だれかの | ナノ




 目覚ましを止めて、それでも中々起きてこないわたしをだれかが起こしに来る。その時間がとても好きだった。
 飛び起きる。
 鳥の声と往来の音だけ聞こえる。家の中は静かだ。わたし以外だれもいないのだから。
(だれか、ってだれ)
 父と母は家に帰らない人たちだった。たとえ家にいたとしても、彼らはわたしに構ったりしない。
 冷凍庫から食パンを取り出して焼く。ジャムをたっぷり乗せるのは、焦げたところがかさかさ喉にひっかかるからだった。何年も繰り返しやってきたことのはずなのに、思い出すようにしてわたしはマーマレードのジャムを食べた。
 呼び鈴を鳴らした友人と学校に向かう。どうせ四限で帰すなら休みにしてくれたっていいのにね。頬を膨らませる彼女にその理由を訊ねると、ゆっくりまばたきをして「お昼からひどい吹雪になるからって警告されてたじゃん」と教えてくれた。そうだった、と頷く。宿題の話に移っても同じ流れになった。彼女は心配そうな顔をしてわたしの額に手を当てる。
「何か心配ごとがあるなら相談に乗るよ」
 わたしに熱がないことを確認すると、彼女はそう言った。あなたがぼんやりするなんてよっぽどのことじゃない、と言ってわたしの手を取る。ひどく長い夢でも見ていたかのように、現実のことがどれも久しく感じるのだ、とは言わなかった。何でもないよと笑い返す。

 教室に忘れ物をしたことに気づいたのは夕食を食べ終えてからだった。雪はすでに止んでいた。急ぎのものというわけではなかったし、夜の学校にはきっと入れないこともわかっていたけれど、わたしは凍っている道を慎重に歩いていた。家のよそよそしさ、慣れているはずの静けさ、それらから逃げるように外に出ていた。
 滑らないように俯いて歩いていると、それまで白一色だったはずの視界が不意にむらさきに染まった。おどろいて顔を上げると藤の花に囲まれていた。藤棚のアーチがずっと続いているようだった。振り返ると今まで歩いてきた道が暗闇にのまれていて、ここがライトも無いのに明るいことに気がつく。わたしは奥に進んだ。薄紫のカーテンと絨毯が延々と世界をつくっていた。
 しばらく歩くと、道の中央に若い男が立っていた。男はわたしが彼に気づくよりも前に、わたしに気づいていたようだった。射抜くようにわたしを見つめる視線にわたしは足を止めた。
 ここは。
(ここはあの人の居場所で、わたしが入ってはいけない場所だったのではないか)
 引き返そうと、踵を返す。後ろは真っ暗闇で、ただひたすらに暗闇で、道が見えなかった。藤も、雪も、何も無い。
「主」
 すぐ後ろで声がした。ふじ色の瞳が、不安げにわたしを捉えていた。
「迎えに来てくださったのですか」
 わたしは彼と今ここで初めて会ったのだから、彼が呼ぶ人はわたしではないことはわかっていた。人違いだ、と告げるべきだった。けれどもわたしは黙って彼を見つめ返すだけだった。
 否定も肯定もしないわたしに、男も黙ってわたしを見下ろす。その表情は苦しげに歪んでいた。やがて呻くようにこぼされた言葉で、その意味を知る。
「主、ですよね。そうでなければここには来られない。迎えに来たのだと、仰ってください。どうして俺をそんな目で見るんです。俺の名前を呼んでください、ねえ、あなたは」
 俺のことを忘れたりしていませんよね。
(この人は、自分が待っている人のことを忘れてしまったのか)
 憐れだと思うと同時に、幸福なことだとも思った。思い出せないのなら、わたしのように迷い混んだ人間が嘘を吐いても、しあわせになれる。
 男の頬をそっと撫でると、彼はおどろいたように目を見開いて、恐る恐るわたしの手に自分の手を重ねた。彼の嵌めている手袋はその色のようにひやりと冷たかった。
 頷いたら戻れないのだろうと感じた。けれど、帰る場所はひとりだ。
「あなたはわたしのことを忘れたのに?」
 わたしは笑った。傷ついたような顔をしたこの人の名前を当然のように、わたしは知らない。知らないけれど、知っている。きっと、正しく名前を呼べる。
 花がざわざわ揺れている。吐く息は白く、指先が透けていた。口惜しそうに唇を噛んでないで、わたしの名前を呼んでほしい。けれども、彼はわたしの名前を知らない。知らないから、わたしは彼の待ち人になれる。


「   」





 目を覚ます。目覚ましを止める。静かな朝。家にはわたしだけ。子供の声は聞こえない。あさげの匂いなんてしない。この家には他にだれもいないのだから。
「長谷部……」
 ごめんね、と答えた時の男の顔がどんな表情を浮かべていたのか、目を逸らしたわたしにはわからない。だって、だって、わたしじゃないわたしを求められるだなんて、そんなの、ひとりでいることと何にも変わらないじゃない、それならいらない、ひとりでいい、ひとりの方がいい。だからはやく泣き止んで、学校に行く支度をしなくちゃ。呼び鈴を鳴らすひとに会いたい。


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