利己主義者Nの献身
- ナノ -


ゴールドリングに愛の忠誠を




一流のストライカーというものは、育てようと思って育てられる生き物ではない。

生まれついた境遇、持って生まれた能力、育った環境、どんな精神性を得てどんなトレーニングを積めば、世界一と呼ばれるストライカーを生み出せるか、その理論を社会に反映させたものは、未だかつて存在しない。その瞬間、最もフットボールの熱い場所に、突如として出現する。ストライカーに、″為る″のだ。己の欲望を、最大限フィールドに投影し、自らを試合の主役とした者を、人々は英雄と呼び、讃える。

世界一のストライカーは、同時に、世界一のエゴイストでもある。その理論が正しいとすれば、現時点、世界一と称されるこの男……ノエル・ノアこそ、世界中の誰よりも傲慢で、尊大で、強欲であると言えるだろう。

現フットボール界において、ノエル・ノアは間違いなく、世界一のストライカーであり、スーパーヒーローであった。所属チーム『バスタード・ミュンヘン』の絶対的エースの試合を観戦したものは、彼のファンタスティックゴールを前に総立ちになり、熱狂の渦へと巻き込まれる。人々は知りたがった。有名税というべきか、緑のフィールドを駆け巡る英雄の為人を、嗜好を、人生を詮索し、思うがままに空想し、その不躾な知識欲を公然と振り翳すのだ。…ノエル・ノアのプライベートが、謎に包まれていることも、それに拍車を掛けた。

徹底したガードの中、自宅はおろか、交友関係、家族構成にあっても不明。ただ一つ、分かるとことがあるとすれば、ノエル・ノアは、既婚者であるということだけであった。

彼の左手の薬指には、シンプルなデザインのゴールドリングが光っている。試合の最中でも片時も外さないそれに、間違いなくファッションで身に付けているものではないだろう。彼の母国であるフランスでは、指輪というものは神の加護が宿る神聖なものとされている。神の下永遠の愛を誓い、その誓いを篤く重んじる。

―――ノエル・ノアは、試合の後、密やかに薬指のリングにキスを落とす。

それは、サイボーグのようだ、機械的だと言われる男が、公衆の面前で、唯一見せる人間性の象徴でもあった。指輪に捧げるのは、誓いか、愛か。メディアに面白可笑しく掻き立てられようと、ノエル・ノアはその行為をやめない。ゆえに一層ノスタルジックに、ロマンティックに群衆の目には映るのだ。無骨な指を飾る、マリッジリング。その先にいる人物の影を、メディアは明らかにしようと躍起になった。

一度、インタビュアーが尋ねたことがあった。ハットトリックを決め、バスタード・ミュンヘンを勝利へと導いた、ヒーローインタビューの対象は勿論ノエル・ノアだ。無遠慮に、いや、本人からすれば意を決して、満を持しての質問であったのだろう。「ペアのゴールデンリングを嵌めたパートナーは、この試合を観に来ているのですか?一言、お願いします」と。

もしYESと答えれれば、群衆の中にはノエル・ノアのパートナーがいることになる。誰もが血眼になって捜すだろう。左手の薬指に、同じデザインのゴールドの指輪を嵌めた女性ないし男性を。ごくりと、唾を飲む音が大きく響く。……熱くなる会場の視線と裏腹に、ノエル・ノアの双眸はアイスランドの氷河よりも冷たい色を帯びた。

「…例えばだが」
「は、はい?」
「最高のラタトゥイユを出すという店で、その店のメニューにも載らないカヌレを注文する客がいれば、その店のウエイターはどういう感想を抱くと思う?」
「そ、そうですね…」
「俺がウエイターであるならば。…この客は、メニューも読めない、程度の低いPauvre con(クソ野郎)だと思うだろう」
「は、はい」

淡々と、感情の籠らない、低い声だけがマイク越しに響く。元々ノエル・ノアはスラム街の出身だ。取り繕っているだけで、口汚さで言えば、悪童イレブンとも引けを取らない。それでも、マイルドな表現を選んだつもりだった。テレビに映る以上、チームの品性を損なわない程度に。…誰の目にも明らかだった。ノエル・ノアが、静かに、だが確実に、怒っているということが。

