利己主義者Nの献身
- ナノ -


雪の華の満開の下





……
…………
……………なんて考えてた、二週間前の私をぶん殴りたい。

青春ごっこか!青い春か!青春アミーゴか!!辿り着いたこ〜の〜街全てが手に入る気がしてた〜!ってヤツか!脳味噌お花畑か!と往復ビンタどころか百裂拳を食らわせたいくらいである。

………甘かった。蜂蜜ミルクに生クリームと餡子を入れるよりも甘い。

ドイツから出国したあの日、私達は一路、乳母さんに言われた通り公共施設を目指した。まあ、交番とか、警察署とか。法の番人がいいだろうと、そこに向かってた…のだけど。まず最初の誤算があった。歩き出して暫く、ミヒャがけたたましいほどのギャン泣きを始めたのだ。……三歳になって、家の中ではほとんど癇癪を起さなくなっていたのですっかり順応したのだと思っていたが、なんてことはない。ただ月日を重ねることで、ミヒャはあの邸の空間と環境に慣れただけだったのだ。

そりゃそうだ。家の中に比べて、外の方が動物、虫、人、…と毎秒事に移り変わる情報量が大きい。おまけに初めて見た自転車、車、電車に、まいえんじぇるミヒャたんは完全にパニックを起こしていた。あれ追っ払って〜〜!!うるさい〜〜〜!とガタゴト鳴る電車を指差して、暴れるわ暴れるわ。ひえ〜〜、と慌てて木陰に隠れて、よしよし〜〜と背中を撫でてあげること数十分。蝉のようにひっしと私にしがみついて、漸く落ち着いてくれたようだ。…しかし。

「………抱っこ」
「えっ?」
「……つかれたぁ……だっこぉ…」

……Oh,ジーザス。まいぶらざー。おういえー。

まだ橋を渡り切ったばかりだというのに、泣くことで体力を消耗したミヒャは、ぐずぐずと鼻を鳴らしながらきゅっと私の服の裾を握った。……だ、抱っこと言ったのかい?……えーと、ちょっと待ってね…。お姉ちゃんは今、当面の着替えや必要なものを二人分、鞄とリュックを持っているんだよ。あと貴重品とか…。この上抱っこは流石にキツイというか……む、無理があるなぁ…。もうちょっとだけ頑張れない?としゃがみ込んで聞いてみる。

「や!」

そうか嫌か。嫌ならしょうがないね。……しょうがなくない!…ミヒャた〜〜ん、お願いだよぉ。初めて沢山歩いて偉いね!もうちょっとだけ歩こう?ね?お姉ちゃんと手を繋いでお散歩!

「……だっこぉ…」
「ミヒャ、」
「………おんぶぅ…」

一緒だから。抱っこもおんぶも一緒だから!

「………おんぶ…………」

……
…………ぎゃわいいっ!!!!!

うるうるの大きなお目めに上目遣いをされた私は、咄嗟に口元を抑えた。んぎゃわいい!危ない、危うく吐血してしまうところだった。……あーもー!!分かった、分かったよ!!サーイエッサー!!!ミヒャ様の言う通り!!こんなに可愛くおねだりされてしまうと、逆らうなんて選択肢、私にはない。…完全敗北Sを喫して、仕方なし…と準備を整える。リュックを前に回して、鞄を肩に掛ける。へい、お待ちぃ!と背中を向ける。

「ほら、ミヒャ」
「ん!」

途端に、嘘泣きだったんじゃないだろうな?と疑うくらいぱああっと顔を輝かせて背中に飛び乗って来るミヒャ。………可愛いから嘘泣きだったとしてもいいや。私は孫悟空の如くミヒャの掌の上でコロコロ転がされたとしても本望である。本望寺!

「行くよ、ミヒャ」
「うん」

ぽてぽて…と、おっそ!と言いたくなるスピードで歩き出す。仕方ないだろう、こっちだって肉体は十二歳の女の子のものなんだ。それを三歳の男の子背負って荷物持ってちゃ、こうなるのも無理はない。……それにしたってこの恰好ダサイな…。前と後ろに赤ちゃん、買い物袋を持っている肝っ玉母さんだってもっとスマートだろう。それでも何とか交番まで辿り着いたことは褒めてほしい。のに。

「…本当にあなた達だけなの?」
「本当です」
「本当に本当に?」
「本当です」

だから本当だって言ってんじゃん!

