利己主義者Nの献身
- ナノ -


世界一の男には、愛に愛持つ嫁がいる




シーズンオフではあるが、次期シーズンに向けてフィジカルトレーニングを重ねていかなければいけない今の時期、練習は午前と午後、2部構成で行われる。シーズン中であれば午前だけ終わる場合もあるが、それでも午後に自主練を繰り返す選手は多い。午前の練習が終わり、午後のスケジュールについて協議する最中、ふと、ピッチの外に視線を向ける。

…は、と、ノエルは息を飲んだ。

遠く、ピッチを囲むフェンスの向こう。その先のベンチに座る、小さな姿。遠くからでも、シルエットしか分からなくても、確信する。この瞳を惹きつけて離さない、最愛。―――ノエルはそこに、過去の姿を幻視した。

再会して間もない頃。幼いカイザーの手を引いて、こちらを見つめている。風に靡く、今よりずっと短い、ショートカットのブロンド。美しく煌めくサファイアが、切なげに細められる様さえ、克明に思い出せる。晴れの日も雨の日も、凍えるような寒さの日も変わらず、彼女はこちらを見つめていた。……ずっと、見つめていた。

………昔の話だ。分かっている。ただ、過去に戻ったような感傷が胸に残る。

―――彼女がかつて、ノエルを捨てて去った時の感情まで、鮮明に、胸に残る―――。

「…ア?…ノア?どうした?」
「…あぁ、いや。何でもない」
「あまり根を詰めるなよ。ランチの時間だ、午後に向けて休んでおけ」

監督が、ぽんとノエルの肩を叩く。頷いて、チラリとベンチの外を見ると、シュネーは変わらずベンチに座っていた。何か用事か?と思いながら軽く汗を拭き、上着を纏う。携帯に、メッセージは入っていなかった。

「…ノアのくせに、シュネーの弁当を食うなんざクソ不遜。……そういや、俺も昼食まだだな。……腹減ったなぁ」

フェンスの外に出て歩いていたところで、聞こえて来た声。いつの間にやら、シュネーの元には一人の男がいた。一体どこから嗅ぎ付けたのか、その嗅覚が時たま恐ろしくなる。…何やってるんだアイツは。シュネーの弟であるカイザーは、彼女の片手にあるものにチラチラと視線を投げた。……ああ、やたら軽いと思ったら、やっぱり空だったのか、あれ。

であれば、これは当然ノエルのものである。カイザーに横取りされる前にと、ひょいっと掠め取る。姉弟は、同時にノエルに視線を向けた。淡いブルーのシュネーの瞳と、濃いブルーのカイザーの瞳。雪と氷を思わせる、似ているようで違う瞳。それでも並べば、やっぱり血の繋がりを感じずにはいられない。

U-20のチームは、隣のフィールドで未だ練習中だ。どっちが不遜なのか、練習を抜け出してきたらしいカイザーを軽く叱り付け、ノエルは無造作に、だが優しく、妻を抱え上げた。忌々し気な視線が刺さるが、知ったことではない。シュネーはカイザーの姉であるが、既にノエルの妻だ。献身の果てに漸く得た、自分の女だ。戦利品のように抱え上げて行くことに、躊躇いなど覚えない。

歩き出すと、シュネーは抱き上げられたまま、弟に声を掛けた。…お前がそうやって甘い言葉ばかり吐くから、アイツがいつまでもべったりなんじゃないか?…と、言いたいところではあるが、今はやめておこう。喧嘩になることが目に見えている。ノエルは賢明な男なのだ。

向かった先は、敵チームの戦術研究をしたり、会合で使われるミーティングルームだ。この時間帯、誰もいなあいので、ひっそり一人で過ごしたい時はよくここに来る。すとん、とシュネーを下ろして、礼を言う。わざわざ弁当を届けに来させてしまった、手間を詫びた。

「ううん。私が渡すのを間違えちゃったの。…ごめんね?」
「いや、お前の弁当が食いたかったから、助かった」

眉を下げて詫びるシュネーの頭を、ポンと撫でる。家に帰るまでの間逢えない筈だった妻の顔を見れたことは、ノエルにとっては望外の喜びだった。そこに、愛妻弁当までついてくる。文句など言えようもない。折角だから何か飲み物でも、と廊下に出て自販機の前に立つ。……シュネーは基本、紅茶派だからな。朝はノエルに合わせてコーヒーを飲むことも多いが、好きなのはたっぷりのミルクを入れた紅茶。

ちょこんと椅子に座って待っていたシュネーにそれを渡してやると「ありがとう」と頬が緩む。……流石に意識しなくても、妻の好きなものくらい分かる。ノエルに負けず劣らず、あまり表情の変わらないシュネーであるが、嬉しい時は頬が柔らかく色付く。…見過ぎだと、かつて戦友に呆れられたほど見据えているから、分かる変化かもしれないが。

