利己主義者Nの献身
- ナノ -


世界一の男には、愛に愛持つ嫁がいる




―――眠りに落ちるその前に、いつも飲み込む言葉がある。

朝目が覚めると、ノエルは一番最初に、腕の中の存在を探す。手繰り寄せるように、華奢な体躯の輪郭を確かめて、微睡みから意識を取り戻す。目を開けると、そこには柔らかい寝顔があった。すよすよと、無防備極まりない子どもみたいな顔。愛しい妻の存在を確認してから、口の端に笑みを乗せて、頬に掛かる髪を掻き上げた。

昨夜散々愛した名残りが色濃いせいで、きっと今日の眠りは深いだろう。ノエルだって同じだけしか寝てないのだから影響はありそうなものだが、規則正しい生活に順応して、勝手に朝五時半には目を覚める。まあ、トップアスリートである自身と、妻を比べること自体不条理な話だ。眠る彼女の額にキスを一つ贈ってベッドから降りると、自然と意識は切り替わる。

その一歩目は、世界一であり続ける為の一歩だった。

手早くウェアに着替え、自宅の一階奥、トレーニングの為だけに作られた部屋に入る。ランニングマシーンや筋力トレーニングの道具が所狭しと並んだ空間は、この家を建てる際にたった一つ、ノエルが要求したものだった。掃除や整理整頓は完全にシュネーに任せてしまっているが、キッチンが彼女の聖域ならば、ここはノエルの聖域だ。フォームの確認やイメージトレーニングに必須の巨大プロジェクターまで完備され、自宅での鍛錬に不足はない。

部屋の中央に敷かれたトレーニングマットの上に立ち、ストレッチと精神統一から、一日のトレーニングは始まる。念入りに身体を解し、一通りの準備運動をしたところで、今度はロードワークだ。防寒対策をして、携帯と鍵だけをポケットに入れ、ランニングシューズの紐を結ぶ。玄関のドアを開けると、外はまだ暗闇に覆われていた。

ドイツの冬は長い。

今の時期は殊更に日照時間が短く、空が明るさを得るのは朝八時前からだ。寒さも肌を刺すようで、温かい家の中から一歩出ると、冷気が一気に襲い来る。ノエルは綺麗に整えられた庭に目を走らせてから、門扉を潜り、走り出した。

すい、と僅かに視線を後方に向ける。建てたばかりの新居は彼の最愛の希望を最大限取り入れた、年俸3千万ユーロを超えるアスリートとしては慎ましやかな、それでいて贅沢なマイホームだ。元々金にも家にも興味のなかったノエルは、勧められるままクラブの練習場にも通いやすい、ミュンヘンの一等地に居を構えていた。いずれお金持ちになって迎えに行くと約束した、美しい少女とその弟が不自由しないのならば、どんな家でも構わなかったのだが、紆余曲折を得て正式に妻となった彼女は、或る日ぽつりと呟いた。「引っ越したい」と。

弟が自立して出て行って、二人だけになった現状、使いもしない部屋が多くある広すぎる家は、スラム街でティーンエイジャー時代を過ごしたシュネーにとっては、居心地の悪い空間だったようだ。別にホームヘルパーに任せておけばいいものを、掃除洗濯、家事の諸々を己でしなければ気が済まない彼女の性分は、多分一生変わらないのだろう。

兎も角、ノエルは彼女の言葉を受け「なら家を建てるか」と考えた。と、いうのも、名実ともに世界一のストライカーとなったノエルにはパパラッチを始めとするメディア勢が付き纏い、その私生活を白日の下に晒そうと躍起になっていた。クラブが対策に追われているが、早々対処し切れるものでもない。先だっても不躾なインタビュアーにシュネーについて邪推され、怒りを露わにしたばかり。別にノエル自身は有名税だと割り切っているのだが、好奇の視線に晒され、彼女の自由が脅かされるのだけは看過出来ない。その為に大っぴらに関係性を露わにしていないのに、これでは意味がない。

ならば、いっそ通勤のリスクを負っても、閑静な住宅街に家を建てるという選択を選んだ方が、得られるリターンとしては合理的だ。思い立ったら即行動、即断即決を旨とするノエルは、次の日にはクラブのファイナンシャルプランナーを連れ、土地の選定と家のデザインを詰める為、シュネーを交え談議に入った。何故か恨みがましい目をされた気がするが、最終的に彼女も楽しそうだったし、満足する家が出来たと思っている。

郊外といっても、観光地としてもそれなりに栄えている町は、自然が多く、買い物にも困らない。ノエルもロードワークの際、近くの森林公園にまで足を伸ばし、小さな湖を眺めるのが日課になっていた。清涼な空気と人気のない空間は、日頃の喧騒から解き放たれたようで、とても心地いい。我ながら良い選択をした、と密かに自画自賛している。

一通り走ったところで、Uターンをして帰路に着く。十数キロほどだが、季節も相まって、発汗もそれなりで息も上がらない程度、これくらいがウォーミングアップには最適だ。自宅に戻ると、中は温かくなっており、電気も灯っている。どうやら、起きているらしい。リビングに入ったところで、彼の最愛はノエルに気が付いた。