辿り着いた警察署で「保護の申請をしたいのですが」というと、警察官らしき人は驚いたような顔をした。一応、拙いながらも英語は喋れるので、伝わってると思うんだけど。待っていると、今度は別室に通されて、今目の前にいる女性に名前、年齢、出身地から事細かに聞かれる。何度も何度も同じことを。……どうやら、家出少女とその弟だと思われているらしい。…くそ、こっちだって背水の陣の覚悟で来てるのに、失礼な人達だ。

「お父さんとお母さんのところに帰った方がいいんじゃないの?」
「二人ともいません。母は先日亡くなりました」
「………」

嘘は吐いてない。父親なんていないようなものだし、母は実際先日身罷った。それでもまだ訝し気な顔をする人達に、はあ…と溜め息を吐きたくなる。

「……ここで申請を受け付けて下さらないなら、他に行きます。……パリまで行けばいいんですよね」
「………、オーケー、分かった、分かったわ。貴方が本気で申請をしようとしているのは伝わったわ。私は政府の役人として、国際条約と我が国の法に則り、貴方の意思確認を行いました」

…役人さんだったのか、この人。警察官とばかり…。女性はふう、と表情を緩めると「でも、申請を行うのは貴方の言う通りパリになるの。そこで詳しく調査されるから、貴方の申請が通るかは分からないわよ?」と念を押した。…まあ、そこをこの人に言うのは酷だろう。滞在申請と併せて保護申請を行うことになる、その際には…とこれからの手続きを分かりやすく説明してくれたから、悪い人ではないようだ。ミヒャを見て「可愛い子ね」と微笑んでくれたので尚更。そうでしょう、そうでしょう!世界一可愛いのです、うちの子は!

「パリまで貴方達をちゃんと送り届けるわ」

女性役人さんのパチリとしたウインクに、おぉ…と感嘆する。華麗で上手なウインクだ。私もいつかできるようになりたい。

一先ず、移動手段とパリまでの安全は確保できたらしい。その日は簡易ベッドが置かれた部屋に通され、眠りについた。次の日は早朝から車に乗せて貰って、パリを目指すことになった。……そこでの誤算は、あのウインクの素敵な女性役人さんが付いて来てくれなかったことだろう。…彼女は多忙な人らしい。

「変な音がする〜〜〜っ!頭痛い〜〜〜っ!!」
「ミヒャ、ミヒャ、大丈夫だから」

うわあぁあああぁああん!!と目覚まし時計みたいにけたたましく泣くミヒャを必死に撫でてやってあやす。ハイブリット車の影響とか…?過敏な人は頭が痛くなるって聞いたことがあるし…、そうでなくても、慣れない車の振動やエンジン音に感覚の鋭いミヒャが影響を受けても可笑しくない。よしよし…と頭を撫でてやる。

「……Hey,Bad boy!!静かに乗ってることも出来ねェのか?!うるさくてしょうがねェや!」
「ごめんなさい……。ミヒャ、ちょっと我慢してね」
「やだあぁあああぁあぁあああ!!!」

抱っこして、ゆ〜らゆ〜らとしてあげても落ち着かない。私の肩口を涙と鼻水でズべズべにしながらも、ミヒャはずっと泣いていた。チッ!とこれみよがしな舌打ちに、びくりと身を竦ませる。見るからに大柄で、強面な男性。この人も役人さんなのかもしれないけど、どっちにしろ恐ろしいことには変わらない。

「ったく、ついてないぜ…こんなガキ共の御守しながら、五時間もドライブしなきゃなんねェなんてよ」

ほとんどスラング交じりな英語は、大体こんなニュアンスだったと思う。もう一度、ごめんなさい…と呟いてミヒャの背を撫でる。ミヒャの鋭敏な五感も、癇が強い性格も、他人に言って理解してもらえるものではない。それは、実家での生活で嫌というほど分かっていた。使用人には強気に出られても、今この人に対しては縮こまって謝ることしか出来ない…ここで文句を言って、放り出されては堪らなかった。

「……ごめんね、ミヒャ」

この子は悪くないのに、ごめんね、という思いを込めてサラサラの髪を撫でる。次第に泣き疲れて眠ってしまったことに、不条理極まりないけど、私はほっとした。…ほっとしてしまったことに、自己嫌悪した。

そして、ようやく到着したパリ。―――私達は、一区の敷地を跨いだ瞬間、ぽいっと放り出された。

………えっ?

「俺ぁお前らをパリまで送り届けろと言われただけだからな。……あばよ、クソガキ共」

ちょっ……!!

