短編 | ナノ  海で溺れかけたことがある。もがけばもがく程、水を飲み込んでしまって苦しくなって、余計に溺れた。力を抜けと言われてもそんなことできなかった。わたしはプールの授業の時だって、それができなかった。何の支えも無い所で、皆が力を抜いて楽々と浮かぶことが出来るのが、不思議でたまらなかった。
 わたしは昔から、何かに身を委ねることができない。


 ***


 二学期が始まってから二週間も過ぎると蝉の声はすっかり土に埋もれてしまった。まだまだ日中は暑いから夏が続いているかのように思えるけれど、日差しは色濃くなり、風は涼しくなって、夏は確かに過ぎたのだった。
 目の前に垂れ下がる、ちょろっと伸びる髪を引っ張ると、雅治はちらりとこちらを見た。切れ長の目を更に細くして、何、と。別に、と答えるとそうか、と簡単に向き直る。それがつまらなくてわたしはまた髪を引っ張る。すると雅治もまた何、とわたしを見てわたしが別に、と返すと雅治は前を向く。わたしはまた髪を引っ張る。雅治は……。そうしてかれこれそれを五回は繰り返した頃、遂に雅治がこちらに何の反応も返さなくなった。それどころかちょろ毛を前に持って行ってしまった。
 わたしは諦めて右斜め前の丸井を観察することにした。かくんかくんと船を漕いでいる。肘を立てているから眠くなるのだ。
 丸井の髪は赤い。鮮やかな赤。なのに髪は痛んでいる様子なんて見せないからむかつく。染色してもないのに傷んでいる自分の髪に目をやってすこし、凹んだ。再び前に視線を戻すと目に入った痛んだ銀色に、一人胸が酸っぱくなる。


 ***


 ほとんどの運動部では夏が終わると三年生は引退する。雅治のテニス部もそうである。けれど文化部は違って、わたしの所属している吹奏楽部は春の定期演奏会まで引退できない。夏までは二人とも部活があったからさして気にはしていなかったけれど、さすがに部活が終わるまで待っていてもらうのは気が引ける(ミーティングが長引く時も結構あるし)。だから雅治には先に帰っていいよと伝えている。それなのに彼はわたしが下駄箱に行くと(それも決まって一人の時)どこからかひょっこり現れるのだった。

「ねえ夏っぽいことした?」
「今更な話題やの。全国に行ったくらいか」
「海行った?」
「行ってない」
「じゃあ今から行かない?」
 今から、と雅治は気乗りしないご様子。夕方六時半。日は暮れている。
「もう遅いぜよ」
「ううん、でも今行きたいなあ」
 ね、いいでしょう、今から行こうよ海。ねえねえ、とせがむわたしに雅治は仕方ないという風に目を瞑った。雅治が行かないと言ってもわたしは行くということを雅治は知っている。


