利己主義者Nの献身
- ナノ -


概念の崩壊という名のディストピア



―――概念というものが崩壊した日があるか、と問われれば、ノエルは間違いなくイエスと答える。そしてその日がいつかということも、明確に言語化出来る。


「おかえりなさい、ノエル」
「………」

ガチャリとドアを開けて、物心ついてから何度も繰り返した、何の感慨を湧かない動作で自室へと足を踏み入れる。ただ、眼前に広がる光景だけは、ノエルの記憶にあるものと違った。

ノエル・ノアは先だって、二人の兄弟を拾った。まあ、ノエルが兄弟と思っているだけで、実際は姉弟なのだが、それはこの際置いておこう。北に位置し、寒波が極まるフランスの冬を乗り越えられるだけの備えが全くない様子の二人を見るにみかねて、自宅へと招き入れた。ノエルとて人を養えるだけ生活が潤っているわけでもないが、物欲が薄いせいでファイトマネーはほとんど生活費として消えて行くので、多少の蓄えはある。コイツ等がきちんとした国の支援を受けるまで、何とかなるだろうという目算の元、始まった共同生活。

細かな変化はあるが、大きく分ければ、一人暮らしの時との違いは二つ。―――一つ目。生活環境の、劇的な改善。

おかえりと言って微笑んで来るシュネーを見て、ノエルは暫しぽかんと固まった。……部屋が。…部屋が、綺麗になっていた。ぼんやりと薄暗い切れ掛けのライトは付け替えられ、玄関や部屋の隅に鎮座していた虫の死骸は姿を消し、張り巡らされていた蜘蛛の巣も視界の端に掛からない。ボロボロのタイルことそのままだが、廊下も磨かれているようで、汚れは見えなかった。

驚きは続く。生活の全くなかったリビングは、僅かにあった家具や物を整理して置いているためか、整頓された印象を与える。トイレも、風呂も、シンクも同様だった。特に、シンクは劇的だった。錆びだらけだった筈なのだが、ピカピカと光沢を放っている。何より。ささくれが目立っていたテーブルに掛けられた、シーツを代用したのだろうテーブルクロスの上には、ほかほかと湯気を上げる料理が並べられていたのである。

部屋に入った途端鼻腔を擽った、馥郁たる香りはこれか、とようやく合点がいった。

「これ、どうした?」
「ノエルがくれたお金で買ったの。調味料とか…あとお皿も。勝手にごめんね」

…勝手も何も、やったのだから好きに使えばいい。だが、あれは服とか、そういった類の彼等の生活用品を買えという意味で渡した金で、食材を買えという意味で渡したものではないのだが。ノエルのなけなしのへそくりが、意図せず食事に代わってしまった。……言葉を省略した弊害だろうか。

真面目だなコイツ、と思いながら、部屋の中に視線を走らせる。まるで自分の家ではないようだ。だが、そんな観察もカンカン!という金属音に遮られる。音の方を見ると、ミヒャエルがスプーンをテーブルにぶつけながら、ノエルを睨んでいた。

「ん!」
「?…何だ?」
「……ん!!!」
「だから何だ」
「……ん〜〜〜〜〜っ!!!!!!」

カンカンカン!と音が強くなる。シュネーは困ったように眦を下げた。

「いただきますしてって言ってるの」
「はぁ?」
「ノエルが帰って来たらねって言ったから、待ってたんだよ。お腹空いているの」

カンカン!と苛立ちを示すようにスプーンをテーブルに打ち付けるミヒャエル。こら、お行儀悪いよ、とシュネーに窘められて、恨めし気にノエルを見て来る。…何で俺が睨まれなきゃいけないんだ。お前が行儀の悪い振る舞いをしたのが悪いのに。お前のせいだと言わんばかりの目に、はあ、と溜息を吐く。ノエルがスプーンを手に取り、食事をする姿勢になると、シュネーもそれに倣った。

「Bon appétit(召し上がれ)」
「!」
「……っていうんだよね?」

フランスには、食前に言葉を掛ける文化はない。いただきます、やご馳走様、と日本独特の文化なのだ。代わりに食前の祈りをしたりする者もいる。正確には召し上がれ、ではなく、食事を楽しんで、という意味に近しい表現であり、こんな風に共に食事をする投げかけたりする。何処で学んだのか、知り得た知識を披露して少し自慢気な様が小さな子供のようだった。だが、生憎と、ノエルのは通用しない。

「知らねーが、そうなんじゃないか?」
「違った?」
「言われたことないからな」
「………そっか」

そんな言葉を掛けて来るようなレストランで食事をしたこともなければ、物心つく前から手料理を振る舞われたこともない。ノエルには縁遠い言葉であった。淡泊なノエルの反応にシュネーは一瞬寂しそうに瞳を伏せてから「口に合うか分からないけど、食べて」と微笑んだ。

「………」
「………」
「…………ど、どう?」
「………多分、…………美味い?」

多分って何?と首を傾げられるが、本当に分からないのだ。味に対する嗜好などなく、ただ腹を満たすという生命活動の一部だとしか思ってなかった。…それをいきなり、批評をされても困る。「……今まで食べたものの中では、一番美味い。……気がする」なんて曖昧な表現をして憮然としてもぐもぐと口を動かす。シュネーは目をぱちくりさせた後、くすっと笑った。……何故笑われているのか。

「不味くないなら、良かった」
「………」
「ミヒャ、美味しい?」
「おいしい!!!」
「そっかそっか」

………ミシェルは美味いと言ったんだろうな、と己の言語化能力が三歳児に負けていることに、少しだけ複雑な心地になった。

それからというもの、家に帰ると年下の可愛い女の子が美味しいご飯を作って出迎えてくれるという日々が始まった。チームメイトに零せば「爆ぜろ!!!」と言われかねない状況にいるというのに、シュネーのことを男だと思っているがゆえに、「料理上手いなコイツ」程度の感想しか抱いていない男、ノエル・ノア。

