さよならのためにしなければならないことがあった。それには時間が必要だった。或いは運が。わたしはいい子でありたかったし、夢見がちな少女だった。
だからわたしは黙っていた。黙ってそれを見ていた。
うさぎが一羽いなくなったのは、丁度わたしの班がうさぎ小屋の掃除に当たっていた時だった。小学生の時のことである。
最後に鍵を閉めたのは、わたしだった。みんながわたしを見た。鍵もいっしょに無くなっていたのだ。
鍵はちゃんと職員室に返した、とわたしは言った。でも無いじゃん、と誰かが言った。なくしたの、と誰かが言った。お前が盗んだのかとみんなが言った。
何の証拠もなく決めつけるのはよしなさい、と先生が言った。あなたがそんなことをするような子じゃないって先生は知っているからね、と泣き出しそうだったわたしの頭を撫でた。やさしい手つきだった。
わたしじゃない、違うもん、違う、わたしやってない……。しゃくりあげながら繰り返した。
その内に、ごめんねが聞こえた。
霧島の隣を歩くことはなかった。わたしはいつも彼の斜め後ろを歩いていた。
泥棒。振り返った霧島の目は、猫のように細められていた。先生もあいつらも甘いよなあ、と笑った。
わたしは真面目な優等生だった。先生からの評価は高かったし、男女共にそれなりに好かれていた自覚もあった。それでも、わたしに対する追及がすぐに止んだのは、やさしい人たちの集まったクラスであったことが一番大きかっただろう。
飼育小屋の鍵は、うさぎと一緒に埋めた。
「つまんねー」
吐き捨てられた言葉に笑ってしまったから、慌ててうつむいた。うつむいて、でも堪えきれずに笑った。
いつから霧島の後片付けをするようになったのかは覚えていない。わたしたちは幼なじみだったけれど、だから特別に仲がいいとか、そういったことはなかった。ただ、他の人たちよりも長い時間、近い場所で彼を見つめていたから、わたしは深い確信を得て彼の異常性に触れることができた。それだけだった。
一度だけ真似をして、蝶の羽をもいだことはある。蝶を選んだのは、うつくしい羽が好きだったからだ。自分のものにしたかった。結局その羽は、眺めるだけ眺めてその日の内に捨ててしまったけれど。
「気持ち悪いんだけど」
手を真っ赤に染めた霧島に、うんざりしたように言われた。彼にはわたしの行為が理解できなかったらしい。
人を殺すのだろう、と思っていた。霧島はテレビで取り上げられていた、殺人事件の犯人である少年とよく似ていた。
(いつか歯止めのきかなくなったら)
父親に腹を蹴られ続けている間、わたしはじっと目を閉じてばらばらになった動物たちの姿を思い出すことにしていた。それが唯一の慰みだった。
父はいつもアルコールと体臭の混じったくさい臭いをさせていて、わめき散らしては、わたしや母に手を上げた。母はわたしを大切だと言って、わたしの手を振りほどいて家を出ていった。わたしは笑っていれば、誰にも何も気づかれないことを知っていた。
「 ちゃんって霧島のこと好きなの?」
かわいくておしゃれで頭もよくて運動もできてやさしくて人懐っこい、学年でいちばんきらきら輝いていた彼女は霧島のことが好きだったらしい。
中学生の時に霧島がくれたねこのストラップは、彼女からもらったものらしかった。からっとした笑顔だった。バレンタインのチョコレートだって笑ってわたしにくれた。霧島はわたしのことをゴミ処理機か何かのように思っていたのかもしれない。かわいくラッピングされたチョコレートを捨てる気にはなれなかったから口をつけた。半分まで食べて、捨てたけど。
霧島の両親は、彼が高校に入学すると家を出ていってしまった。霧島がそのことを気にする様子はなかったけれど、危ないと思った。舞台を用意されたようなものだし、何より、彼は親に見放されたのだ。
わたしは宝くじがはやく当たりますように、と神社に通うようになっていた。父は仕事場で揉め事を起こし、クビになってからはパチンコ屋に入り浸るようになっていた。父方の祖父母の援助でわたしたちはそれなりの暮らしを送ることができていた。彼らはわたしに何度も謝ったけれど、父をどうにかしようとは最後までしなかった。
霧島が執心していた男の子は、彼の葬式で泣いていなかった。真っ直ぐに遺影を見つめていただけだった。中学生の時に付き合っていたかわいいあの子は泣いていた。彼の両親も泣いていた。