「……それが、試合の内容、俺のフットボールに関わることであるのならば、忌憚なく答えよう。プレイの意味も、ゲームメイクの詳細も、勝利の決め手となった合理性を、余すことなく提供する準備は出来ている」
「だが、その質問が、俺自身でも、ましてやフットボールに対するものでもなく、お前が頭の中で想像した存在を具現化するための、欲望に因るものならば、そんなものに一々答えてやるほど、俺は優しくもなければ、暇でもない」
「これは、試合後のインタビューだろう?」

「―――フットボールに関することだけ、淡々と聞け」

以上だ。と言い放ち、それきりノエル・ノアは、むっつりと黙り込んだ。インタビュアーの額から、ダラダラと夥しい汗が垂れる。キツい。ドギツい。だが、ノエル・ノアにとって、下世話な好奇心からパートナーを探られることは、彼の逆鱗を撫でられるに等しいのだと、理解するには十分だった。世間が知りたがっているであろうヒーローの秘密を暴く勇者のような蛮勇さをひけらかした愚かなインタビュアーは、蛇に睨まれた蛙の如く、硬直することしか出来なかった。

最悪な空気のまま終わったインタビューであったが、反して、世間の評判は上々であった。勿論、プライベートで土足に踏み込んだインタビュアーは批難を受けたが、図らずも、ノエル・ノアが冷静でいられなくなるほど、己のパートナーをこの上なく愛しているのだということは証明されたのだ。以後、メディアでも雑誌でも、ノエル・ノアにペアリングの持ち主について問うことは、フットボール界の禁忌となった。

……と、実しやかに囁かれる噂に踊らされず、ただ一途にノエル・ノアに憧れを抱いているのが、ブルーロックの申し子たるエゴイスト、潔世一であった。幼い頃にテレビで初めて見た時から、そのプレイの虜となり、理想としてきたから彼は今、その憧れと共にサッカーが出来る最高の環境にいた。自身が所属するチームとしてドイツ『バスタード・ミュンヘン』を選び、ノエル・ノアの指導を受け、間近で絶技を垣間見る。県大会に負けて涙した過去が、まるで遠い昔のようだ。目指すべき頂き、切磋琢磨出来るライバルが存在し、自らの意思一つで未来を掴み取れる、それがブルーロックだった。

…挑発ばかりしてくるムカつく奴もいるが、ソイツにだって、次の試合で勝つつもりである。数日後に控えるイタリア『ユーヴァース』戦に向け、自分の武器を磨いている真っ最中だ。各々の練習や分析を重ね、一日の終わりの定例ミーティングが終了したところで、潔は足早にトレーニングルームに向かおうとした。新しく閃いた理論を短い期間で修得するには、時間が惜しかった。だが、自動ドアのセンサーが潔に反応する一瞬前に、ドアは開く。

「あっ、と…」

外からやって来た人物にぶつからないよう、踏鞴を踏む。危ねェ、と息を吐いて視線を前に戻した潔は、そのままカチンと動きを止めた。

―――ドアの向こうには、淡いブロンド髪を揺らした絶世の美女がいた。

え、と声が洩れてしまうのも、無理からぬこと。肩口に落ちる髪はサラサラと音がしそうなほど軽やかに流れ、スラリと長い手足と、服の上からでも分かる抜群のプロポーション。きめ細やかな白い肌と、上向いた睫毛が目元に影を残す。腕の良い人形師が精魂込めて作り上げた人形の如く芸術的な美貌は、正に絶世。スクリーンに映る女優もかくやという美しさを目の当たりにし、潔は言葉を失った。

きょろりと、美しいサファイヤが動く。数度背後の室内を彷徨った視線が、ふいに、潔へと向けられる。身体は潔の心情を明確に反映し、ドキン!と心臓を高鳴らせた。……キレーな人だなぁ…と陳腐な感想だけが浮かぶ。物憂げに下げられた眦と、潤んだ唇がどうにも色っぽい。外国人の女性と相対するのは初めてであったが、みんなこのように綺麗なのだろうか?…と、少々無遠慮な視線を投げてしまったところで、はたと気が付いた。

……あれ、この人、誰かに……?

