのめされ続けるのだ。視界にあふれる青を認識するたび、自らの網膜の未だ焼け残されていることに。及川徹という光を欠いた人生の、青を失うまでの永さに。
 それでも、何も手放せない。彼女は口の中だけで呟く。あなたが置いていくものは全部、この世界のすべての青色もまとめて、私が貰ってあげることにしたから。


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