「ただいま………」

ギィ……と、遠慮気味に扉が開かれたため、そう声をかけられるまで、臨也は静雄が帰ってきたことに気づかなかった。

「ああ、お帰りシズちゃん」

ホットケーキを裏返しながら臨也は微笑む。

「もう少しで焼けるから、手洗っておいで」
「………うん」

静雄はそれに力無く返事をする。うつむきながら洗面所へ向かう静雄に、臨也は首をかしげた。

あのシズちゃんがホットケーキに喜ばないなんて。

学校で何かあったのだろうか。静雄の分に少し多めにメイプルシロップをかけてやりながら、臨也はありそうな問題を頭にめぐらせる。
静雄が帰ってくるのを見計らっておやつを作るのがもはや臨也の日課と化してしばらくたつが、静雄のあんな反応は初めてだ。
いつもは嬉しそうな顔をして早足で帰ってくるのになと少し寂しさを覚えていると、静雄がトボトボと洗面所から帰ってきた。

「シズちゃん?できたよ。そっちに持って行って」
「い………ざや、」
「うん?」

恐る恐るといった風に名前を呼ぶ静雄に振り返ると、その顔は泣きそうに歪んでいて。
すぐにでも抱きしめてよしよししてドロドロに甘やかしてあげたいという衝動を理性でぐっと押さえ込み、できるだけ話しやすいようにと優しく微笑んでやる。

「なに?」

しかし静雄は、その笑顔に追い詰められたように身体を硬くし、パッと顔を背けた。

「……やっぱなんでも、ない」

ありがとうとホットケーキをテーブルに運ぶ静雄の後ろ姿を見送りながら、臨也はどうしたものかと頭を悩ませる。
やはり、学校でイジメられたのだろうか。もしそうなら、その子たちにはどんな報復を受けてもらおうかなぁなどと不穏なことを考えつつ、後について静雄の向かいの席に座った。
臨也が席につくまではおやつに手をつけず行儀良く待っているのはいつものことだが、今日はやっぱりどこか勝手が違うらしい。

「シズちゃん?どうかした?」

なかなか手をつけようとしない静に、もしかしてお腹痛い?と尋ねると、静雄はその小さい頭をふるふると横に振る。
しばらくフォークでホットケーキを弄び、意を決したように口元へ運ぶが、口に入れる前に断念してしまう。

いざや、と小さい声で自分を呼ぶ静雄に、臨也は再度、ん?と聞き返す。
顔を上げた静雄のその大きな瞳には涙がゆらゆらとたゆたっていて、その小さな口をきゅっと噛み締めている。
なにかの痛みに堪えるようなその表情に、臨也はもしかしてと、ひとつの可能性を選択肢に加える。
「シズちゃん」

少し声を低くすると、小さな肩がびくっと揺れた。

「シズちゃん、こっちおいで」

笑いもしない臨也に静雄はこの世の終わりのように顔をゆがめて、それでもせめてもの抵抗に頭をふるふると横に振る。

「こっちに来なさい」

もっとトーンを落とした声が部屋に響いた。
静雄は反射のように飛び上がる。びくびくと震えながら、それでもおずおずと臨也の前に立った。

「口開けて」

顎をつかまれてそう言われた瞬間、とうとう静雄は泣き出してしまった。

「いざや、ごめ……っ」

「見せて」

ボロボロ泣きながら、静雄は言われた通りに口を開く。
大人の歯とこどもの歯が混じり合ってる小さな口の中に、隠れるように黒い影。

「ひっ、ごめん、なさ……っごめんなさっい、っ」

はぁ、とため息をつく臨也に、静雄は絶望的な顔になる。何度もごめんなさい、と繰り返した。

「シズちゃん、言ってるよね、毎日。夜におやつを食べたあとはきちんと歯磨きするんだよって」
「い、ざやっ、」
「泣いたってなにも解決しないでしょ」

ピシャリと言い放つ臨也に静雄はまたびくっと震えて、口を手で覆う。
しかし泣かないように我慢しても、しゃくりあげてる身体はなかなか言うことを聞いはくれない。覆った手の間からひっくひっくと声が漏れる。それがとても情けなくて、歯はじくじく痛くて、静雄はさらにその瞳から涙をこぼした。ごめんなさい、ごめんなさいと謝罪を繰り返す。
臨也は、震えながら嗚咽を押し殺しながら懸命に謝り続ける静雄が可愛くて、愛しくて、再度ため息を吐いた。

ほんと、卑怯なんだから。

「おいで、シズちゃん」

幾分か優しさを含んだ声で両手を軽く広げると、静雄は臨也の首に抱き着いてわんわん泣き出した。

「ほら、言うこと聞かないと痛いのはシズちゃんなんだからね?」
「ふぅうー……っごめんなさ、いぃぃ、いざや、っ、ひく」

ぐしぐしと肩に顔を押し付けてくる静雄の頭を優しくなでる。

ああやっぱりこの子どもには勝てないなと苦笑しながら、臨也はあやすように静雄の額に優しくキスをしてやった。




















痛いの痛いの飛んでいけ

(キュィィィーン)
(ひ、やっ、いざやぁっ)
(ぎゅうっ)
(………たまには歯医者もいいかもなぁ)