疑問に答えを出す、数拍前。どけ、という一言と共に、潔は乱暴に押し退けられた。

「って…!」
「シュネー!」

潔を押し退けた相手、ミヒャエル・カイザー。文句の声を出す間もなく、彼は腕を大きく広げ、ドアの前に立っている美女を抱き締めた。

え?

「Ich habe dich vermissd.……マイネリーベ!」

御影コーポレーションが開発した超性能小型同時通訳イヤホンは、恐ろしいほどの性能を発揮し、カイザーの声を翻訳する。逢いたかった、……愛しい人、と。………愛しい人?!

ぎょっとしたのは、潔だけではない。あの傲岸不遜で他人を見下す振る舞いをする、俺様何様カイザー様をばく進しているカイザー、あのカイザーが、だ!まるで主人に会った仔犬のように、ブンブンと伸びた後ろ毛を振り回しながら、ぐりぐりと抱き締めた女性の頭に頬を擦り寄せているのだ。見える横顔は、常の不遜さが嘘のように明るく柔らかい。僅かに頬を染め、嬉しそうに頬に添えられた手に自身の手を重ねている。

………え、これ、ホントにカイザーか?偽物?ブルーロックの施設が見せた、性能の良いホログラム?

美女は、ミヒャ、とカイザーの名前を口にした。それだけで、またカイザーの顔が花が咲いたように綻ぶ。人を見下し、ゲスさ極まる歪め方さえしなければ、カイザーの顔の造形も恐ろしく整っているのだ、と再認識させるには十分だった。いや、そんなこと改めて認識したくない。そうではなく。…気になるのは、カイザーにそんな顔をさせる女性の正体だった。ネスも笑顔で再会を喜んでいるようだし、知り合いのようだ。カイザーの恋人だろうか。サッカーが超絶上手くて美形で、吃驚するほどの美女を恋人にしてるなんて人生勝ち組過ぎるだろう。…もげろ、と、誰かの呟きが控室に落ちた。同感だが。

と、そこで終われば、彼等は彼等で納得したのだが。…現れたマスターストライカーの存在が、疑問に拍車を掛けた。

何故か戻って来たノエル・ノアは、いつもの如く変わらぬ表情のまま、カイザーに肩を抱かれる女性を一瞥する。そして、カイザーの腕から奪うようにして、美女を自らの腕の中に閉じ込めた。

………は?!?!?

「……ノエル」
「シュネー」

ここでは誰も呼ばない、呼ぶことのないノエル・ノアのファーストネームが、女性の声によって音になる。二人はじいっと互いの目を見つめた。見ているこちらがどきどきしてしまうような、熱い視線が絡まり合う。体格の良いノエル・ノアが、背筋を丸めて美女の方へと顔を傾ける。二人の距離は、一瞬にして零となった。

唐突に繰り広げられる濃密なラブシーンに、今度こそ一同は声を失った。

…………ええぇええええぇええええ?!??!?

それが日本人の国民性というべきか、奥ゆかしく、謙虚で、慎ましい日本人は、人前でキスなど、まず恥ずかしくて出来ない。勿論例外もあるが、少なくとも潔は例に漏れない。その上、この控室にいるのは、サッカーに人生全てを懸けるという重い覚悟を決めてきているとはいえ、まだ思春期真っ只中の、高校生男児達なのだ。……映画も吃驚のキスシーンが目の前で起これば、呆気にだって取られてしまう。…それも、あの、ノエル・ノアが、だ。甘やかな美貌を正統に発揮した王子モードカイザーより、はっきり言って衝撃はデカい。

……え、え??……えっ?

許容量を越えたパソコンがヒートするみたいに、脳味噌が上手く稼働しない。……さ、三角関係……?と五十嵐の声が落ちる。……カイザーに愛の告白をされて?ノエル・ノアにキスをされて?…今なお二人に取り合われている、不可思議なトライアングル。……ど、どーいうことだ…?と頭が回らない。

