被食者の爪




 尖った爪が画面を跳ねたのは、メッセージを送信すべく指を滑らせた瞬間だった。硬質同士のぶつかる不快な音。骨の底にまで響くそれは、随分久々の失態だった。しまったな、と反射的に思う。今更私にそれを気付かせたトーク画面にはよりによって宮侑の名前が表示されており、私をいっそう憂鬱にさせた。
「いやごめん、やっぱあかんわ」
 取り消そうとした数秒前の快諾の返事にはもはや既読がついていた。流石に長い付き合いだ、宮侑はこちらに代替の予定などないことを見抜いたのであろう。「なんで」と素早く返される三文字、メッセージアプリの向こう側に、鼻根にシワを寄せた不機嫌な顔が透けるようだ。
「なんでも」
 スマートフォンの表面を撫ぜながら、咄嗟に上手い言い訳を捻り出せない回転の鈍さを心底恨む。適当に濁した返事を宮侑がどう捉えるかは心得ている、そして仮に逃げ口上を練るために一旦返信の手を止めた場合の、それを上回る面倒臭さも。「さっきは来れる言うた」「事情が変わったんよ」「たった十秒でか」「そやよ、十秒で」「嘘つくな」案の定、碌な虚飾もない私の固辞をいつも土壇場で表れるお馴染みの怠惰と踏んだらしく、宮侑はしつこく食い下がってくる。次々と更新される追及を往なすべくフリック入力に勤しむ、その作業のたびに視界に過ぎる長い爪こそがまさしく私を頑なにさせているとも知らずに。
「とにかく、今日は会われへん」
 どうにか諦めてくれと祈りながら最後のメッセージを送信し、振動し続けるスマートフォンを弁当箱と一緒に仕舞う。ちょうど休憩時間も終わる。流石に終業まで放置すれば、寂しがり屋の彼のことだ。すぐに痺れを切らし、構ってくれる別の人間を見つけていることだろう。たとえばそう、爪を華やかに彩った女とか。



 手入れを怠った爪が目立ってきたと意識したのが運の尽きだったのか。午後の業務中、出し抜けに、指の長く整っていることを褒められた。勤めてそれなりになる職場だが、飾り気のない私の指が清潔さ以外の観点から取り沙汰されるのは今日が初めてのことだろう。女性らしい、きれいな指をしていると。確かに、爪が伸びるとそのように見える。近頃は私の爪に短く円くあるよう求めるものは“適切”という曖昧な表現を好むビジネスマナーくらいのもので、遺伝子の望んだ指先の形からして、これが鋭利であることをいたく歓迎しているようだ。生来の私の気性も己の末端を円く作り変える行為を好まなかった。女の爪の形は成る可く残忍であるのがいい。今履いているパンプスも、好んで集めたブーツのつま先だって、総じて攻撃的に狭まっている。
 きれい。綺麗だと口々に讃えられる私の先端、そこに宿るのは極めて女性的な、どこかヒステリカルな鋭さである。
 何気なく私の指を見とめた同僚たちは、次いでいつでも野暮ったかった爪に、案の定赤いエナメルを勧めた。流れるように展開する雑談、恐らく百人が百人同じことを言うのではないか。血を欲する凶器さながらの硬質な爪甲に、その色が最も相応しく映えると直感しない者はいない、そう思わせるに足る形状。たぶん誰一人として、この凄惨なまでの威力を秘めた爪が再び深爪寸前にまで切り詰められることをよろこぶ人などいないはずだ、ひょっとすると彼をも含めて。
 理解しつつも、揃えた指の腹側から浅い月齢の弧にも似た白光がちらつくたび、ああ爪を切らねばと心臓が逸る。彼の前に晒すなど以ての外、もはや強迫観念だ。かつて同級生だった宮侑に詰られたときの爪の長さが、丁度こういう具合だったからであろう。

