短編 | ナノ




 三月の空気は光を含んでいなければ未だ寒い。もう一つの存在で優しいあたたかさは生まれるのだ。今日は太陽の姿は雲によって隠されていた。薄くも厚くもないような雲だけれど、空全体を覆っていた。世界は灰色だった。冷たい風が目の表面を撫でて、体の上を通り過ぎる。仰向けに寝転がってから暫く経つのに、背にしたコンクリは冷気をひやりと纏ったままだった。体はすっかり冷えていた。そろそろ戻ろうかな。下の賑やかな声もここに来てからのものよりだいぶマシになっていたから丁度良い頃合いだと思った。泣いて、笑って、写真を撮って、そう仲も良くない同級生にも写真に収まれと腕を引っ張られ、不細工な笑顔でシャッターを切られるのは中学の時だけでうんざりだった。確かに仲の良い友達もいたけれど、どうせ直ぐにメールも電話もしなくなるのは明らかで、形だけの「いつでも連絡するからね」といった言葉を掛けられるなら聞かない方が未だ「友情」が嘘臭くならなくていいと思った。
 今日は卒業式だった。


「矢張りここに居ましたか」

 重たい扉が開く音がした。錆びた音はよく響く。誰が来たのかと思って、でも確認するのが面倒で、寝転がったままでいると鼓膜に届いたのは馴染みのある低い声だった。そこで視線を遣ると予想通りのその人、──六道骸が立っていた。

「他の生徒は皆帰りましたよ」
「……あ、ホントだ」

 聞こえていたはずの騒がしさはいつの間にか消えていた。私は帰ろう帰ろうと思いながら、中々起き上がれないでいたのだった。何をするのも億劫で、このまま他の何物とも隔離されたようなこの空間に居たいと思っていた。女子高生のままでいたいと情けなく縋ってもいた。
 六道は私の隣に腰を下ろした。それから手に持っていた紙コップをくれた。

「ずっとこんな所にいては冷えたでしょう」

 わざわざ買ってきてくれたらしい。中身は熱々のココアだった。私は体を起こした。見えた膝小僧は赤くなっていた。
 恐る恐るココアを啜る。猫舌なのだ。すこしだけ含んだココアは口の中一杯に靄のような甘さを広げる。
 六道はお母さんみたいだと思う。それは彼と親しくなってずっと感じていたことでもあった。そんなことは勿論言わないけれど。
 胃がほんのり温かくなった。冷えていた指先にもじわじわと血が通っていくのが分かる。
 ほう、と息を吐いて、その息が白いことに、まだこれだけ寒いんだねと、六道に言おうとして私は彼のボタンが全て残っているのに気付いた。

「……ボタン、減ってないね」
「クフフフ、当たり前でしょう。この僕に限って簡単に人に物を奪われるなど有り得ない」
「誰も奪いに来なかっただけじゃないの」

 ぶん、と振りかざされる手刀を私が避けられたことは今までに一度も無い。例の如く頭にまともに入った。痛いよ。お前がそんなこと言うからです。六道は愉しげに唇を歪ませる。唇がやけに赤く見えて、色っぽい。

「女にはもうちょっと手加減するとか」
「これでも一応手加減しているのですが」

 オッドアイも白い肌も流れる藍色の髪も、彼の造形はどれもが美しくて私は目を伏せた。美しいものは何よりもの財産だと思う。それが若さによるものだとかでは無いとしたら、さらに。六道はきっと年老いても美しいままだ。何となく、そんな気がする。

「六道は大学行かないんだっけ」
「ええ」
「ホストでもやるの」
「どうでしょうね」
「ホストやりなよ。口上手いし、色気あるし、ナンバーワンなんて簡単になれるよ」
「当然」

 どこからともなく満ち溢れる自信がこの上なく妬ましく思う。余裕をたっぷりと含ませた微笑を浮かべる六道が好きだと思う。愛憎はいつも隣り合わせだ。
 私は乾いた笑い声を立てていた。いいね、と言った。いいね、あなたは何でも出来る。そんな言葉を吐くつもりも、笑うつもりもなかったのに、私はどうしてか自嘲的な顔を作っていた。六道は眉を顰めた。不快だと言っていた。私はそれに脅えた。一方で、それを憎らしく思った。いいじゃないか、事実じゃないか。急に泣きたくなってきて、空を仰いだ。目も閉じる。目蓋が熱かった。視界は真っ暗には成らないで赤いばかりだった。