「……何か勘違いしてるみたいですけど、シュネーはカイザーのお姉さんですよ」
「えっ?!」
「姉ちゃん?!」
「何だ…そうなのか」

ゲスな考えを巡らせられては堪らないと、冷ややかな目をしてネスが呟く。成る程、合点がいった。彫刻のような優美さと何処か冷たさを感じさせる高貴な美貌が生み出す既視感は、カイザーのものだったのだ。言われてみれば、髪の色は元より、顔立ちも姉弟は似通っていた。本当に、本当に意外だが、カイザーはシスコンのようだ。まあ、もしかしたらドイツ人の家族愛は、あれが普通なのかもしれないが。

「ひェええ…すっげェ美人だな姉ちゃん…」
「シュネーをゲスな目で見ないで下さい目ン玉潰しますよ」

コワ…。可愛い顔して毒舌家であり、過激な思考回路を持っているネスは、ギロリと五十嵐を睨んだ。カイザーへ向けられる信奉は、その姉に対しても好意の矢印として発揮されているらしい。ああ、二人並んでいるとどうしてこうも美しいんでしょう…この光景を絵画にして閉じ込めてしまいたい…と恍惚としている。…ある意味通常運転なので、この際放っておこう。カイザー至上主義ムーブにはついていけない、と出入り口ドアの喧噪へと意識を戻す。……あれ、でもカイザーの身内ってのは分かったけど、じゃあノアは…?とまた疑問が湧く。

…と、煌めくサファイヤと、バチリと視線がかち合った。こちらが彼女を見たように、彼女も潔を見た。しかも、その目線が逸らされることがない。…え?俺のこと見てる?と思った瞬間、ふわりと艶麗な美貌が和らいだ。口元の笑みもそのままに、カイザーの姉だというその人は、潔の目の前まで歩いて来た。

「……ヨイチ・イサギ?」
「えっ、俺っすか…?……え、えと、は、はい……じゃ、なくて。…えと、YES…」
「日本語で大丈夫」

いきなり話し掛けられたことに驚きつつ、取りあえず返事をする。が、彼女は同時通訳イヤホンを付けていないのだ。でも、ドイツ語は話せないので、何とか英語で答えようとした潔は、清らかな中音が奏でる流暢な日本語にまた驚いた。差し出された手を、反射的に握る。あ、握手か。

「初めまして、イサギ選手。貴方のプレイ、よく観てます」
「あ、ありがとうございます。…あの、日本語お上手です、ね」
「ありがとう」

上手どころではない。イヤホンのお陰ではなく、滑らかなイントネーションはネイティブと比べても何ら遜色はなかった。彼女が生粋の日本人だと言われれば、そうなのかと納得してしまうほどだ。潔の言葉に彼女っは柔らかく微笑んだ。……カイザーに似てると思ったが、撤回しよう。氷の如き酷薄さに満ちたカイザーの美貌と、目の前の女性のしんしんと降り積もる初雪のような美しさ。こうして比べてみると、全く別種だった。

「私はシュネー・ノア。…夫と弟が、いつもお世話になってます」
「は、はぁ…潔世一です。…………えっ、夫?」

しかも、ノアって……?頭上にはてなを浮かべながら、彼女とノエル・ノアは見比べる。カイザーの口撃をいなしていたノアは、少しだけ考えるように視線を逸らした後、溜め息を吐いた。

「……Elle est ma femme」
「えっ?」
「………ワイフだ」

口外するなよ、世間には公表してねェんだ、という注意を付けて、落とされた爆弾。控室の男達は、揃って女性とノエル・ノアを見比べる。……互いの薬指に嵌る、揃いのデザインの指輪。そう、有名な話だ。―――ノエル・ノアが、既婚者であることは。

―――……はあぁああぁあああ?!?!

ワイフ。嫁。妻。女房。…世界一のストライカーの、知られざるプライベートの一角。突如明らかにされた事実が、今日一番の衝撃だった。…え?!この人ノエル・ノアの奥さんなの?!こんな美人を?!嫁にしてるノエル・ノアすげーー!ってか、つまりカイザーとノエル・ノア……この二人、義兄弟なのか?様々な情報を処理する速度が追いつかない。試合中はスーパーコンピューター並に働く潔のIQも、日常生活では動きが鈍る。彼もまだ年若い少年であるからして。

そんな混乱を前にしても、シュネー・ノエルと名乗った人はマイペースに「お願いがあるのだけど」と潔に迫った。潔だって身長は175pあるので決して小さい方ではないのだが、ほとんど背丈が変わらない。しかし近付いて見つめられると、彼女は僅かに上目遣いにならざるを得ない。潔の頬が純情そうに赤らんだ。

お願い?と首を傾げる潔に「そう」とガサガサ鞄を探る。はい、と差し出されたもの。……BLTVの案内冊子と、ペン?

