「いぃぃざあああぁぁやああああぁぁ!!!」
今日も池袋に響く怒号。
街行く人はその声にぴくりと反応し、そっと進路を変える。
飄々と笑みを浮かべて振り返る臨也と標識を手に対峙する静雄。
いつもの光景。当たり前の非日常。
「シズちゃんストップ!!」
突然臨也が叫んだ。
静雄の体が戸惑いながらもぴたりと止まる。
「あぁ?!」
「走った方が負け!!」
「・・・てめぇ何言ってんだ?」
よく分からずに標識片手に小首を傾げる。
すると臨也は後ろ向きに歩きながら楽しそうに言った。
「走った方が負け。勝った方の言うこと聞くんだからね!」
「はぁ?」
「今から俺は走らないから、シズちゃんも走らず追ってきて。」
意味が分からないのに体は勝手に臨也の言う通り動いた。
一歩寄ると臨也も一歩下がる。
出鼻を挫かれ拍子抜けして、イライラしながらため息をつく。
「んだよ、何がしてぇんだお前は。」
「あのねシズちゃん。人の視界って、歩く早さにちょうど良くできてるんだって。」
「はぁ・・・。」
訝しげにしながらまた詰め寄り、また逃げられる。
いつもとは違う展開だが、静雄の声でとっくに池袋の住人は散っており、見ている者は誰もいない。
「例えばほら、この街路樹は花水木で、隣には白っぽいホテルが建ってて、入り口は金。その向こうにはイタリアンの店があって、見ての通りイタリアの国旗がはためいてる。でもそんな小さくて細かい事、もし新幹線でここを通ったら分からないでしょ?」
「お前、何が言いてぇんだ?」
また一歩近付く。一歩逃げられる。
しかし臨也と静雄では歩幅が違うため、少しずつ距離は狭くなった。
「だからさぁ、俺やシズちゃんって、今まで新幹線みたいなスピードで走ってきてさ、見るべき事が見えてなかったんじゃないかなって。」
臨也の言い方はいつも遠回しで面倒くさい。
静雄はイライラと標識を握る手に力を込めた。臨也に追い付くまであと少しだ。
「俺は今まで何も見ずに走り続けて、周りを本当の意味で見ては無かった。」
臨也は苦笑して静雄を見上げた。
「この街は空が狭くて埃っぽい。冷たくて、人は多いけど結び付きは希薄。まぁそこが面白いんだけど。ともかく、こんな汚い街でも、綺麗に見える金髪の化け物がいるんだなって気付いてなかった。」
静雄はまた距離を詰めた。
相変わらず結局何が言いたいのかさっぱり分からない。
しかし臨也の自分を見つめる赤い目に、無性に落ち着かない気分にさせられた。
あと1メートル。
「ねぇシズちゃん、少し歩いてみようよ。自分に合った視界で見てよ。」
あと50センチ。
「俺を見てよ。」
急に臨也が前に歩を進め、軽く背伸びして静雄の顔に手を伸ばす。
そのまま頬を挟んで自分の方に引き寄せた。
一瞬の事に驚いて、静雄は目を見開いたまま臨也の目に写る自分を見た。
「俺を見て。」
こんな距離から臨也の顔を見るのは初めてで、ただ形の良い唇が音を紡ぐのを目で追う。
"俺を見て"
臨也のやけに細い体。背伸びした足。真っ黒な髪が風になびくたび静雄の額に触れる。
臨也の口、鼻、頬、目。
お前何でそんな縋るみたいな泣きそうな顔してんだよ。
実際それほど表情は変わっていなかった。
しかしこれだけ近ければ微かな眉の傾きや、目の色、細かな皺。臨也の顔が何を訴えているか見える。
「シズちゃん・・・。」
囁くように名前を呼ばれ、静雄は標識を地面に落とした。大きな音を立てて足元に転がったが、そちらを見ることは出来なかった。
「い、ざや・・・。」
「見てくれた?」
臨也は嬉しそうに笑った。
そのまま少し顔が傾いて、固まっていた静雄の唇に軽く触れる。
「じゃあね、シズちゃん!」
来た時と同じ唐突さで体を離され、臨也は歩いてその場を去った。
しかし静雄は追いかけるどころかその場に凍りついたまま、顔を赤くして臨也の後ろ姿を見送った。
「やり逃げってこういう事かなぁ。」
上機嫌で歩きながら、キス位じゃ『やり』なんて言えないか、と臨也は自分に失笑する。
「ごめんねシズちゃん。君の事となるとどうも俺は臆病になるみたいだ。」
愛する化け物。
恋する化け物。
まずは踏み出した第一歩。
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