ブロロロン……

ちょっと待って、と制止の言葉を最後まで口にすることすら叶わずに、車はエンジン音を鳴らして出発した。ご丁寧に、排気ガスをこちらに噴き掛けながら。ゲホゲホ、と涙目になって空咳を繰り返し、再び目を開けた時、既に車は豆粒くらいの大きさになっていた。………ウソだといってよバーニィ。

「………しゅべすたぁ?」
「………大丈夫、大丈夫よ、ミヒャ。……取り敢えず、市庁舎に行こうか」

そうだ、落ち着け……落ち着くんだ……。素数を数えるんだ。冷静になれ、シュネー。返せないボールなんてないんだ!……置いて行かれたって何だ。あの男に緩やかに毛根が死滅していったり、朝起きたら必ずこむろ返りになる呪いを掛けるのは後ででも出来る……。陰湿って言うな。私はやると言ったらやる女だ。精々今のうちに髪の毛との名残りを惜しんでおくんだな!

…それはそれとして、ミヒャを不安にさせるのは得策ではない。そうだ、逆転の発想だ。ピンチはチャンス。あの乱暴極まりない男にいつ暴力を振るわれるか分からない時間を過ごすよりは、ただでパリに連れて来て貰ったという特典がついただけ御の字ではないか。……うん、なんかめっちゃポジティブになってきた!

「歩ける?ミヒャ」
「……うん」

散々泣いた後、ぐっすり眠ったお陰か、私の問いにミヒャは頷いてくれた。ほっと息を吐き、私達は市庁舎へと向かった。

「………」

…………まあ、こうなる気はしてたけど。

くうくう寝息を立てるミヒャをおんぶして、保護申請の為の窓口に並ぶ。かれこれ一時間は並んでいるが、長蛇の列である。ここまで歩いてくれただけ大金星というべきか、疲れ果てたミヒャは早速おんぶを所望し、今度は涎で私の肩をずべずべにしつつ、夢の中である。

…初めての外、ミヒャにとっては宝探しにも匹敵する大冒険だっただろう。でも、もう大丈夫だ。あったかいお布団でぐっすり眠れるようになるからね、とミヒャの頭に頬を擦り寄せる。…寝顔も天使なんだよなぁ…。ちゅーしたいくらい可愛い。てかしちゃう、とおでこにちゅーをする。可愛い。

だが、神様は優しくない。ふわふわの夢の中からどん底へ突き落とされる出来事は、更に続く。

「…では、申請が正式に受理されるまでお待ちください。書類は郵送でお送りします」
「……えっ?」

面接を終え、二、三枚の書類にサインをし、諸々の手続きを済ませたところで、告げられた言葉にぽかんとする。お待ちくださいって言われても…、え?郵送?家もないのに?と困惑する。でも、住所はないんですが…と言うと「では、二週間後にお越しください。その時にもまだ審査が終わっていなければ、もう少しお待ち頂きます」と返される。………え?

「次の申請者がお待ちですので……、では、二週間後に」

えっ。
えっ。
………えっ?

えっ、と呟くbotと化していた私は、半ば追い出されるようにぽいっと部屋を出される。……何にもなし?住居や施設の斡旋も、何にもなし?……二週間後って……、それまで、どーやって暮らすの?

………どうしよう。

私は本気で、途方に暮れた。甘い浅はか愚かと言われるだろうが、ドイツを出て、フランスに到着すれば何とかなると、私は漠然とそう思っていた。人生のプランの中に挫折とお先真っ暗を組み込む人だって、まずはいないだろう。今思えば、木っ端で十把一絡げな小娘を蝶よ花よという特別待遇で迎えてくれるなんて、んなわきゃねェだろうと、全く以てその通りなんだけど、………えぇ……。

そして、人類(私)は思い出した……。そう、私は神でもスーパーマンでもヒーローですらなく、前世においては日本という平和な国の一般家庭に生まれ、飽食の時代を生き、飢えも寒さも明日をも知れぬ生活も知らず、温室でぬくぬくと過ごしたクソガキだったということを―――……。

それは、今世においても変わらない。寄る辺もない見知らぬ国で、頼るべき相手も帰るべき場所もなく、ついでにいえば職も住処も金もない。……前世に比べれば、退化しているといってもいい四面楚歌振り。肉体年齢的には、間違いなく前世の死んだ年の方が社会的優位もある。…だって、今の私は、どう足掻いたってローティーンの、いたいけな少女でしかないのだ。

………。

「………しゅべすたぁ?……お腹空いた」

…………はっ!!…やべェ…口からエクトプラズムが出るところだった……。ひゅ〜んと飛んでいきそうな魂魄を引き留めてくれたのは、これまた麗しのまいえんじぇるミヒャエルの声。…そ、そうだ…現実逃避している場合ではない。私は、お姉ちゃんだ。………そう、お姉ちゃんなのだ!!茫然としている時間はないのだ!!