「……どうしたんですか」

 六道は困っていると言うよりも、呆れているようだった。自分でも呆れていたから人から見れば尚更そうだろう。卒業式という行事の所為だ。悲しくなくても、思い入れなぞ無くとも、「お別れ」だとか、そういう言葉は、心を揺らす。普段は割と物事に対して冷めている方だと思うが、変なところで簡単に心を乱されるから自分でも自分を手に負えない時が多くあって、今がまさにそれだった。
 私は目を開いた。飛び込んできた世界は、塞がれたままだった。

「……私は、美しいまま死にたいって思ってたんだ。だから若い内に死ぬんだって決めてた。高校の内くらいに、って。それが将来の夢でもあったの。だけど私はいつまで経っても美しくならない。周りの子は皆綺麗になっていくのに、私はいつまでも醜いままで。それをずるずる引き摺ってたらもう、高校終わっちゃった。大学には行くけど、したいことなんて何も無いよ、大学も本当はもうどうでもいい。嫌だよ、私まだ女子高生でいたい」

 誰かに聞いてもらいたかった弱音だった。ずっと私の中で燻り続けていた私を縛って支えていた思考だった。友達だと笑う彼女たちには間違っても一番知られたくないと思っていた。おかしな子だと思われたくなかったから。
 多分、六道だから話すことが出来たのだ。蔑視されることは恐ろしいけれど、六道なら、大丈夫だと安心していた。たとえそう見られたとしても、六道にならいいと思った。

「死にたいと思っている人間が美しくなれる訳が無い」

 暫くして、六道が言った。その声は、恐ろしく底冷えていた。私は彼の顔を真っ直ぐに見て、その言葉を受け止めることは怖くて出来なくて、何も言えずにつやつやしたローファーの爪先をいじった。
 どうしてぺらぺらと喋ってしまったのだろうと後悔に襲われた。やっぱり言わなければよかった。何事も無く、少し変わった子だと思われたまま卒業して、別れてしまえばよかったのに、もうそれは叶わないことになってしまった。

「お前は何か間違っています。死を覚悟した者は確かに美しく輝いて見えるでしょう。しかし彼らは死にたいと思っている訳じゃない。ただの自殺志願者とは違う」

 違う!私は、自殺志願者なんかじゃない。ただ、ただ……。言い返そうとした。言い返せなかった。何度もこの場所から飛び降りることを想像していたのは紛れもなく私自身だった。
 私は弱いのだ。皆も同じようなものを抱えていてでもそれをちゃんと自分だけで抱えているのに、私は自分がそれを持ちたくないからといって大層な重さがあるわけでもないのに重い重いとさも大変そうに、誰か助けて下さらないかしら死んでしまうわと周りにアピールして人に荷物を持たせる狡賢い貴婦人のように思えてきて仕方なかった。わたくしお箸より重いものを持ったことが無くて。途端に恥ずかしくなった。顔がさあっと熱を持った。それがさらに恥ずかしさを呼んで、落ち着けと舌を噛んだ。そうやって色んなものが通り過ぎるのを打ち消すのを痛みを与えて耐えるのが私が私を守る術だった。

「死と生は繋がっている。死に対する美しさなんて所詮ただのまやかしに過ぎない」
「……まともなお説教をする人だったんだ」
「僕がお前に死んで欲しくないだけですよ」

 横目を使うと六道が私に微笑んでいた。微笑んでいたというには、細められた目には憐れみばかりが浮かんでいて、悲しくなって、私も眉を寄せて笑った。
 六道にとって私が死のうが生きようがどうでもよいことは、彼の世界から外れたところに私の存在があることは、知っていた。酷薄そうで、脆いものを見捨てて置けない彼の性格も、知っていた。だから、私は訊ねた。

「私が死んだら、悲しい?」

「当たり前です」六道はゆっくりと言った。私に染み込ませるように。
 六道は私が酷く臆病で脆いことをようく知っている。そんなに私は危うく見えるのか、と言いかけて、口を噤む。やさしいうそをわざと干からびさせてしまうこと程、無意味なことは無い。
 私は立ち上がって制服を叩いた。この制服を着ることはもう無い。ここに来ることももう無い。六道とこうして二人で話すことももう無い。会うことも無いだろう。
 もう高校生じゃなくなるんだよ。私が呟いたら、六道はそうですね、と言った。

 帰り道に鉛色の空に縒れを見つけた。破れることなど無いベールみたいな雲であったのに、瓦解していくように、空の縒れは大きく広がっていった。学校を出る辺りから強く吹きだした風の所為だろうかと考えた。髪がリップを塗った唇にへばり付いて鬱陶しく思っていたけれど、何となく許せる気になった。
 鍵を取り出そうとポケットに手を入れると、誰かのボタンが入っていた。六道の物だと何の根拠も無いけれどそう確信した。雲の合間から弱い光が差している。嘘臭いと私は笑った。




世界で一番優しい嘘つきさまに提出
20120402
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