利己主義者Nの献身
- ナノ -


世界一の男には、愛に愛持つ嫁がいる



ノエルは何度も何度も礼を言う店主に短く手を振って、店を後にした。……すっかり遅くなってしまった。早く帰ると行ったのに、オーナーの話とパン屋での遣り取りのせいで、いつもより遅いくらいの時間である。ライトを照らして家路を急ぎ、道の向こうに遂に我が家が見える。ガレージの前で停車して、リモコンでシャッターを開ける。そのまま後退して駐車したところで、家の中に繋がる扉が開いた。

エプロン姿で、心なしか表情を明るくさせて、ノエルが車を降りるのを待っているシュネーを見ると、自然と口元が緩んだ。毎日毎回、シャッターを開ける音に気付いて、彼女はノエルを出迎えてくれる。待っていてくれる。逸る気持ちを抑えて降車し、流れるように自然と腰を抱く。…と、帰宅した時だけは、まるでキスをされるのを待っているかのように、僅かに顎を上向けて来る。言わずとも伏せられる瞼に、口付けを乞われていると思うのは、きっと気のせいではないだろう。恒例となる、ただいまのキスを数秒交わし合った。

ああ、そうだ、忘れるところだった。

「土産だ」
「え、ありがとう」

買ったばかりの土産が入った紙袋をぽん、と手渡す。シュネーが少し目を丸くして、ガサリと中身を見て、その表情が緩む、僅かな変化も見逃さない。…可愛いな、コイツ。愛妻の喜ぶ顔を堪能してから、脱衣所に向かう。服を洗濯機に放り込んで、浴室への扉を開いた。

朝や練習後はシャワーで済ますが、夜はバスタブに浸かり、一日の疲れを癒す。贅沢な湯の遣い方だが、シュネーは風呂好きで、あまりバスタブに湯を張ったりする文化のないドイツ人の習慣に反し、入浴を欠かさない。感化され、今ではノエルもすっかり風呂に入ることが常習化してしまった。筋肉が程よく解れる感覚は、中々悪くない。シュネー御用達の入浴剤のせいで、自分からもフローラルな匂いがするのは、まあ、どうかと思うが。

湯船から上がり、身体を拭き、「風邪引くから髪はちゃんと乾かして」と口を酸っぱくして言われているので、ドライヤーを手にし……ようとしてやめた。無造作に肩にタオルを掛けたままリビングへ出て行ったところで、目敏くノエルの髪が濡れていることを見つけたシュネーが眦を吊り上げた。

「ノエル、髪濡れてる」
「…ん、あぁ」
「………もう。座って?そこ」

態とらしく気のない返事をするノエルに、パタパタと脱衣所に向かうシュネー。ソファーに座ると、温かい風が後方から噴き掛けられる。…これは、計算通り、とほくそ笑むところなんだろうな。幼い頃、カイザーはシュネーにベタベタで、甲斐甲斐しく世話を焼いてもらっていた。その際にノエルも味を締めたのが、この行為だった。何だかんだ言ってノエルにも甘い彼女は、仕方ないなという顔をしながらも、こうして髪を乾かしてくれる。撫でつけられる感覚が、目を瞑ってしまいたくなるくらい心地良い。……喜びとしては、慎ましやかな方だと思うんだがな。

はい終わり、と至福の時間はすぐに終わってしまう。そうなれば、席に着いて夕食だ。

「そうだ、ノエル。明後日のミヒャとのディナーなんだけど、フレンチを予約するつもりなの。ノエルも来る?」
「……やめておく」
「美味しいフレンチって評判のとこなのに?」
「…アレが嫌な顔をするからな」

アレとは、言わずもがな、ミヒャエル・カイザーのことだ。シュネーの実弟であり、一応、ノエルの義弟に当たる男。言うと、シュネーは「……そう」と下を向いた。しゅん、と落ち込んだ顔をされると、良心が痛む。痛むが、カイザーはノエルが同席するのを嫌がるだろう。

