短編 | ナノ




 女が欄干から身を乗り出して覗いた水鏡には月が映っていた。黄色い月だった。兎が住んでいると言われたら納得してしまいそうなくらい、絵本の中にあるような黄色くてまん丸い月。女はしばらくその月を覗き込んでから、踵を返して橋を渡った。灯りの無い夜道が続く。丑三つ時、連なる家屋の主達は皆眠っているのか、本当に、灯りは何一つ無い。真っ当なことだ。だけどこんな時間に女が一人で外を出歩くのもどうかしら。女はそんなことを考えながら夜道を進む。しかし女は自分以外の何者もが寝息を立てるこの空間を一人で歩くことは好きだった。女は夜が、好きだった。女が着る着物も、夜の漆黒であった。大輪の紅い花が裾の緒に寄るにあたって多く散るものである。だが女は自分がこういった色を纏うのは、あまり好きではなかった。女が好む着物は、淡い色の、若い娘が好むような色のものである。
 女が歩いてきた方角が俄かに騒がしくなった。女は振り返り、提灯が火の玉のように空間を泳ぐのを認めた。騒ぎに家主達も何事かと家から出てくる。明かりがぽつりぽつりと付き、夜は灰色にぼやけた。女は騒ぎの元が何かを知っている。道端に浪士が二人程死んでいるのだ。その遺体は女が拵えたものである。



 女が晋助の部屋を訪ねると晋助は猫と戯れていた。その猫は以前船に紛れ込んだまま、ここに住み着いている。晋助はごろごろと嬉しそうに喉を鳴らす猫に普段中々見ることのない柔らかな視線を送る。動物と利用価値のある人間にはやさしい顔をするのだ。女が部屋に上がり込むと猫が体を強ばらせたのを感じて晋助はくっ、と喉を鳴らした。

「手前いつからそんなに殺しが好きになったんだ」
「好きなわけじゃない」

 きっぱりと女は断って晋助の近くに腰を降ろす。女が今日斬ったのは任務でも何でもなかった。猫はすっかり怯えたように毛を逆立てた。女はふん、と鼻を鳴らした。

「そんなにいつも殺気立ててらァ男も寄って来ねぇぜ」
「……別に構わないわ」

 猫を撫でる晋助に、まだあどけなさが残る少年の姿を垣間見る。酷薄な瞳と唇は、たまにそうして少年の姿を映し出す。晋助がどうして必要以上に炯々とした瞳を持つのか、その理由を女は知らない。晋助がどういった道を歩んできたのか、その一切合切を知らないが、女は初めてこの男と出会った時、この男について行こうと決めたのだった。小賢しく自身の行いの正当性を語らないのがよかった。晋助が女に言った言葉は「一緒に世界を壊さないか」、ただそれだけだった。何が正しく何が誤りであるのか分からない世である。その言葉は多く批判を受けようとも一方では真正しいと評価される。その意とは全く違う方面で群がる連中も少なくはないが、結局破壊は破壊で、寧ろそう言った連中は捨て駒として使うには丁度良いだろう。女は自身がそう見られていることに期待していた。自身の価値が大して無いと評される場所を然しそれでいて何かしらの役に立って終わりを迎えられる場所を女は求めていたのだった。
 墓標はあまりにさびしくて、切ないくらいに眩しい。

「動物が、好きね」
「人間よりよっぽど信頼できるからな」

 喉をひくつかせて晋助は女に視線を向ける。女はそう、と自嘲気味に唇の端を吊り上げて答える。隻眼は黒い世界を映していた。それは女の着物と同じように、喪に服していた。出会った時から、晋助の目の奥はずっと、そうだ。進む先に明るい世界なぞ決して無いことを確認する。

「あなたのそういうところが好きだわ」

 女の言葉に晋助の目はそれまでのものから一転して鋭くなり、女の真意を探ろうとする。それがまた、好きだと思った。

「冗談よ」

 女はころころと笑いながらすっかり落ち着いた様子を取り戻して晋助の足の上で丸まる猫に手を伸ばした。猫はもう女を警戒することはなく、無抵抗で背中を撫でさせた。
 彼は人から信頼を集めることは容易くできても、彼自身が人間を信用することはないのだろうと、女は思った。あったとして、それは自分ではないことを女は知っている。それは望むまでもないことを知っている。
 船内に迷い込んだ腑抜けたその猫が自分の姿であるかのように見えて、猫の背中に爪を立てた。




深夜零時、呟いた言葉をどうか忘れないでと願うのはやはり残酷なことだと思うので

曰はく、さまに提出(第7回)
20130327

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