「?…えっと?」
「サインください」
「……えっ、サイン?」

俺の?と自身を指差す。傍から見ると、相当間抜けな顔をしていると思う。シュネーは笑みを浮かべ「シュネー・ノアへって書いてくれる?」と囁いた。

「……サインって、俺、ホント名前書くだけになりますけど…?」
「それでいいの」
「…じゃ、じゃあ……」

促されるまま、カタカナで彼女の名前を書き、その下に自身のサインをする。かつて子供に握手を求められた時も照れ臭かったが、サインをするのも初めてである。なんか緊張するなぁ…と言われるがままに書き終えると、彼女は嬉しそうに顔を綻ばせた。

「ありがとう。家に飾るわ」
「い、いえ、どういたしまして……えっ、家に飾る?」

それって、ノエル・ノアとの家ってことだよな?え?そこに飾られんの?俺のサイン?

「あ、ミヒャ。何するの」
「世一のサインなんかクソ要らねェだろ!」
「そうですよ!要らないですよそんなのゴミです!」
「おい」

それを見過ごせなかったのはカイザーだ。横からサインが書かれた冊子を掻っ攫おうとするのを阻まれている。おい、ゴミはないだろ。要らないってのも失礼だろ。書いてって言われたから書いたのに。

「サインなら俺が書いてやる!」
「ミヒャのサインはもう沢山家にあるわ」
「クソ潔のサインの上に書いてやる!」
「もう。ミヒャったら。アレクも……Sei vernuenftig」

静かだが、ぴしゃりとした声。騒いでいたカイザーとネスは、動きを停止させた。恐らくお叱りの言葉なのだろうが、凛然と、相手の反論を許さない。カイザーは、拗ねた子どものような顔をしてみせた。年齢よりも、一層彼を幼く見せる表情だ。彼の姉は、はあ、と溜め息を吐く。

「…どうして貴方は、天使のように可愛くて優しいのに、口だけはこうも悪い子になっちゃったのかしら」

私の教育が悪かったのかしら…と独り言めいて続く言葉。……天使のように優しい???

百歩譲って天使のように可愛いを肯定するとしても、クソ跪けだとか、クソお邪魔しますだとか、クソ道化だとか、人の神経を逆撫でするような煽り文句と行動しかしない男が、優しい??それだけは、断固反論させてもらおう。天地が引っ繰り返っても、潔はカイザーを優しいなんて言わない。どんな教育してんだ、と言いたいくらいであった。…その相手がこの優し気な美女であるというのなら、口が裂けても言えないけど。でも、弟さん性格最悪ですよ、というくらいなら許されるだろうか。駄目かな。
.
「ごめんね、イサギ選手。悪い子じゃないんだけど」
「…は、はぁ」
「短い間だろうけど、チームメイトとしてよろしくね。私も、貴方を応援してるわ」
「……俺の、応援?…してくれるんですか?」

俺、貴方の弟の胸倉掴み上げたんデスケド……。100%殺すとか言っちゃったんデスケド…。試合を観ていたなら、そこも知らない筈はないのだが。罰が悪い顔をするが「勿論よ」と微笑まれて、こちらの方が吃驚する。

「えっ!?」
「―――私、貴方のファンだもの。U−20戦からの」
「え、ちょ、……え?!」
「活躍を期待してる。いつか貴方が世界の舞台に立つのを、楽しみに待ってるわ」

ぎゅう!とハグをされて、今度こそ潔はパニックに陥った。うわ、柔らかい…良い匂い……え。俺のファン?!って、驚いている暇もない。ふわふわの髪が頬を掠める度、潔の心臓は聞こえてしまいそうなほど荒ぶった。生まれてこの方、母親以外の女性に抱き締められたことなどない。親愛のハグだとしても、欧米風だ。潔が経験したことがあるのは、試合中の良質なハグくらいなのに、刺激が強すぎる。