いい加減姉離れすればいいのにあのシスコンが、と思わなくもないのだが、まぁ、カイザーの気持ちも分かる。何せカイザーとシュネーは十近く年が離れており、彼は両親の顔も分からぬ時分に、家庭の事情でドイツを離れた。シュネーはカイザーにとってたった一人の肉親であり、姉であり、母代わりでもあるのだ。その愛情を一心に受け、また肉親の情を一心に注ぐ相手も、目の前にいる彼女一人。…つまり、ノエルは彼にとって「マイネリーベ」と呼ぶほどに愛する存在を奪った、憎い男ということだ。

…あれでも昔はまだ可愛げがあったんだがな…とかつてを思い出す。姉によく似て冴え渡る美貌を有したカイザーは、幼い頃は少女と見紛うほどに愛らしく「ふっとぼーるを教えろ!」と舌足らずに胸を張る様にも、どこか愛嬌があった。今では口を開けば憎まれ口ばかりの、幼稚なマウント癖のある可愛げのない青年になってしまった。シュネーが仲良くしてほしいと思っていることは分かるので、ノエルとしては吝かではないのだが、ああも向こうが頑なではな…と半ば諦めている。彼女には悪いが。

「じゃあ、夕飯は作り置いておこうと思うんだけど…それとも外で食べる?」
「…手間でなければ、お前の料理が良い」
「全然。じゃあ、冷蔵庫に入れておくから」

シュネーは嫌な顔一つせず、微笑んだ。余計な手数を掛けるが、一人での味気ない外食よりは、妻の手料理の方が良い。

一度、彼女に問われたことがある。ノエルは、遠征やキャンプ、試合で家を離れる時以外、必ず彼女の作った料理を口にする。昼は弁当を持ち、朝昼夜と、振る舞われる手料理を残らず平らげる。「もっとちゃんとしたご飯を食べなくていいの?」と少し不安げに放たれた言葉。弁当を作るのが負担だったらやめるが、と返せば、ふるふると首を振られる。どうやら、サッカー選手として、もっと栄養について考慮された食事を摂った方がいいのではないか、と心配してくれているらしい。

確かに、クラブチームでは食堂があり、チームメンバーに適した料理が提供される。望めば、クラブの栄養トレーナーが食事メニューすら構築してくれるだろう。事実、ノエルが所属するバスタード・ミュンヘンでも、そうしている者がいる。…が、ノエルは叶うならば、シュネーの手料理を食べていたかった。

そもそも、だ。ノエルとシュネーは、一般的にいえば、まあ所謂幼馴染というやつで、物心付くことから母親のいなかったノエルにとって、家庭の味といえば彼女が作るものだった。つまり、ノエル・ノアを世界一たらしめている肉体を構成しているのは、徹頭徹尾、彼女の手料理に基づくものなのだ。それを今更、専門家の供するものに変えたとて、何の影響があろうか。寧ろ、パフォーマンスが落ちることすらあり得る、「分からない」という、不確定要素を孕んだ選択肢だ。そんなリスクを、ノエルは選ばない。ジャンクフードや甘味の類は制限しているのだから、何の問題もない。

…それに。

「…美味しい?ノエル」
「ああ、美味い」

彼女は隠しているつもりかもしれないが、彼は知っている。シュネーの部屋の本棚に、ひっそりと置かれている本の数々。夜遅くに帰宅した際、机に突っ伏したまま眠ってしまった彼女が下敷きにしている、ノートと書き込みのされた専門書。……アスリートの妻として、少しでも栄養のある食事を作ろうと、彼女が弛まぬ努力をしていること。ノエルの為に、手間暇を掛けてくれていること。……気付かぬ方が、どうかしている。それがどれだけ嬉しくて、健気な様がいじらしくて、愛おしいか。―――彼女はきっと、知りもしないのだろう。

