利己主義者Nの献身
- ナノ -


世界一の男には、愛に愛持つ嫁がいる




「ノア、少しいいか?話があるんだが」

帰り際、ノエルは後ろから声を掛けられ、足を止めた。午後の練習が終わり、軽く汗を流した後、雑談もそこそこに早々にクラブを後にしようとした矢先。振り返ると、そこにはバスタード・ミュンヘンのオーナーである男が立っていた。…ここに来るなんて、珍しいこともあるものだ。

促されるまま連れて行かれたのは、ミーティングルームだった。………何だか居心地が悪いな。いや、別に、悪いことをしたわけではないのだが。……悪いことだっただろうか。

胸中複雑なノエルに気付くことなく、オーナーは話を始めた。

「………ブルーロック?」
「あぁ!知らないか?今日本で一番注目を浴びている、フットボール界の台風の目だ」

曰く。W杯で初のベスト16まで勝ち上がった2002年、下馬評を覆しグループリーグを突破した2010年、優勝候補ベルギーを追い詰めた2018年。脅威的なスピードで進化を遂げて来た日本サッカーが、次のステージに向かう為という名目のもと、発足した計画。FW300人を集め、世界一のストライカーを創る為に生み出された特殊な環境、青い監獄。そこで勝ち上がったフットボーラ―達は、遂に日本のナショナルチームを打ち破るに至った。

「……イカれているな」
「そう!イカれている!最高にファンキーだが、エキサイティングだ。…しかも、計画の首謀者は、誰だと思う?」
「…?」
「…お前だって、浅からぬ縁があるだろう?」

「―――エゴ・ジンパチだよ」

ノエルは、ぴくりと眉を動かした。―――絵心甚八。成る程な、と得心した。確かに、考えてみれば、こんなイカれた計画を思い付き、尚且つ実行に移してしまう手腕を持った人間など、他には思い付かない。

このノエル・ノアの、人生最初のライバルにして、かつての戦友。

強烈に記憶に残る、一人の男。……そうか。まだお前は、世界一に拘るか。もはや亡霊だな…と呆れ半分に溜め息を吐く。それで、オーナーは自分の何をさせようというのか。目で続きを促されたと分かったのか、彼は上機嫌に話し出す。ブルーロックの人気と勢いに肖り、欧州の強豪クラブチームは自陣のエースストライカーとチームメンバーの招聘に応じた。勿論マージンは受け取るが、それだけではない。これは、新人発掘の為のオークションでもあるのだ、と。

「シーズン前にメンバーを送り込むリスクを冒しても、得られるリターンは大きい。俺は、バスタード・ミュンヘンの次世代を担う若い力が欲しいんだ」
「…俺もまだ若いつもりだがな」
「ハッハッハ!お前も冗談を言えるようになったんだな!」

何が可笑しいんだか。…そもそも、現時点世界一のストライカーたる称号を持つ自分を招聘するなんて、挑戦的過ぎて笑えてくる。お前を超える人材を創ると、果たし状を叩きつけられたに等しい。……だが、"らしい"な、絵心甚八。

「行くだろう、ノア?」
「拒否権は?」
「馬鹿言うな。…お前だって、テンション上がって来てるくせによぉ」

…したり顔は気に食わないが、その通りだ。これで奮い立たぬなど、ストライカーではない。ノエルは最前線を走っている。いつまでもそれが続くなど、思ってはいない。停滞も、退屈も、挑戦もなければ、魂は腐る。

「……行ってやろう。その、ブルーロックとやらに」

―――そう、ストライカーとしての魂が、死ぬ前に。…ノエルとていつでも、挑戦者のままでいる。ゴールを決めることに昂ぶる、一人のフットボーラ―として。

「そうそう!今日シュネーが来たんだってなぁ。珍しいなぁ。もっと顔を出してくれてもいいんだが」
「………」

唐突な話題転換と、そこに現れた妻の名前に、ノエルは隠そうともせず眉を顰めた。バスタード・ミュンヘンのオーナーは、ノエルの来歴を知っている。スラム街で燻っていたノエルを見出してくれたのも、他ならぬ彼だった。それに伴い、シュネーの事情もよく承知だった。婚約者に迎えた時、結婚した時、メディア対策を請うた時、家を建てた時…と世話になっているのは確かだ。……だが、オーナーは「もう一人娘が出来たみたいだなぁ」と言いながら、いやにシュネーに対して気安い。その上、やたらホームパーティやらイベントやらに彼女を参加させたがるのだ。冗談ではない、というのが、正直な本音。

「それでな、今度うちでパーティをするんだが、シュネーも、」
「丁重にお断りする。…失礼」
「おい!待て!せめて最後まで聞け!つーか、何でいつも勝手にお前が断るんだ!せめてシュネーに伝えろ!」

