体のあちこちに鮮血が滲むのを、静雄は他人事のように見ていた。
傷口はそれなりに痛い。血が滲む傷を上から押さえれば、血が球状に膨れ上がり、やがて溢れる。
恐らく一般人ならば今頃病院に行っているであろう傷も、静雄の皮膚の上では数時間でかすり傷になる。
「・・・ちっ。」
傷を見ていると、喜々としてそれをつけて逃げていった男が浮かぶ。
腹の底で沸き上がる怒りを煙草で押さえ付けながら、静雄は腕を組んでソファに沈み込んだ。
折原臨也。
名前を聞くのも嫌だ。
声を聞くのも嫌だ。
軽薄な笑みが嫌だ。
黒一色の服が嫌だ。
仕事さえも嫌だ。
何もかもが嫌で嫌で仕方が無い。
折原臨也という存在が嫌だ。
「・・・ちっ・・・。」
軽く舌打ちをして、静雄は深夜にも関わらず新宿に出かけた。
臨也のマンションまであと10bの地点で、後ろから静雄を呼ぶ声がした。
「こんな所で何してるのシズちゃん?」
振り返ると街灯の下に臨也がいた。
その夜に溶け込む真っ黒なコートを見た瞬間に静雄の神経は容易に切れる。
「テメェのせいでイライラするから殴らせろ。」
「ははっやだね。殴られたら俺死んじゃうじゃない。」
手近の徐行標識を引っこ抜き、徐々に距離を詰める静雄を見て後退りながら臨也は目を細めて笑う。
「死ねっつってんだよ。」
「それこそごめんだね。」
横のスイングで吹っ飛ばそうとしたら軽く跳んで避けられた。
続けざまに片手で飛ばした路上駐車の自転車は、壁にぶつかって派手な音を立てる。
「ねぇ、前から聞いてみたかったんだけどさぁ。」
次々と繰り出される攻撃を最小限の動きで避けながら、臨也は世間話でも始めるように尋ねた。
「何でシズちゃんは俺の事大っ嫌いなのに俺のとこに来るの?」
「はぁ?何言ってんだテメェ。」
静雄の顔が不快そうに歪んだ。
それに心底不思議そうな顔で臨也が返す。
「だって、嫌いなら放っておけばいいじゃない?シズちゃんが襲って来ようが、俺が池袋に行くのは変わらないんだからさ。」
会話の間も喧嘩は続く。
何故か今日の臨也はナイフを出さず、両手をポケットに突っ込んだまま応じていた。
「んなの、殺したいからにきまってんだろ。」
「何で?」
「テメェを殺せば、俺はテメェが最期に見た男になるだろうが。」
「うん。まぁそうなるね。」
標識があちこちに当たって曲がりくねり、使い物にならなくなったので、近くの二輪を投げたがそれも避けられた。
「それで?」
「それでって何だよ?」
臨也が珍しく笑みを消して、真剣な表情を浮かべる。
「続きは?」
「は?ねぇよ。」
駐車場の看板をむしり取って投げる。
「俺の最期に見る男になりたいの?」
「だからそう言ってんだろうが。俺はテメェの特別になるんだよ!」
吐き捨てるように言って、手近に物が無くなり素手で掴みかかる。
「・・・ぁ。」
小さく呟いて、臨也が宙を舞った。
避けそこねたというよりは避け忘れた顔で、静雄を見る。
「あ?」
静雄の方も驚いていた。
どうせ避けるだろうと思っていたのに、臨也は微動だにしなかった。
それほど力を込めていたわけではないが、それでも2、3メートル舞い上がり、コートがふわりと空気をはらむ。
空中で二人の目が合い、次の瞬間臨也は背中から落下した。
地面にたたき付けられて、一瞬臨也の息が止まり、激しく咳込む。
「・・・何で避けねぇんだ?」
せっかくのチャンスだというのに、静雄は驚きでそれをふいにしてしまった。
「・・・っシズちゃんが変な事言うからでしょ?」
臨也はため息をついて腰を摩る。
「シズちゃんは俺の特別になりたいの?何で?」
「んなの知るわけねーだろ。」
惚けている訳でも無く、ただ純粋に分かっていない顔に、臨也はさらに大きなため息をついてよろめきながら立ち上がる。
「ほんとに分かんないの?」
間合いを詰められるが、静雄はその場に縛り付けられたように足が動かなかった。
「何がだよ?」
意味の分からない問答に、静雄の忘れかけた苛立ちが戻ってくる。
「シズちゃん、それは恋だよ。」
「・・・はぁ?」
ずい、と顔を寄せられて告げた言葉は理解不能だった。
「恋。愛かな?ラブだよシズちゃん。シズちゃんは俺ラブなんだよ。」
「意味わかんねぇ・・・。」
気持ち悪さに二の腕に鳥肌が立つ。
「つまりこういう事。」
至近距離にあった臨也の顔が、消えたと思ったら唇に柔らかい物が当たった。
消えたので無く逆に近づいたのだと気付くのに数秒。
「んっ・・・む・・・!」
臨也の舌が静雄の口内を舐めとる。
知識だけにある所謂ディープキスをされているのだと気付くのにさらに数秒。
「や・・・め・・・!ん、ふぅ・・・っ。」
さっきのように気持ち悪いと鳥肌が立つかと思ったのに、体にそんな気配は無かった。
むしろ背中をぞくりと何かが這い上り、腰骨が疼く。
名前を聞くのも嫌だ。
俺以外がアイツの名前を呼ぶな。
声を聞くのが嫌だ。
何も考えられなくなる。
軽薄な笑みが嫌だ。
それが誰にでも向けられるから。
黒一色の服が嫌だ。
どこにいても一瞬で見つけられる。
仕事さえ嫌だ。
何でも知ってるような顔で本当に知っているからイライラする。
どうせ俺の気持ちだって、俺より知ってるんだろう?
静雄は臨也のファーを掴んで縋った。
キスの仕方なんてよく分からないが、されるがままに応じると、次第に激しくなり唾液が端から溢れた。
何でも良かった。
臨也は他人をけしかけて、それを遠くから眺めるだけで、自分は手を出さずにするりと逃げていく。
そのたびに静雄は何故か泣きたいような気持ちになった。
結局臨也は静雄の事などどうでも良いのだ。翻弄するだけ翻弄して、人の内側をぐちゃぐちゃにして、それでも静雄は臨也の内に入れない。
だから何でも良かった。
臨也の目に自分が映るなら。
多分そういう事だった。
ようやく唇を離すと、臨也が赤い目を蕩けそうに細めている。妖しく光る鋭さはどこにも無い。
その中に映る泣きそうな自分の顔。
「なんだ、あんな遠回りする事無かったんじゃない。」
臨也は静雄の体を強く抱きしめ、肩に顔を埋める。
「・・・捕まえた。」
静雄も大きくため息をつき、臨也の少し低い頭に自分の頬を寄せる。
捕まった。
心で小さく呟く。
だが調子に乗るのがわかっているので、言葉には出さない。
どうせ奴にはわかっているのだから。
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