「おはよう、ノエル」

美しいサファイアがノエルを映して、柔らかく細められる。朝でも夜でも、彼の妻の愛らしさは翳りがない。どころか、日毎愛らしく、美しくなっていく様は、伴侶としては心配の種だった。それはそれとして、愛しいものにはキスを贈らなければ、一日の挨拶は始まらない。ノエルは彼女へ歩み寄り、その瑞々しい唇にちゅ、と己のそれを重ねた。子どもにするような、軽いバードキス。だがたったそれだけで、シュネーの頬はかあ、と分かりやすく色付いた。……相も変わらず、慣れない初々しさは、どうしたことか。新婚の時と変わらないな、と思いつつ頬を撫で、シャワーを浴びにバスルームへと向かう。まあ、可愛いので何の問題もない。

汗を流してリビングへと戻ると、シュネーは朝食を並べている最中だった。オムレツ焼く?との問いに、短く頷く。ノエルが席に着くと、手早く作り上げられたオムレツが、目の前に置かれる。テーブルに焼きたてのパンが置かれているので、恐らく彼女は気に入っているパン屋に行ったのだろう。今日の朝食はサラダにオムレツ、ソーセージとフルーツ。ならばたまにはパンでもいいかもしれない。そういえば、以前共にそのパン屋に行った時彼女が呟いた「グーチョキパン店…」とは何だったのだろうか、とどうでもいいことを思い出した。

「コーヒーでいい?」
「あぁ」

シュネーは自身とノエルの分のコーヒーを淹れ、席に着く。そして「Bon appétit」と微笑んだ。ノエルの母国、フランスで「召し上がれ」を意味する言葉。小さく首肯して、フォークを手に取った。

シーズンが終幕を迎え、次のシーズンへと移る束の間の期間、二週間のオフを挟んで、丁度クラブの練習は再開されたばかり。昼食の間、簡単に今日の予定を共有する。シュネーは一日、家で過ごすらしい。ノエルはいつも通り、クラブでのトレーニング。互いに話を終えたところで、練習場へ向かう為、ガレージのシャッターを開ける。

陽の光を浴びて輝くのは、光沢のあるブラックボディをした、ノエルの愛車である。重厚感のある見た目は何より、スピードと乗り心地を重視して購入を決めた一台。特に車に拘りがあるわけではないので所有車はこれだけだが、運転席と助手席は広々としていて、シュネーを乗せるにも、彼女の買い物に付き合うにも十分だった。安全性が高いのも好ましい。これでスーパーで買い物をするシュネーを迎えに行けば、どうしてかいつも微妙な顔をされるのだが、彼女は嫌なのだろうか。…今度聞いてみよう。

シュネーが助手席のドアを開け、シートの上に弁当が入ったバッグを置く。意味ありげに無言で見つめていると、観念したように運転席側に回って来る。窓を開けて、身を屈めるようにくいくいと指で示し、そのまま首を傾けて、キスを一つ。仕事へ向かう際の、欠かせぬルーティーンの一つだ。試合でひたすら感情の濃淡がないだとか、機械的だとか、サイボーグだとかエトセトラ…場外戦のような舌戦だと分かっているが、そう評される自身が素っ気ない態度を取ってしまう自覚はある。ので、シュネーに対してだけは、言葉ではなく行動で愛情を示すことを惜しむつもりはなかった。

その内の一つなのに「やめない?」と以前提案され、思わず物凄い目で睨んでしまったのは記憶に新しい。嫌なのか?と聞くと「そうじゃないけど」と返って来たので、ノエルは自重しない。恥ずかしいのなら恥ずかしがっておけばいい。照れているシュネーは一層愛らしいので無問題である。

小さく手を振る妻の姿をバックミラー越しに見つめつつ、車を走らせる。ミュンヘンのゼーベナー通り沿いにあるバスタード・ミュンヘンの練習場は、自宅からは約20分の距離にある。駐車場に車を停めて着替えの入ったバッグと、シュネーが用意してくれた弁当を手に取り、違和感に小首を傾げた。…やけに軽いな。そう思ったがひとまず、関係者用の通用口に向かう。

勢い良く挨拶してくる警備員に片手を上げて返して、目指すのはロッカールーム。エースストライカーであるにも関わらず、ノエルの出勤は誰よりも早い。そのストイックな精神性には一分の淀みもない。それぞれピッチでウォーミングアップを済ませると、監督の指示を受け、トレーニングが始まる。

緩いパス練習から、体幹トレーニング、ドリブル、シュート練習を行い、ミニゲーム形式での3on3と続く。全ての中心となるのは、勿論ノエルだ。キャプテンも兼ねる彼は、監督に加えアシスタントコーチ達と共に、チーム全体の完成度を上げる為、意見交換も行いつつ、自身のトレーニングも行うことになる。強豪クラブだけあってその練習もハードだが、誰より動いている筈なのに、誰より平然としているエースに、メンバー達も奮起している。



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