 ***


 元々海水浴で賑わうような場所でもなかったけれど、秋の夜の海岸は寂れていた。乾燥した海藻や空き缶の散らばる砂浜をくだってゆき、波が来るか来ないか辺りの場所でローファーを脱いで靴下も脱ぎ、その靴下をローファーの中に押し込めてからローファーを濡れた跡のない場所に揃えて置いた。何だか自殺するみたい。同じことを思ったのか、雅治は「死にたがりか」と薄く笑った。死にたがりでは、ある、という言葉は口に出さずに、わたしも薄く笑った。
 黒く砕ける波。簡単に足首まで飲み込む水の力を侮ること無かれ、絡め取った足首を掴む無数の手をもって波はわたしを海に引きずり込もうとする。こわい。けど、ぞくぞくも、する。
 雅治はローファーを並べた近くで貝殻を拾っていた。銀髪に暗い景色が滲みている。わたしの視線に気が付いたのか雅治は顔を上げた。
「楽しいか?」
「うーん、多分」
「何やそれ」
「雅治は?」
「多分?」
「何それ」
 ひたひたと冷たい手が絡みついては離れてゆく。指の間に爪の中に細かい砂。真っ黒な砂。真っ黒な海。入水は恐ろしい。息ができないから。苦しいから。あれは結局窒息死と変わらないのだって。小学生の頃は入水は何となく美しいものだと思っていたけれど、入水死体は水でふやけるし魚につつかれたり漂流物に壊されたりして悲惨なものになると聞いてから、入水だけは絶対にしたくないと思っている。死ぬ時くらいは美しいものになりたい。
「雅治は高校そのまま上がるでしょ?」
「ん、ああ。おまんもじゃろ?」
「んー」
「受験するんか」
 雅治はまた顔を下に向けて貝殻拾いをしていた。声は平生のものだった。
「しないよ」
 とわたしは言った。今更、余所に行くとかできないよ。三年間サボりすぎたもん。
「ほーん」
 反応の薄い奴。わたしは雅治のいる場所、ローファーを置いた場所に戻った。スカートのポケットにあらかじめ入れておいたハンカチを取り出して細かな砂の付いた足を拭く為に雅治の肩を借りる。へばりついた砂は中々綺麗には落ちないで、靴下を通した足はざりざりと嫌な感じ。
 出たいか出たくないかと問われれば、出たい。ここから出て行きたい。いつまでも同じ場所に留まり続けるのは、なんか、嫌だ。ざわざわする。特別嫌いな人がいるわけではない。そういうのじゃない。ただ知り合いとの縁を全て切ってしまいたくなる時がある。とにかく離れたくて仕方のない時がある。けれどわたしは、そんなことを考えつつもその為の準備を何もしてこなかった。多分、三年後も同じことをしている。そしてそのまま附属の大学に進むのだろう。今と同じように。絶望。だからと言って何もしないのだけど。
 暗がりの潮騒は恐ろしい。自分が思っていたよりも波が迫ってくると尚更だ。雅治の肩から手を離して、すこしだけ前に出る。濡れていない場所だったのに、ローファーの先を波が濡らした。わたしは雅治の方に向き直って言った。
「別れたい」
 雅治は顔を上げた。
「何で」
 言葉が走っていた。目を丸くしてわたしを見る。見る。動揺してるの。ペテン師が失格だ。
「何となく」
「は」
「ごめんね」
「意味が分からん」
「うん……」
 雅治は怒っているようだった。それが演技ならばいいのに。わたしとあなたは離れすぎてしまったのだ。違う。最初から離れていたのかもしれない。わたしが勝手に、あなたに夢見ていたのかもしれない。
「ごめんね」
 意味が分からん、と雅治も繰り返す。やはり怒っていて、それから傷ついているような顔をしていた。


 ***


 丸井のつやつやとした赤い髪。男前にもかわいいにもなる顔。いいなあ、どうして持ってる人は全て持っているのだろう。紫の丸い瞳に映る女とさっき手鏡で確認した女、どちらも同じ女なのに先の方はすこし綺麗に見える。持っている人は、映す世界もきらきらしているらしい。
 朝一番、丸井は教室に着くなりわたしに言った。
「仁王と別れたってマジ?」
 その言葉を聞いて、わたしは少なからず驚いた。雅治が自分からそういったことを他人に話すとは思っていなかったから。仁王から聞いたの、と訊ねたら、
「昨日偶然会って、機嫌悪そうだったからお前と何かあったのかって聞いたら、振られたって」
「ああ、そういうこと」
「あいつ、お前のことすげぇ好きだったんだぜ」
「知ってる」
 わたしもすごく好きだったし、今も好きだし。
 丸井は怪訝そうな顔をする。
「じゃあ何で別れたんだよ」
「何となく。そうしなきゃいけない、みたいな」
「意味分かんねえ」
「仁王にも言われた」
 中途半端に人との関わりを切る行為は決していい方向に進まないということは分かるし自分で自分をだめにしているということも何となく気づいている。でも、だって、息苦しいんだもん。わたしは、雅治もわたしと同じような人間だと思っていた。そして確かに似ていた。けれど似ていただけに過ぎなかった。雅治は臆病なだけで優しくて、わたしは病的に潔癖だった。人肌の気持ち悪さ。他人に自分を許すということ。一五年生きてきた。それでも許せなかった。もう無理なのだと思う。
「逃げるんか」
 それなのに、ごめんばかりを繰り返すようになったわたしに、雅治は責めるように、恨めしげな声でそう言ったのだった。
 そう言えば雅治の瞳に映るわたしはどんな姿をしていたのだろう。いつからか、わたしは雅治の瞳の中を覗くことをやめていた。雅治のことが、とても、好きだった。縋っていたのかもしれない。
「どうして別れたんだろうね」
 丸井はくわえていたポッキーをぱきんと折った。
「お前が振ったんじゃねーの」
「うん。そうだね」
 わたしは何をしてるんだろう。何をしたいんだろう。よくわからない虚無感とばかりずっとお友達で、困ってしまう。




20140904
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