 長い爪はニンゲンの爪ではない。未だ私を呪う思想は当時から宮侑の持論であった。

「なんやぞわぞわするわ、その爪」
 思えばその頃はなんら意図を帯びない、単に中学に上がったばかりの多感な男子の口から溢れた無邪気な感想に過ぎなかったのかもしれない。たまたま目に留まった同級生のそれと、見慣れた自分の爪とを比べて。のろのろと日直日誌を書いていた手を止めると、隣の机でけだるげに頬杖を突いていた宮侑は、ますますそれを注視した。
「バケモンみたい」
 放課後の教室を唐突に貫いた、手元のノートに写し取れば紛う方なき悪罵として受肉するであろうその言葉には、けれどもまるっきり温度がなかった。憎悪の熱も、冷淡な嫌悪すら滲まない、ただ視界に切り取った世界の一部をそのまま読み上げてみせただけの。それが余計に突き放したように聞こえた。
 頭を殴られたような衝撃だった。
 おそるおそる彼の視線を辿り、鉛筆を握る手指を窺う。特に宮侑の目に触れたであろう、親指と人差し指の爪ははっきりと長い。なにも、放置されて伸び放題などということはない。寧ろ鑢をかけ、甘皮を除き、保湿をし、それなりの見栄えに収まっているという自負があった。
「……なにが、言いたいん」
「別に? ただ思たこと言うただけやん」
 なんとか絞り出した問いに答える声があまりにあっけらかんとしていたので、私は思わず閉口する。請負った黒板消し等の雑務をとっくに終わらせた宮侑のさっさと日誌を提出して部活に行きたいという欲求も先刻までたしかに不機嫌という形をとってその表情に滲み出てはいたが、女の爪に関する明け透けな嘲りはそういった他者に対する何かしらの要望を伴う感情の表出とはどうやら異なるらしかった。化物の爪。もはや丁寧と愚鈍とを履き違えた要領の悪い同級生の女子個人に向けられたものですらない彼の言葉を胸裡に反芻する。
 どうして、こんなにきれいにしとるのに。
 そのとき不意に、私は自分がたったいま彼に、己でさえ無自覚のうちに温めてきた浅ましい自意識を突きつけられたのだと悟った。燃え上がった頬に遅れて俯き、指先を痛むほどに握り込む。宮侑がほんとうにそれを見透かしていたのかどうかは今となってはわからない。それでも、もしも他人の言葉で爪に言及されるとすればそれは甘やかな称賛であるはずだと疑ってすらいなかった、そんなおめでたい小娘の期待に気付かされ、私は強烈に恥じたのだ。
 実のところ私はその爪を自ら望んで伸ばしていた。というのも、その頃クラスの女子の間ではやや長めに整えられた爪がある種のステータスとされていたからだ。理由はひとつ、私たちの生きる今ひとつあか抜けないコミュニティに齎された、マニキュアという文明。

 片田舎の女子中学生たちを浮つかせるには十分だったのだ、あの煌めきを詰め込んだ小瓶は。持ち主である少女が得意げに蓋を捻ると、鼻腔を刺すような、それでいてどこか甘ったるいような匂いが教室を満たし、私たちを陶酔させる。
 いつの頃からか、その女子生徒は不思議なカリスマ性を備えていた。お小遣いの額だって私たちとそう変わらないはずなのに、どういうわけか自分を飾り立てる華やかなものを多く持つようになったからだろうか。クラスメイトはみな一様に彼女を尊敬していた。崇めていたと言い換えて相違ないかもしれない。珍しい装飾品や化粧品を次々披露する彼女を囲む様は、殆ど宗教の様相を呈していたのだ。
 固唾を飲んで見守る冴えない少女らを観客として、彼女はいつもの如く歌うように語る、これは愛らしくあるご褒美として与えられたもののひとつなのだと。蓋裏の刷毛で掬い上げられる黄金色は暮れかけた空の鮮烈さで、変わり映えのしない日常の退屈を焼き尽くすほどの目醒ましい生命力を漲らせていた。彼女が眩いそれを自らの爪に塗布すると、私たちのものといくらも違わなかったはずのこぶりな爪がたちまち大人の女性の艶やかさへと塗り変わる。決して校則に推奨されないその魔法は、その背徳感も相俟って、私たちを残らず虜にしてしまった。
 私も欲しい。この爪に、あの色鮮やかな光沢の覆いが、どうしても。
 ああ私もお母さんに買ってもらおかな、ねえなんて言うて強請ったん。同い年の少女たちの熱狂を見渡して、彼女は顔いっぱいに優越の喜色を湛えた。ばかね、とでも語頭についてなんら不思議でないくらいに。
「こんなもの、おかあさんに買ってもらうわけないじゃない、子どものおもちゃじゃあるまいし」
 この世界のいちばん素晴らしい秘密の隠し場所を心得ているとでも言わんばかりの、どこか意味深長な彼女の言をすっかり真に受けた私はそれから爪を伸ばしていた。他の女子生徒の多くがお小遣いが貯まるまで、あの魔法の小瓶をなんとかして手に入れる日のためにと爪を整え始めたのと同様に。まるで白馬の王子の迎えを夢みる間抜けな村娘さながらだ、愛らしくあるご褒美とやらがいつか自分にも与えられると信じて。