「……ご飯にしようか、ミヒャ」
「うん」

こくっと愛らしく頷くミヒャに向かって微笑む。腹が減っては何とやら。幸いお金はあるし…取り敢えず、お腹を満たしてから、今後のことをゆっくり考えるとしよう。そうしよう。…人、それを問題の先送りという。…だが、今の私には必要な据え置きであったと思うことにする。まる。

………だが、悲劇は畳みかけるように訪れる。

ホテルというホテルに、軒並み保護者の有無を問われて「身分証など?」「結構です!」と言い切ったキキちゃんよろしく、何度もフロントを後にした。…まあ、そうじゃなくても、提示された宿泊代はシングルだとて目の玉が飛び出るほど高くて、どの道払えりゃしなかったけど…。

後から知ったことだが、パリジャン、パリジャンヌが住む洗練された街パリは、ヨーロッパの中でも一二を争う程物価が高いらしい。パリ一区に住むとしても、全ての部屋がデザイナーズマンション並に高級感に溢れ、ひと月の家賃は日本円にして百万単位は下らない。郊外においてもそれは変わらず、中心街に近付くほど、お値段は張る。……そりゃ、収入の充てもない小娘が払えるわけないよね、ハハハ。

……笑い事ではない。

仕方なしに、私とミヒャは駅の軒下に服を着こみ、身を寄せ合って眠りについた。見ると、路上には同じようにシートを敷いて横になったり、テントを張っている人達もいる。私達も、取り立てて目立つわけでもないのが幸いだった。

今日は色々あって疲れた……。胸元に頬を寄せて眠るミヒャは、少し顔色が良くない。もうすぐ寒波がやって来る時期だ。本格的に寒くなる前に、住めるところを探さなくては。…住み込みの仕事とか……見つけなきゃ…、とうつらうつら、瞼を閉じる。屋外で眠れるだろうかと心配していたが、中々どうして疲労は大きく、さして時を待たずして私の意識も落ちた。


………筈だった。


ごそごそ…ごそごそ…と何かが近くで蠢く気配がある。人の気配に敏感ではない性質の私でも、んん、と瞼を開けずにはいられない。……何か、動いてる?……みひゃ?と、薄っすら目を開ける。違う。抱き込んだ温かさは変わらず、規則的な動きで上下している。

僅かな月明かりに照らされて、呼吸の音が聞こえそうなくらい近くに、髭もじゃな顔があった。………目が合った。


………ぎゃっ、

ぎゃああぁあああぁああああぁああああぁああああっ?!?!?!

絶叫した。吠えた。慄いた。だけど、本気で恐怖を感じたら声が出ないというのは本当で、全ては心の中で、だった。くぁwせdrftgyふじこlp!!何何何、誰誰やだやだ怖い〜〜〜〜っ!!私は完全にパニックになり、ミヒャを片手で抱き締める傍ら、横に置いていたバッグをぶんぶん振り回し、不審者を殴った。くぐもった声が聞こえると同時に跳ね起きて、這う這うの態で軒下を出る。

それから走った。無我夢中で走った。後ろなんて振り返って、もし追い掛けて来ていたら怖いから、振り返ることもせずとにかく走った。もう、そのうち夜の闇に溶けて、発狂して虎になるのではないかという勢いで走りに走った。

やがて寒さと渇きに灼かれて咽喉から血の味がし始めた頃、ようやく足を止めた。

「なに……?しゅべすたぁ?」

はぁ、はあ、はぁ、はぁ……。

何処まで走ったのか、何処にいるのかも、すっかり分からない。自分にしがみついているミヒャの声にも答える余裕を無くしていた。咽喉が痛い。血の味がする。心肺機能が悲鳴を上げている。………何だったんだ、あれ…。寒い筈なのに、ぐっしょりと濡れた額を拭う。

……何だった、ではない。……あれは、追い剥ぎだ。この現代社会で何をと思うかもしれないが、強盗もひったくりも追い剥ぎも、身近に起こらないだけで珍しいものではない。ただ、碌な大人も傍にいない、見るからにお登りさん丸出しな姉弟は、彼等にとって格好の獲物であったことは想像に難くない。眠りにつく頃合いを見計らって寄って来たのだろう。…目が覚めなければと思うと、ぞっとする。

………気付けば、私の手元にはリュックはなく、バッグだけになっていた。

戻っても、どうせ持ち去られて既にないだろうけれど、あの場所に再び戻る気にはとてもじゃないがならなかった。大都会の光と影、その影の部分が容赦なく牙を剥き、初日から盛大に洗礼を浴びてしまった私は、すっかり腰を抜かしてその場にへたり込んだ。



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