ノエルの言葉に、目元を細める姿が、言葉に出来ないほどに愛おしいのだ。この幸福は、夫であるノエルだけが享受できる権利だ。手放すなどと、考えられない。

残らず平らげて、食器をシンクへと下げる。たまには手伝おうか、と手を出そうとするが「座ってて」と優しく押し戻される。かろうじて任せて貰えるのは、ゴミ捨てや風呂掃除といった類で、掃除や洗濯に手を付けようとすると怒られてしまうのだ。……別に皿くらいノエルも洗えるのだが。

仕方なしにソファに座り、一息吐き……あぁ、そう言えば話しておかなければいけないことがあった。

「…シュネー、来月から、日本に行ってくる」

簡単に、今日のオーナーとの話をする。彼女は覚えているだろうか。かつてのチームメイト、絵心甚八のことを。あまり直接的な交流はなかったが、まぁ、あの通りインパクトのあるやつだからな。なんてことを思いながら説明すると「いいわね。日本、私も行ってみたい」と一言。…確かに、シュネーは日本食が好きだからな。いつかは本場の料理を食べたい、くらい思っているのかもしれない。

だが生憎と、ブルーロックに嫁同伴は出来ない。プロジェクトが行われている施設に缶詰となり、一切の備品もそこのものを使う。…そして、参加者は残らず男。チラ、と妻を見る。冴え冴えとした美貌と、魅惑的な肢体。……人妻とはいえ、若く血気盛んな男共の前に連れて行くには、あまりにも危険過ぎる…気がする。当然、却下である。ホテル暮らしなら、一緒に連れて行ってやっても良かったんだがな。

計画には、U-20チームの11名も同伴する。オーナーは既にカイザーから承諾を取り付けてるらしいので、彼女の弟もメンバーの一人だ。…カイザーが行くならネスも行くだろうな。そう伝えると、シュネーは「…そうなの」と沈んだ声を出した。

何だ、珍しい。遠征なんて、よくあることだ。キャンプや試合に行くとなれば、長いことドイツにいないことも多い。ヨーロッパ各地を巡ってばかりで、中々家にいないことは悪いと思っているが、彼女はいつも文句の一つも言わない。こういう態度も珍しかった。

「……どうした?寂しいか?」
「………うん」

そうか、寂しいか。……………は?

ノエルは危うく、ズルリとソファの肘置けからズリ落ちるところだった。踏み止まったのは、圧倒的な体幹の為せる業。……いや、そんなことはどうでもいいのだ。

目を見開いて、シュネーを見る。しょんぼり…という擬音が聞こえてきそうなほど、意気消沈している。哀愁漂うサファイアの双眸に、いつもの輝きはない。正直、少し揶揄おうとしただけだった。どうせ「大丈夫よ、気を付けて」という、面白みのない返事が返ってくるのだ。自分の負担にならぬよう、と慎ましい妻の鑑。………じゃなかったのか?……宗旨変えか?……嗚呼、もう。

ノエルは、徐に立ち上がった。

「……?ノエル?」

ノエル?じゃない。ノエルはひょい、と背中と膝裏に手を伸ばして、妻を抱え上げた。え?と驚いたような声を出し、慌ててしがみついてくる手さえ愛おしい。足早に寝室へ向かい、ベッドの上にシュネーを下ろす。

???、と訳が分からないと言いたげな顔。パチパチと何度も瞬く瞳。その全てを目に焼き付けて、逃げられないよう、覆い被さる。

「………とんでもねェ女だ、お前は」
「え?」
「―――俺を翻弄するのが得意な、とんでもない女だって言ったんだ」

する、と頬を撫でる。高級な陶器のような触り心地。その下は、口付けると簡単に後が付く、皮膚の薄い首筋。ほっそりとした鎖骨。……後は、言わずもがなだろう。襟元を開くと、淡い色をした下着が覗く。ノエルは、己の服に手を掛けた。………煽ったのは、お前の方だ。

