正気を失った人間が抱く幻想ほど、この現実世界はうつくしくない。まったくだと思う。思わざるを得ない。しかし、うつくしくないが故に世界はうつくしさを取り繕おうとして前を向く。毅然と。顎を引いて、胸を張る。そういう世界に生きるのはそれなりにわるくない。ひとり正面を向いて歩くことに苦痛はない。
 あかるくなっていく空はただひらすら憎たらしくて、けれども暗いところに置き去りはいやだった。いっしょにいこうよ。かすれた囁きに添えて降り積もった口付けの音はもう聞こえない。終わる間際にもたらされた弱音を嘘と見破るには時間が足りなくて、本音と思うには誠意に欠けていた。
 泣き疲れて眠り、眠りながらも泣いて、余韻に泣かされて起きてくるのは常だった。いまも、そう。白っぽい頬を縁取るように筋が通っていた。幼子が母親にかじりつくようにして腕をまわされ、あずけられた頭は少し重い。ぬぐってやろうにも腕ごと捕まえられてしまっていては身じろぎすら満足にいかない。それでこの聞かん坊がおとなしくなるのであれば易いものだと、笑って言うにはあちらこちらが少々しびれた。
 またひと筋、涙がこぼれる。いつもむずかしいことばかり考えているのであろうから、せめて眠りのなかでは楽観していればいいのに。
 仕方なしに、首を折って額を頭にぶつけてやる。もう少しだけ距離がせまくなった。いっしょにいこうという袖引きにうなずけず、見送るしかできないけれど。

「いってらっしゃい」

 どうか、よい夢路を。だってまだ眠くない。






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