どうすればいいのか彷徨わせた両手が宙に浮き………刹那、潔の本能が、けたたましく警鐘を鳴らす。ブルーロックに来てから培われた察知能力が、危険信号を鳴らした。…その強烈なプレッシャーの主を、探すのが怖い。

「おい」
「わ、ノエル」
「………夫の前で、堂々と浮気か?」

ぐい、と聊か乱暴な仕草で、ノエル・ノアが妻を引き剥がす。冷静に見えるが、こめかみに浮かぶ青筋がチャームポイント。……人でも殺しかねない目で、殺気がビンビン籠められていそうな声に、潔の毛穴という毛穴から汗が噴き出す。ついでにカイザーとネスの顔も怖い。カイザーの○ねを意味するジェスチャーもキレキレだった。

「ノエルこそ、私を置いて日本で若い子と楽しそうにしてるくせに」
「俺が浮気してるみたいな言い方はやめろ」
「違うの?」
「違う」

すげえ…この状態のノエル・ノアをどうして更に挑発するような台詞が吐けるのか。潔には理解不能だった。俺…殺されるんじゃないかな、というくらい心の中はバンビちゃん状態の潔とは正反対だ。再び前言撤回。このレスバ能力と煽りだけは、間違いなくカイザーの肉親だ。

もういいから来い、と、ノエル・ノアは強引に妻の腕を引く。今度は逆らわず、彼女はチャオ、と控室の選手達に手を振った。その後をついてく、カイザーとネス、ドイツ勢の面々。残されたブルーロックの面々は、過ぎ去った嵐のような騒動に、ポカンとしながら、残された。

「……ノエル・ノアが結婚してたって、本当だったんですね。しかも、カイザーのお姉さんだなんて」
「何アンリちゃん、意外とミーハー?ゴシップ好きなわけ?下世話だね」
「違います!ただ、有名な話じゃないですか」

試合は生放送だが、控室やトレーニングルームの様子は編集して配信される。つまり、各所の監視カメラは、ばっちり先程までの光景も記録していた。帝襟アンリの言に、キレキレのコメントを返すのは絵心甚八。ブルーロックプロジェクトの首謀者たる二人は、モニターを眺めていた。ノエル・ノアの「シュネーが来る。通せ」の端的過ぎる要求をスタッフに通したのも、絵心だった。まあ、選手二人を身内に持つ女は、まるっきり部外者というわけでもない。

「ノエル・ノアがドイツにアレを置いて来たことも意外だったけど、案の定想定の上を行く。変わらないねェ、ああいうとこ」
「…?絵心さん、あの人のこと知ってるんですか?」
「まあ、一応」
「綺麗な人ですよねー。お人形みたいで」

絵心の言葉は、明らかに知己に対する者だった。その経歴を多少知っているとはいえ、交友関係まで網羅しているわけでもないので、アンリには初耳だ。もう一度、モニターを見る。光を受け輝くブロンドと、宝石を閉じ込めたような瞳。ビスクドールと言われても頷いてしまいそうな精緻な美貌は、同じ女から見ても感嘆の声しか出ない。憧憬を宿したアンリの感想に「はあ?」とカップラーメン片手に絵心は目をひん剥いた。

「綺麗?どこがぁ?…外見だけで、中身はドロッドロに泥くさい最悪な女だけどぉ?」
「えっ?」
「俺は今まで、あの女ほどのゴリゴリのエゴイストは見たことない」

男でサッカーやってたら、間違いなく最高のストライカーになっただろうね、と。それは、世間から見れば最悪の、ブルーロックの理念からすれば最高の、褒め言葉だった。ええ?あの人が?とアンリは怪訝に思った。弟思いの物静かな女性にしか見えない。そんなアンリの表情を読み、絵心は眼鏡を押し上げた。

「世界一のエゴイストの女が、同じエゴイストじゃないわけないでしょ」

「―――あの女は、ノエル・ノアを世界一のストライカーにした女だ」

忌々し気な舌打ちは、過去への回顧か、それとも。……ノエル・ノアという男が、世界一になるまでの軌跡に、あの女は一役どころじゃない貢献をしている。

―――全ては、十七年前。

冷たい雪が降り積もる、フランスのスラム街で始まった。



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