隣に座って、パカ、と蓋を開ける。彼女がこよなく愛する日本食は、薄過ぎず、しかし運動に必要なエネルギーと塩分を賄える量と塩加減に調整されている。これは美味いな。初めて食べるが。美味い、と口にすると、どれ?とシュネーは弁当箱を覗き込んだ。これだ。すると、良かった、とシュネーは呟く。これはまた作って貰おう。

雑談を交わしながら、弁当を食う。そうか、ゲスナーとグリムに会ったのか。カイザーがやって来た理由が分かった。良かった、義弟が本当に姉の匂いに反応してきた正真正銘の犬じゃなくて。なんてカイザーが知ればキレ散らかすようなことを考えていると、シュネーがゴソゴソとカバンを探った。…見えたものに、ノエルは思い切り顔を顰めた。まだあったのか、それ。

「要らねェ」
「飲んでくれないと困るわ」
「要らねェ」

プイ、とそっぽを向いて拒絶する。シュネーが困っている気配を感じるが、ノエルは庭に撒けと言ったのに。彼女が取り出したのは『プリンス・ウォーター』というスポーツドリンクだ。以前、シュネーの発案で行うことになったBBQに何故かクリスが参加することとなり、その礼と称して後日送られてきたものだ。

嫌がらせだとしか思えない。まあ、事実そうなのだろう。ノエルに対抗心を燃やしまくっているあの男は、シュネーに余計なちょっかいを掛けるわ、カイザーを煽るわと、散々なことをしてくれた。…本人の前では取り澄ましているのだが、シュネーを相手にするとどうもうまくいかない。とにかく、嫌なものは嫌だ。ノエルは絶対に飲まない。

フン、と顔を逸らしたノエルに、溜め息を吐くシュネー。捨てるのは気が咎めるのか、律儀に飲んでいるらしい。……コイツが飲むのも何だか嫌だな、とちょっとだけ思った。

……そろそろ休憩時間も終わりか。チラ、と時計を見たところで、シュネーは「帰るわ」と立ち上がった。

送って行こう、と席を立とうとして、不意に視線を戻す。シュネーが座っていたところには、紙袋がぽつんと残されていた。そういえば、彼女が持っていたものだ。「忘れているぞ」と声を掛けると、彼女は珍しく焦燥を顔に浮かべた。口早に「ありがとう。…返して」と手が伸ばされる。…何だ?

「何でもないの。返して」

どうにも可笑しい。怪訝に思いながら、取りあえず届かないように手を高く上げてみる。するとシュネーはのノエルの胸元に縋り付くような格好になり、んー!と爪先立ちをした。……届くわけないだろうに。彼女とノエルでは、20cm近い身長差がある。更に手足の長さも相まって、どう頑張っても紙袋を奪うなど適わない。必死になっている様子が可愛く思えて来て、ついつい意地悪をしたくなる。

「…俺に言えないものか?」
「そうじゃないけど…、とにかく返して」

シュネーがここまで慌てるなど、ますます可笑しい。基本的に寛容で、隠し事など終ぞしない女なのに。ノエルは好奇心のまま、紙袋の中を探った。夫婦の間でもプライバシーはあろうが、怪しいことこの上ない。…ガサリ、と音をさせ、中身を取り出す。……そして、固まった。

現れたのは、ノエルの背番号である9番が刻まれた、バスタード・ミュンヘンのロゴが入ったタオル。
バスタード・ミュンヘンのレギュラーメンバーの載った選手名鑑。次いで、来年のカレンダー。
―――極めつけは、これだ。………ノエルのプレイ中の姿を映した、ブロマイド。

「……?……これ」

……まさか、買ったのか、これ?

「……お前、」
「………」

シュネーは、無言だった。何も言わぬまま、上げていた踵をストンと下ろし、両手で顔を覆う。……その耳が、みるみるうちに真っ赤に染まる。まるで煮込んだトマトのようだ。じわじわと、広がって行く赤み。遂には首筋まで、服に隠れていない部分は全て染まり上がった。肌が白いせいで、その肌が桃色を帯びていることがよく分かる。

そういえばこんなものが発売されると、マネージャーに言われた気がする、と遠い記憶を呼び覚ます。…でも、だからって。……それを自分の妻が買うだなんて、流石に予想外に過ぎる。

だが。

……拙い。……顔が、……顔が緩むのを、抑えられない。

「……ふ、」

嗚呼、なんて。

なんて。

ノエルは、シュネーの手首を取った。力を込めれば折れてしまいそうな細い腕。顔を覆う手を引き剥がすと、その顔がよく見えた。これ以上ないほど赤くなって、頼りなげに眦を下げて、ノエルを見る目は、潤んでいる。