嫌だ。断固拒否する。

「独占欲の強い男は嫌われるぞ、ノア!」

嫌われない。ノエルはシュネーに愛されている。世界で一番、愛されている。それを昼間、実感したばかりだ。だから早く帰りたいというのに、空気の読めないオーナーである。

今度こそ、ノエルは練習場を後にして、車に乗り込んだ。エンジンを掛け、ミュンヘンの街を自宅に向けて走り出す。信号待ちの最中、何気なく通りの店に目を向けていると、以前彼女がテレビを見ながら「美味しそう」と言っていた、ドイツの伝統菓子であるシュネッケを売る店を見つけた。糖分を制限しているノエルの前では大っぴらに食べないが、シュネーは甘い物を好んでいる。別に遠慮しなくてもいいのに、奥ゆかしい女である。…ので、ノエルはよく彼女に土産を買って帰る。ミュンヘンの街まではあまり出て来ないので、こちらに売っているものを買ってやるのはノエルの方が都合が良い。

…今日の礼も兼ねて、買って帰ってやるか、と側道に車を停める。もう既に閉店間近なのか、客入りはほとんどない。確かにディスプレイされているパンの数は少なかった。…目的のものは、と視線を巡らせていると、前の客のレジ打ちを終えた店主らしき男が、分かりやすく目を見開いた。…拙い。

「あ、アンタ……もしかして、ノエル・ノアか?!」
「………」

…バレた。ノエルは無言を貫いた。だが店主は飛び上がって「ドイツのスーパーヒーローに逢えるなんて!俺はなんて幸運な男だ!」と狂喜した。

というか、バレるなという方が無理な話。恵まれた体格と、そこにいるだけで注目せざるを得ない、溢れ出るカリスマ的オーラ。ただサングラスを掛けただけの、それで本当に変装しているつもりなのかという、義弟曰く「クソ雑な変装」らしいので、隠し通せるわけもない。だが、アイツにだけは言われたくない。帽子や恰好を取り繕っても、目立つ髪と青薔薇のタトゥーを惜しげもなく晒しているせいで、義弟はいつだって衆目を集めている。どの口で人のことを雑な変装だと宣うのか。…まあ、それは置いておくとして。

「…う、うちのパンを買ってってくれるのか?!あ、もうあんまりなくてな…待ってくれ!今すぐ焼く!」
「いや、結構だ」

わざわざ焼いて貰うつもりも、それを待つつもりもなかった。ただ土産を買いに来ただけなのだ。

「…シュネッケを一つ。いいか?」
「あ、あぁ!勿論だ!甘い物が好きなのか?」
「………ワイフがな」

今更取り繕っても仕方ないと、ノエルは開き直った。その答えと、妻のことを想い柔らかくなったノエルの表情に、店主は数拍呆けた。試合中には合理的なゲームメイクを貫き、稀代のエゴイストとも呼ばれるプレイスタイルを発揮する男が、なんと柔らかい顔をすることか。滲み出る慕情に、こちらが中てられてしまう。ぼうっと見入ってしまいそうになるのを必死に堪えて「そうか!味は保証する!」とシュネッケを紙袋に詰める。

「持って行ってくれ!サービスだ!!」
「いや、金は払う」
「いいんだ!頼む!…そうだ、奥さんにな!奥さんにだ!………か、代わりと言っちゃあなんだが……。さ、サインを、貰えやしないだろうか…?」

…本当は、こういうのは好ましくないのだが。サインや握手といったファンサービスを対価として商品を受け取るのは、バスタード・ミュンヘンの選手は人気を盾に金払いを惜しむという、悪評が立ちかねない。そんな愚かなことをすれば退団ものなのでいないだろうが、名声を笠に着て借財を重ねるような輩が現れても困る。…のだが。シュネーのことを出したのは失敗だったな、と首の後ろを掻く。ノエルにではなく、奥さんに!と言われてしまえば、断りにくい。

はあ、と息を吐いて右手を差し出す。「今回限りだ。内密に頼む」と言いながら。

「!!ちょ、ちょちょ、ちょっと待っててくれ!……おい、おいお前!!色紙!!!色紙出せ!!!」
「………」

何とも騒がしいことである。「そんなもんあるかい!」「ンだとー!」と妻と思しき女の声と店主の声が交互に響く。暫く待ってバタバタと戻って来た店主は「これに!頼む!」とペンと雑誌を手渡して来た。クラブが監修して発刊されている雑誌は『絶対的エース!ノエル・ノア!』と副題が刻まれた、自身の特集号だった。…うわ、とノエルは少しげんなりした。クリス・プリンスと違って、ノエルにナルシストのケはない。自分が映っている雑誌もポスターも、正直見るに堪えない。

きゅぽ、とキャップを外し、サラサラと慣れた手付きでサインを書きつける。特に飾り気もない、ほとんど筆記体でサインしているだけのものだが、手元に帰って来たそれを見て、店主は飛び上がるほど喜んだ。…彼が真実自分のファンだと分かるので、悪い気はしない。…しないが。



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