「―――お前が俺を忘れないように、二ヶ月分、しっかり刻んでおかねェとな」

……無自覚なら、余計に性質が悪い。……いや間違えた。悪くない。―――最高だ。

最高に…―――、…滾る。

「……ま、」

待ってと、言い掛けた唇を己のそれで塞ぐ。…それが始まりの合図だった。

「……んっ!」
「あ、のえる…っ、そこは……っ」
「っあ……だめっ、………んんぁ…っ…!」

だから、ダメと言われると、燃えるというのに。寝室に、女のあられもない声が響く。

昨夜も溺れるように愛したというのに、尽きぬ欲望に際限はない。砂漠の砂が水を吸い込むように、生けるものが酸素を求めるように。ただひたすら、ノエルは愛しい女を貪る。己の中の獣が、欲しいと昂ぶり叫ぶ。何度も、何度も。…ノエルが生まれて初めて覚えた、強烈な衝動を思い出させるみたいに。お前のエゴの始まりを、懐古せよと本能が猛る。……その声に、逆らうつもりなど、毛頭ないのだ。

「待って、…ノエル…、」
「言っただろ?……フットボールの試合に、待ったはねェ」

つまりノエルの辞書にも、「待つ」なんて言葉はないのだ。少なくとも、彼女に相対する時は。

散々愛し尽くして、落ちそうになる意識を引き戻して、最終的に意識を失うように眠りについた妻を見て「…流石にやりすぎたか」と少しだけ反省する。すっかりドロドロになったシュネーと自身の身体の後始末をしてから、シーツの中に潜り込む。腕枕をして、裸の胸に引き寄せるように柔らかな肢体を抱く。上気した頬と、薄く開いた唇が何とも言えず艶っぽい。

飽きもせず、愛しい女の顔を思う存分眺めてから、ノエルは彼女の手を取った。整えられた爪先と、ノエルの手と比べれば、子供のように小さな手。その指に嵌る、シンプルなデザインのゴールドリング。ノエルが彼女に贈った、マリッジリング。……この命が尽きるまで、いや尽きたとて、永遠の愛を捧げると誓った、愛の証。

……眠りに落ちるその前に、いつも飲み込む言葉がある。

こうして共寝をする夜も、遠く離れた地で電話をして声を聞いた後の夜も。傍にいても、離れていても。間違いなく彼女に愛されていると、実感してなお、尽きぬもの。問えぬ言葉。……かつてノエルに放った彼女の言葉のままに、これからもきっと、ノエルは不安になるだろう。……それが不毛だと、分かっていても。

―――……お前は今、幸せか?

そんな聞けもしない言葉を、繰り返しては、飲み込んで。今日もノエルは、彼女の左手の薬指にキスをする。試合の後の口付けが、指輪を通して、彼女に伝わればいい。ノエルの心を容易く乱す、魔性の如き女に、愛してると、伝わればいい。

……結ばれてもなお、彼を惑わせ、狂わせる、―――運命の女(ファムファタル)。

日本に渡ってからも、想定外のアクティブさで自身が驚かされる未来など知りもせず、ノエルは目を閉じた。


余談。

ピポピポピポーーーーン!と鳴り響いたインターホンの音に、あ?と意識が持っていかれる。

忘れていた。一か月後に渡日する以上、時間が惜しいとばかりに、帰宅するとすぐさまシュネーをベッドに引き摺り込んでいたが、そういえば。……今日は約束の日だったか、とモニターを表示させる。画面いっぱいに、シュネーに似た、だが男性的な美貌が広がった。

『おいノア!シュネーを出せ!』
「うるせー。近所迷惑だ」
『クソふざけんな!電話も出ねェ、メッセージも返さねェ!シュネーに何してるこのケダモノが!』
「随分な言いようだな」
『今日はディナーの約束があんだよ!さっさとシュネーを出せ!』
「無理だ。ネスとでも行け」
『ざけんな、クソヤロウ!○▽××△○ーーーー!!!』
「うるさい」

ブチッと、モニターを切った。……全く以て、無粋な義弟である。



/24/次

戻る