稲荷崎

見合いの話/北

元々、愛のない結婚だったのだ。些か投げ遣りな決断だったと回顧できるほどに。

漠然と、いずれ運命の相手が現れるなどと夢想していた少女期は過ぎ去り、生え抜きで入社した企業に尽くす二十代も気付けば殆ど擦り切れていて。或る週半ばの23時、決まりきった作り置きを終えてまな板を洗っている時にふと、家庭に入ろうと思い立った。とは言え相手に当てなどない。仕事関係や昔馴染みは論外、反面所縁もない人との出会いを積極的に追い求めようという気力もなく。落ち着いた先は所謂見合い婚というやつだ。相手は兵庫の祖母のツテで、農家の長男。
隙のない佇まいというと大仰に聞こえるだろうか。けれど第一印象からしてそうだった。扉を開けて入室する、椅子を引いて座る、そんな些細な所作にさえ、きっちりと尖らせた鉛筆で楷書を一画ずつ書いていくような几帳面さが見て取れる。
顔合わせ前に数枚見た写真でも精悍に思われた容貌は、間近にするとますます顕著だ。けれど、飛び抜けて体格が良いというわけではない。農夫らしく日に焼けた肌や堅固に締まった筋肉は健康的ではあるが、誰の目も惹く覇気があるとか存在感があるというのも違う。あるとすればたぶん、眼光だ。そんなふうに当たりをつけて、私は祖母の陰に隠れるようにおずおずと、まっすぐな視線を見つめ返す。冷たい瞳。などと形容すると流石に語弊があるが、揺らぐことのない怜悧な眼差しはどこか厳かでさえあり、視線が合うだけで自然と背筋が伸びる心地がする。
若いのにしっかりしているという決まり文句が現実にこれほど似合う人もあるまい。
さて。後は若いお二人で、などと定型句と共に取り残されて案の定会話に窮し。初対面の席でうっかりそんな感想をこぼした私に、しかし彼は笑いかけた。想定外に柔らかく、それでいて抱いた印象を裏切らない。白い歯をちらと覗かせつつどこか気品の滲む爽やかな笑顔。言動はごく普通、「若いのに、て。なまえさんも変わらんやろ」といった感じで。凛と張り詰めて見えた相好をいとも簡単に崩してみせるのが意外でありつつ、意志の強さを象ったような平行眉が、笑うときに下がるのではなく、少しだけ吊り上がるのがこの人らしいと思った。
らしい。
まだ出会って幾許も無い時分から、“らしさ”だなんて判断がつくほどに、透明な人なのだ。芯がある、というか。たとえば特段気を張るでもなく、きっと彼はいつでも姿勢がいい。その背骨に添えられた信念という物差しは、普遍的な理想であるゆえに、誰がどんな角度から眺めてもまっすぐに天を指すはずだ。
幸せになれるだろう、と予感した。結婚してこの人の隣を歩き添い遂げる、未来の自分の道程まで見える気がする。終着点を目視できるなだらかな丘を往くように。脛丈が精々という慎ましやかな草花のうえに、既に多くの人に踏み分けられた跡まで備えた安全な道をなぞる。そんな日々が延々と。穏やかであたたかで、幸せな家庭を築けるだろう。同時に、この人と私との間に、燃えるような焦がれるような、そんな烈しい感情が交わされる瞬間は永遠に訪れないだろうとも直感した。別に、構わない。レンアイがしたいだなんて麻疹のような願望、とっくに克服している。彼もそうだったろう。否、そもそも興味もないのか。ともかく互いに拒絶する理由もなかったために、あれよあれよと結納に至る。淡々と慌ただしい日々の中に、フィクションに聞くような甘い言葉は一度たりともあらわれなかった。ただ、彼は「大切にする」と言った。私を。彼の人生に埋め込まれる、私のこの先の人生を。それきりだったが、十分であると判断した。

はたして今、私は大切にされているのだろうか。乗り慣れた軽トラの助手席の窓を、見慣れた景色が次々と流れていく。流れても流れても、見慣れた景色。私たちの生きる日常そのもののように。


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「うちのモンが世話かけたな」
閉店後のおにぎり宮の店内。既に暖簾を下ろした入口から静かに入店した信介くんは、開口一番こう言い放った。なによりもまずこの店の店主に声をかけたのだ。実に模範的だと思う。冷たいカウンターに頬を押し当て、泣き腫らした火照りを落ち着けようとしている女の感情など一顧だにしない。家出した嫁を匿っていた男に礼を述べ、


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そうして根付いた土地での暮らしは、ともすれば東京で勤めていた頃よりも無味乾燥だ。反復と継続。都会に住もうが田舎に生きようが、人の営みの本質は変わらないものだ。春には春のこと、朝には朝のこと。雨が降れば、雨の日にすべきことを。そういう生活。社会に出てから、否、それよりももっと以前から、辟易するほど繰り返してきた単調な日常に似ている気もした。けれど、ただひとつ。彼はそういうことの一切を“流さない”。何もかもに対して丁寧であり、日常の退屈さえも愛しんでいるようだった。



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「……ええか?」
もっと深くで、違ったものを問われている様にも感ぜられた。たとえば、生涯誰からも愛されない覚悟。この先彼以外の人からどんなに熱く慕情を向けられても撥ね退け、絵に描いたようにありふれた凡庸を守り抜く決意、と言い換えても良いだろうか。いい、と思った。どうだっていい、何かがひとつでも変わるのなら。昨日と違う明日が来るならば。
愛のない結婚。上等じゃないか。





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