 宮侑は、その不気味を嗤ったのだ。

 死角から思いがけず伸びてきた手に手首を捕らえられるまで、私は自分が呆然としていたことにすら気が付かなかった。
 手。そう、手だ。隣の席に座っていたはずの宮侑の手が、いつのまにかきつく握り締めた私の右手を抉じ開けようとしている。内に、あの滑稽な長い爪を秘めた拳を。私は大いに混乱し、ひとまず決して暴かれまいとますます強く握り込む。
 そう、彼が言ったのだ、化物の、爪だと。
 なんで、いやだ、見ないで。咄嗟の拒絶の言葉さえ渇いた喉に張り付いて音になることはなく。無言の攻防は、やがて宮侑が吐き捨てた溜め息によって終息を迎えた。
「……なんやねん、日誌書くのおっそいから代わりに書いたろ思たのに。女ってほんまわからん」
 私から筆記具を奪い取ろうとしていた宮侑の手は熱く、乾燥してはいたがなめらかで、その爪は短く円く、場違いにも私は、彼がバレーボールを能くするということを想った。彼と同じ世界、コートラインの内側に生きる人々が、皆このように洗練された指をしているであろうことを。
 離れていこうとする手に震える左手を重ねると、重たげな目蓋の下の眼球がきろりと私を睥睨するのがわかった。人が人に向ける目として、少なくとも模範的ではない。
 手と手を触れ合わせたまま、暫し私たちは見つめ合った。その線の内側から、外側に立つ私に向けられた宮侑の瞳は冷めきっており、しかしその奥の方に、まだ飼い慣らされていない暴力的な熱が渦巻くのを垣間見た。

 その晩、駆り立てられるように爪を切った。戒めに神経を磨り潰すが如く、その深爪を翌日も削った。指先の皮が鑢で破れればその脆弱さを大変に憎み、ハンドクリームを塗り込んで荒れかけた肌を落ち着ける。あんなに焦がれたマニキュアのことなど頭から失せ、どういうわけだろう、宮侑のことばかり考えていた。ただあの瞳から逃れたかった。私を人と見做さない、宮侑の眼差しに晒されていては、自分が人でなくなる気がした。



「俺、今日誕生日やねんけど」
 宮侑からの最新のメッセージは数時間も前に送られてきた小賢しい一言だった。職場を出て往来を歩きながら、連なる吹き出しを遡る。「なあ、ほんまにあかんの」次に新しい問い掛けに、あかんよ、と心の中で答えながら、トーク画面をスワイプしていく。
「もうお前の他に誰もおらんねん」
 ──気分やないのか知らんけど、いざとなったら居るやんか、女の子が。
「チームでは俺の誕生日祝い、別の日に予定されとって」
 ──他所で誰かと過ごすと思て気遣ってくれたんやろね。たとえば、恋人とか。
「治のやつは他所で祝われとって」
 ──治は人望あるからなあ。それか彼女と過ごすんやない。
「お前、侑くんが可哀想やと思わんのか?」
 ──思わへんよ、全然。やって、

 駅に着き、ふと画面から顔を上げると、改札口のすぐ近くに見慣れた長身の男がいた。円柱に背を預け、不機嫌そうに虚空を睨み、しかし思わず凍りついた私をみとめると、不遜に組んでいた腕を解く。彼がこちらへ歩を進めるたび、世界の音が失われていくようだ。マニキュアの瓶に詰められていてもおかしくない、美しく鮮烈な金色。
 ああ、と私は嘆息した。本当に、今日は女の子と遊びたい気分じゃなかったんだな。
「俺を待たすとはええ度胸やないか」
「……会えへん言うたやん、なにしとん」
「俺かて言うたわ。お前のほかに捕まらんし、俺、今日誕生日やて」
 険のある演技から一転、宮侑はけたけたと笑い出した。俺んこと騙せるとでも思たん?お前が暇しとんのなんか、侑くんにはお見通しやで。つ、と背筋を冷たいものが走る。それは彼がある限定的なコミュニティにおいて見せる無邪気な笑顔で、だからこそ私は今日、彼の期待する人間ではない。
 そういえば宮侑は、毎年の誕生日には家族や友人に祝われていた。その習慣から、基本的に一人で過ごすという選択肢はなく、つまりそれだから、私という“友人”が候補に残る限り、“女”と過ごすことは選ばないのだ。
 彼にとって、“女”とは、即ち。
 見繕ってきたらしい近隣の店の名を楽しげに挙げる宮侑に適当な相槌を返しながら、さり気なく手を隠した私は彼から少しずつ、少しずつ距離を取る。冷静な思考が失われている、ことには気付きつつ、加速する心臓の早鐘が、ここから逃げろと逸らせる。
「侑」
「ん?」
「誕生日おめでとう」
「おん。あ、そんで今日な、」
「ほな、また埋め合わせするから。今日はごめん!」
 不意をついて踵を返したつもりだった。こうまですれば流石に追ってはこないだろうと。改札目掛けて走り出した私は、しかしあっさりと宮侑の長い腕に捕まった。頭が真っ白になる。手を、掴まれた。
「なんやねん、お前。今日おかしない?」
「っせやから、ほんまに無理で、」
「はあ?わからんわ。そんなん、」
 ふと、触れ合う肌を伝って宮侑が息を呑むのを聞いた気がした。きっと見えたのだ。見てしまったのだ、私の爪を。久しく宮侑の前に晒さなかった化物の。
 きし、と手首が軋む音がした。振り返らなくても分かる、いま宮侑の瞳に宿っている、記憶の底にも未だ鮮やかなあの獰猛な熱病の色が。
 ──ああこんなん、私の方が可哀想やんか。