霧島は殺されたのだった。
死神マジシャンと名乗る犯人は、他に二人、霧島の所属していたマジック部の先輩を二人殺害した。未だ見つかっていないその犯人は、これから先、見つかるとは思えない。手がかりは少なく、事件からしばらくすると週刊誌は迷宮入りの言葉をつかった。
「死んだのは、ほんとに霧島だと思う?」
高遠は、驚いたようにわたしを見た。わたしが彼と話をしたのはその一回きりだった。
「頭はどこにもないんだし、もしかしたら霧島は生きていて、見つかった体は別人のかもしれないって思わない?」
「警察は見つかった遺体は霧島のものだと公表していたし、……これは霧島の葬儀だろう」
わたしは希望が欲しかった。霧島がまだ生きているという希望が。でも、彼の友人で、頭もとても良い人が彼の死を認めていたから、わたしも認めざるをえないと思った。
宝くじを買うのはやめた。持っていたものも番号の確認もせずに千切ってゴミ箱に捨ててしまった。何もかもどうでもよかった。
午後のやわらかな日差しが窓から差し込んでいた。教室にはわたしと霧島だけだった。窓に寄りかかっていた霧島がとてもやさしい声音でわたしの名前を呼んで、微笑んだ。
「お前の願い事きいてあげるよ」
わたしはその声を聞いたことがあった。あの子に向けていたものだ。やさしい眼差し。やさしい声。壊れ物を扱うみたいな手つき。
ぞっとした。恐ろしくて、悲しくて、わたしは後ずさる。霧島はわざとらしく目を細めて穏やかな顔をつくる、怯えた猫にこわくないよとでも言うように。引っ掻かれたこと、忘れたの? 列が乱れていたらしかった。足が机にぶつかる。
「逃げることないだろー」
死にたかった。死にたくなかった。うそ。死にたかったのは本当。ただ、霧島純平に、殺されたかった。他の死に方は、いやだった。
「霧島のこと、好きでしょ」
振り返るとあの子がいた。わたしはあの子に嫉妬したことはなかった。彼女になりたいとか、そういうことに興味はなかったから。あの子の隣にいたのは霧島純平のにせものだったから。
「でも、ねこのストラップをもらった時、うれしかったよね?」
目が覚めても、わたしは泣いたりしていなかった。
猫を埋めた空き地には家が建っている。うさぎを埋めた林も集合住宅地になるらしい。
父は未だにパチンコも酒もやめられないでいる。病気だった。けれどわたしは父を病院に連れていくつもりはない。彼はパチンコが当たると、おおきなくまのぬいぐるみを貰ってきてはわたしにプレゼントする。わたしが喜ぶと彼は思っているのだ。期待通りにわたしは嬉がってみせる。部屋に増えていくかわいがられないものたち。
祖父母は揃って死んでしまった。火事だった。彼らの遺産は底を尽きはじめ、わたしは人体の仕組みについて学びはじめた。
公園から色とりどりの薔薇を手に、子どもたちが飛び出していく。ピエロが手を振っている。
マジックの修行にイタリアに飛んだはずの高遠はいつの間にか犯罪者になっていた。霧島がそれを嗅ぎ当てていたのかどうかはわからない。
(けれど霧島の葬儀で彼と親しくていたのに泣いていなかったのは、高遠とわたしだけだった)
「あれほんとはさ、全部俺が仕組んだことだったんだぜ。最高のショーだったろ?」
部屋の中は蝶に埋め尽くされようとしていた。蝶が羽ばたく度に鱗粉が落ちていくのが見える。床には飛べない蝶が犇めいていた。鱗粉を落とし尽くした蝶はそれに混じっていく。
からから笑う。霧島も蝶に埋もれていく。視界は黒と黄色となにかぼやけたそんな色に閉ざされる。
最後の一頭になる。わたしはそれを捕まえようとして、気持ち悪くてやめた。人のからだなんて尚更だ。夢を見ていたからうつくしいものに見えた。
お金をたくさん遺して死ねば、両親はわたしの若すぎる死と健気さに泣いてくれると思っていた。小学生のわたしはそんな妄想にすがって生きていた。中学生になっても、高校生になっても霧島が死ぬまでその未来に夢を見続けていた。ほんとうは今だって。子どもはとっくに死んでしまっているのに。
ばらばらにされて遊ばれていた動物たちをわたしはもう触れない。
息をとめられないね。
夜会さまに提出(BYE)
20160407