「シーズちゃん」

今一番聞きたくない声に呼ばれ、静雄は舌打ちをした。もっとも、この声を聞きたいと思ったときなど一度たりとして存在しないが。苛立ちながらも振り返ると、いつもの小賢しい笑顔を浮かべた臨也がそこに立っていた。

「なぁんだ」

期待はずれとでも言うように臨也がわざとらしく肩をすくめる。

「泣いてるかと思ったのに」
「泣くかよ」

いまどき。と臨也を睨みつけながら吐き捨てる。

「だってそんなふうに黄昏れてるからさぁ、しかも屋上とか」

まるでどこぞのセンチメンタルなヤンキーみたいじゃない、笑えるね。そう言って臨也は笑う。
他人から見れば思わず見とれてしまう微笑みも、静雄から見ればただのムカつくにやけ面だ。わかっててやっている臨也は本当にたちが悪いがそれも今更。だいたい笑えるもなにも、いつもなにが面白いのか絶えずにやついてる奴がなに言ってやがんだと静雄は苛立った。

「卒業式に出なくていいの?」
「べつに」

出られなくさせた本人がぬけぬけとよく言う。ケガはもうだいぶ治ってきているが、こんなボロボロの服で式など出られるはずもない。
こんな日にまでよくやるものだと呆れたが、別段学校に何か思い入れがあるわけでもなかったのでどうでもよかった。
静雄の高校生活は目の前の男のせいでメチャクチャだった。ろくな思い出がない。まぁ、それは臨也もかもしれないが。
静雄は青い空に視線を戻す。

「淡白だなぁ」

臨也はとなりの手すりに手をかけ、静雄と同じようにグランドを見下ろした。桜が咲いているわけでもない並木道はどこか淋し気だ。卒業生らが体育館に一同に会しているため校内はしんと静まり返っている。特別なものはなにもない。いつもと変わらない風景なのに、今日で卒業だなんて嘘のようだ。

「感慨とか寂しさとかないわけぇ?」
「うるせぇな」

そう言う臨也も式に出る気はないようだ。となりにいるのが鬱陶しくて、静雄は顔を背ける。

「やっとテメェから離れられると思うと清々する」
「ひどいなぁ」

自分だってそう思っているくせに、残念そうにする臨也に青筋が浮かぶ。ああ本当、早く消え去ってほしい。

「うぜぇ、さっさと新宿でもどこでも行けよ」
「………なんで新宿行くって知ってんの?」

言われて、静雄はハッとしたように体を震えさした。そのあとで、その行動自体が不自然だったと気づき、憮然とする。

「……べつに、新羅が言ってたから」
「ふぅん?」
「なんだよ」
「べつにー。でも大学は来良に進むよ」

意外な言葉に、静雄はつい臨也に振り返った。
大学へ進学することが、ではない。臨也は頭がいい。成績はいつも上位で張り出されていたし、学力の高い大学を担任から紹介されている臨也を実際目にしたりもしていた。その臨也がなんと来良大に進むらしい。名前こそ今年から変わるが、来良大は来神高校の附属大学だ。もともとうちの高校からして学力の高い方ではないので、大学もそれほどレベルの高いところではないはずなのに。

「だからまた会うかも」

そのときはよろしくね、と微笑む臨也に混乱して、静雄は睨みつけるのを忘れた。

「意外だった?」

静雄の心中を読んだように含み笑いをつくる臨也に、べつに、と返して視線を外す。
こいつの考えていることなんて、理解できた試しがない。だいたいなんで新宿に引っ越すくせに池袋の大学に進学するんだ?また何か企んでるとしか考えられない。

「なんで新宿に引っ越すくせに来良に行くんだ、って?」
「興味ねぇよ」

突っぱねる静雄に、臨也はうそつき、と囁いた。

「やっぱさぁ、離れたくないなぁって」

何から。

つい聞き返しそうになった自分を諫める。興味ない。そう言ったのは自分だ。
臨也の笑みがますます深まる。

「何から、って?」
「聞いてねぇ」

うぜぇ、と唸って手に力を込めると、手すりがぐにゃりと曲がった。
そんな様子を見て臨也は呆れたようにタメ息をついた。最後の最後まで学校の備品壊して回るんだねぇ君は、と言われてさらに力が入る。

「……ま、いろいろね。池袋は興味深い街だし」
「………そうかよ」
「俺から離れれなくて残念だったね?」
「次会ったときは殺すから問題ない」

淡々と殺人宣言をする静雄に、臨也はこわーいと笑う。

「でも今は殺さないでいてくれるんだ?」
「…………」

お望みなら今すぐここでぶち殺してやろうかとさらに拳に力を入れる静雄の耳元で、臨也が囁いた。
「シズちゃん、」
「……いい加減その妙な呼び方やめろ」
「俺さぁ、やり残したことがあるんだ」

聞いたこともない真摯な声で告げられ、静雄は驚いて臨也を見る。

「っ、」

思いがけず近くにいた臨也から離れようとするが、腕を掴まれて止められた。静雄は息を飲む。

「な、」
「じっとして……」

その瞳があまりにも真剣で、静雄は抵抗を忘れた。

こんな瞳も見たことがない。

だから、静雄の唇に臨也のそれが重ねられるのを、まばたきもできずに見ていた。臨也も視線をそらさない。
燃えるような赤い瞳に、くらくらとした。
一瞬の触れ合いのあと、臨也は唇を離して、微笑む。

「卒業、おめでとう」
「…………」
「じゃ、またね」

踵を返して去っていく臨也の後ろ姿を、静雄はじっと見送る。

「………………しね」

姿が見えなくなったあとで、そっとつぶやいたその声はとても小さく、いつものような覇気はこもらない。
ともすれば泣いているように震えている声に、静雄は自分で驚く。

「くそ、」

忌ま忌ましげに吐き捨てるが、その声もどこからか響いてくる校歌に掻き消された。卒業式も終盤なのだろう。

だが、自分は。

静雄は顔を覆った。崩れ落ちそうな体を手すりに預ける。


卒業なんてできない。

きっと、一生。
























卒業生

(君からサヨナラできない)