「爪、ずいぶん短くしとんやなぁ。バレー始めたばっかの子どもみたいや」

 当番が一周し、再び宮侑と私に日直の役割が巡ってきたとき、宮侑が私に向ける瞳には明らかに以前と違う温度が見てとれた。私はほっと息を吐いた。宮侑にとっての人間の条件は、やはりあの日察した通り、短い爪であったらしい。穏やかな目を向けられることに内心胸を撫で下ろし、同時に何か悔しい気持ちになって、恨み言に唇を尖らせた。
「……侑が言うたんやんか。長い爪、バケモンみたいって」
「そんなん言うたっけ? まあでも……フッフ、こんなら人間の爪やんな」
 宮侑は笑った。嘲笑ではない、年相応の、友人に向ける笑みだった。
 今ならはっきりと分かる、それは幼い私が思うより根深い、決定的な錯誤であった。まだ判断基準の曖昧だったその時分に、短い爪、という共通項で以て、私は彼が幾つか用意した線引きのうち、少なくとも一番外側へ締め出されることを回避したのだ。滑り込んだ領域は大方、“男友達”といったところだろう。その一歩内側にあるライン、バレーボールプレイヤーを集めた箇所が彼の関心の殆どを占めるゆえに、バレーボールに無関係な男友達とは、彼の人間関係において最も希少な属性であった。比較対象の少なさが大いに手伝い、私は女の身でありながら、爪を短くするという簡易な擬態だけで長年その椅子に座り続けることができた。
 宮侑は長い爪を蔑視している。その度合いは歳を重ね、男として成熟していく彼が異性の関心を惹くようになるにつれ、ますます増長していった。
 やがて彼の男友達というラインの一歩外側にとるに足らぬ有象無象、鋭い爪で武装した化物──即ち“女”が犇いていることを私は知るようになる。彼が傍らに侍らせ消費する対象をそこから選んでいることも。
 高校生になる頃には、かつてマニキュアをひけらかしたあの子も、彼女に追従する少女であった幾人かも、宮侑に蹂躙されたと噂に聞いた。宮侑と関係した彼女たちの外見は私とそうは変わらない。ただ一点、彼女らは一様に凶暴な爪をもち、ネイルの華やかな光沢の向こうに脆弱な人間の爪を覆い隠していた。
 宮侑が浮いた話に事欠かなくなっても、私には一向にそういった声はかからなかった。身長が伸びなくなり、身体がまるみを帯び、髪の色を染め、巻いて、たまに化粧などしてみても。私はいつまでも宮侑の男友達だった。こどものままの爪を理由に、彼は私を、私だけをずっと、或る選択肢から除外していたのだ。
 宮侑が私を人間として見ている。
 それだけが私を人間たらしめた。呪いのように。あの軽蔑に貫かれた日から、彼に心底怯えた日から、私のアイデンティティとは宮侑の瞳にあったのだ。



 手を握られている感触がある。そこに人が人に触れるやさしさはない。まだ微睡のうちにいる私の指を、侑が弄んでいる。ただ、手慰みのように。
 ああ、爪を切りたい。そんなもの、今更意味を成さないとしても。
「きれいな爪やなあ」
 息を吹くように、口先だけで男は笑う。侑に嘘を吐かれたのははじめてのことかもしれない。「ぞわぞわしてまう、」そのまま唇を寄せられ、一本一本丁寧に齧られる指先は、もう人間のものとは見做されていない。侑にとっての蹂躙の対象、女という化物のからだ。
 きっと侑は二度と私に爪を短くすることを許さないだろう。そして来年以降、彼の誕生日の選択肢に私はいない。なんとなく、侑が次に何を言うかが分かる気がした。あの、彼の周りに集る女の子たちの華やかな指先。目尻から直接シーツに滲む涙の感触が、ひどく寒々しく感ぜられる。
「なあ爪、なんか塗れ。赤いのがええんちゃう」
「……なんで」
「やって、可愛らしいやんか。なんなら俺が買うたろか」
 上手に泣けたからご褒美や。耳元に囁きながら侑は甘ったるく微笑んだ。熱に蕩けるように、加虐的に細まる目元。マニキュアなんて与える以上、彼は友人でも、勿論家族でもない。男は飢えた捕食者の目をしていた。


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