「………案外可愛いことをするな、お前」

―――なんて、可愛らしいことか。

追い詰めるように、トン、と壁際に身体を押し付ける。……嗚呼、この女は。普段は冷静に振る舞って、恥ずかしがって、愛の言葉の一つも満足に言いはしないのに。その行動で、示すことすらしないくせに。…案外、いや、きっと、ノエルが思う以上に。

「………知ってたが。……俺以外の前で、そんな顔するなよ」

―――俺のこと、好き過ぎるだろう、コイツ。

それはきっと、自惚れではない。嗚呼、拙い。……ダメだ、もう、………我慢が利かねェ。

ノエルは、激しい渇望のままに、愛しい女の唇を奪った。児戯のような、挨拶のキスではない。呼吸さえも、微かな吐息さえ全て飲み込むような、嵐のような口付けだ。んん、と鼻に掛かった声が、ミーティングルームに落ちる。は、と息継ぎをしながら、もう一度、もう一度、と角度を変えてその甘やかな口唇を味わう。砂糖菓子みたいに、途方もなく甘美だった。

……だからダメなのだ。

シーズン中、ノエルは己を厳しく律し、取り決めていることがある。『次の日に試合が控えている日は、シュネーと共寝をしないこと』。何だそれは?と思われるかもしれないが、重要なファクターだ。だって、そうだろう。愛しい女と共に寝て、抱き締められずにいられるか。抱き締めて、キスをせずにいられるか。―――…抱かずに、いられるか。否、否だ。出来るわけがない。

だからノエルは、その要因を取り除く。極めて合理的に世界一であることを己に課しているノエルは、試合に集中出来なくなる可能性の芽を許さない。…ただ、彼女だけ。シュネーという最愛だけが、鋼鉄の意志を持つノエルをいとも容易く揺らしてしまう。本能を揺さぶり立て、冷静さを奪って、合理性の欠片もない、退廃的な思考にさせてしまう。

こうなってしまえば、世界一の男も形無しだ。―――愛しい女の愛を乞う、愚かな一人の男に成り下がる。

まあ、……それでもいいかと思わされてしまうところが、愛という名の感情が持つ、一番恐ろしいところだった。

「……ノエ、のえるっ……!だめっ…!」
「……ダメ、か。小せェガキを叱る時みてーだな」

ふ、と笑みを零して、無遠慮にシュネーの身体を弄る手は止めない。自分だけが知っている、彼女の弱いところ。触れると敏感に、華奢な身体が揺れる。まるで幼いカイザーを叱っていた時のような文言を吐かれても、昂ぶるばかりである。…一度も言ったことはないが、行為の最中にダメ、と言われると、ノエルは燃える性質である。そう、本当に余談だが。

もっと奥まで、と舌を口内に侵入させ…ようとしたところで。

「…って」
「………怒るわよ」

頭が後ろに引っ張られる感覚に、僅かに首を仰け反らせる。見下ろしたシュネーは、青い瞳を吊り上げてノエルを睨んでいた。…正直全然怖くない上に、寧ろ興奮するだけなのだが、ふーと息を吐いて熱情を散らす。確かに、ここは公共の場だ。いつ誰が来るとも知れない場所で欲望のまま襲っては、ノエルしか見ることの許されない姿が衆目に晒される危険もある。それはナンセンスだ。

「……今日は早く帰る」

口の端に残った余韻を舐め取るように、舌で唇を撫でる。その意味を理解したのか、シュネーの顔は再びカッと赤く染まった。むう、と頬を膨らませ、ぺいっと腕が跳ね除けられる。…少し調子に乗り過ぎたか?足早にミーティングルームを後にして、出入り口へと向かうシュネーの背を追い掛ける。送ると言ってるのに。

…歩調は荒いが、まあ、怒っているわけではあるまい。アレは彼女の照れ隠しである。その証拠に、未だに髪から覗く耳は赤い。…良い気分だ。くつくつ、とノエルは咽喉を鳴らした。弁当を届けに来てもらうのも悪くない。

……そこまで考えて、ん?と気が付いた。

そういえば、どうやってここまで来たんだ、コイツ?

「………」

問うた言葉に、返るのは沈黙ばかり。……まさか。

「おい、黙るな。何か言え」
「………」

ノエルは確信に至り、今度は顔を青褪めさせた。美しく、慎ましやかにして堅実、優しく愛情深い、最高の女であるシュネーにも………欠点はある。………思い出したくもない、最悪の記憶。

「明日マネージャーに迎えに来させる。お前の車は俺が乗って帰るから、キーを渡せ」
「………」
「無視するな。おい、シュネー」
「………」
「電車で帰れ。合理的に行くべきだ。分かるな?」
「………」

コイツ、こういう時ばっかりカイザーみたいなガキっぽさ出しやがって…。ノエルは心の中で舌を打った。……考え得る限り、最悪の事態。どうすればこの利かん坊に言うことを聞かせられるのか、必死に思考を巡らせる。

………まあ、惚れた弱味というヤツで、勝てた試しなど、ないのだが。



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