―――知らず知らずのうちに胃袋を掴まれている彼にとっての転機は、突然訪れた。

「………」
「………」

金属音だけが静かな空間に響く。相変わらず、普通の者であれば極限に気まずいと思うような環境下でも、親方はともかく、ノエルは何の感慨も抱かずに黙々と仕事をこなす。元々一人親方で下請けとして整備の仕事を請け負っているこの工房では、人手が足りない時期だけ人足を募る。これも、賭け試合から始まった縁だ。

体力と真面目さは折り紙付きだと胴元に紹介された少年は、それはもう吃驚するほど不愛想だった。何度言っても敬語は上手くできないし、歯に衣着せぬ物言いも凄まじい。だが、クスリには決して手を出さぬ実直さを買って、親方はノエルを雇い続けた。かれこれ二年……短くない期間だが、不器用同士、プライベートな会話も一切せず、こうして雇用関係は継続されている。

ほらよ、と投げ渡されたセント硬貨をキャッチして、ポケットに突っ込む。これで今日の仕事は終わりである。試合もないから、時間が空くな…適当に飯を拾うか、と工場の外に出る。すると、出入り口前の路上できょろきょろと挙動不審な人物を発見した。見慣れた金髪、小柄な体躯。間違いない、同居人の少年だった。

「シュネー?」

声を掛けると、ぱっと碧の瞳が瞬いて、ノエルを捉えた。次いで、ぱあぁ、と擬音が聞こえそうなほどにその瞳が輝きを帯びる。ぱたぱたと走り寄って来る様は、先だってチームメイトが評した通り、仔犬のようだ。仔犬…もといシュネーはノエルの前まで来ると「もうお昼食べた?」と問うてきた。

「いや、まだだ。今日はもう終わったから適当に…」
「良かった。…はい、これ」
「?…シュネー、」
「私、すぐに戻らなきゃ。…じゃあね、ノエル!お仕事頑張ってね!」

ぽてん、と差し出された包みを反射的に受け取る。何だこれ?と疑問を音にする前に、さっと踵を返してしまうシュネーのなんと素早いことか。おい、と見えなくなっていく背にやっと声を掛けるが、本当に急いでいるらしく、あっという間に走り去ってしまう。転ばなければいいが…と何処か抜けている少年の心配をして、包みに視線を下ろした。昼時。昼飯は食べたかという質問。わざわざ仕事の合間に、シュネーがノエルの仕事場を訪れた理由。……そこから導き出される解は。

―――……弁当?

「………」
「…あん?お前、まだいたのか。………なんだそりゃ?」

ぼうっと突っ立ったままのノエルを外出しようとしている親方が見咎める。それすら意に介さず動きを停止させていると、抱え込んだ包みを覗き込まれる。…瞬間、ノエルは意識を浮上させ、誰も盗ったりしないのに無意識のうちに包みをさっと背後に隠すようにして「何でもない」と足早にその場を後にした。愛想のないガキだ、ともはや聞き慣れてしまった雑言も、もう耳に入って来ない。

……弁当。終ぞ、縁のなかった単語。家庭料理すらそうだったのだから、お弁当だって言わずもがなだ。未知の領域。戦利品を隠す動物のように人気のない路地裏へやってきたノエルは、柄にもなく少しドキドキしながら包みの布を解いた。すると、中身はアルミホイルに包まれていたので、更に開く。中に入っていたのは、ノエルにとっても馴染み深い、バゲットのサンドイッチだった。

「………」

…なんだか、拍子抜けした、というと失礼かもしれないが、少しほっとした。どんなものかと身構えていたからこその、良い意味の安堵。…まあ、当たり前だといえば当たり前だ。弁当箱を買う余裕があるならその金を貯めて衣服に充てた方が良いという吝嗇を体現している家計では、手の込んだものなど作れないのだから。

カサリとアルミホイルが音を立てる。大振りなパンに挟んである具材は、タマゴがメイン。そっと口に運んで、味を確かめるように咀嚼する。…シュネーの味だ、と思った。考えるより先に、そう思ってしまった自分にも驚く。味になんて興味なかった筈なのに、これがあの少年の作る味だと認識してしまうくらいには馴染んでしまった。

「………」

……美味い。多分でもなく、本当に。空腹を訴えていた胃袋が落ち着くまで、無言で食べ進めた。何処にでもあるような何の変哲もないバゲットなのに、特別だった。どこがどう、と言語化できない己に戸惑う気持ちもあるけれど。

何処か満ち足りた気持ちで、午後の仕事に向かう。食事が楽しみになったのも、帰路に着くことが無為ではなくなったのも、意識するまでもなくいつの間にかだった。…大事に折り畳んだ布をポケットに入れて、家に帰れば、第一声は決まっている。きっと「おかえり」と言って出迎えてくれるから、ノエルは「ただいま」と返す。そして「美味かった」と言うのだ。……いつもこちらを窺うように味を気にするシュネーに、そう言わねば。…ミヒャエルのように、今度こそ。

だが帰ってみるとシュネーとミヒャエルはリビングにはおらず、きゃっきゃきゃっきゃと楽しそうな声が浴室から聞こえて来ていた。…どうやら、風呂に入っているらしい。……慣れつつあった笑顔が出迎えてくれないことに物足りなさを感じながら、まァいいか、感想は後でも…とソファに腰を下ろした。

ノエルは待った。手持無沙汰になりながらも、待った。………長い針が半周回るほど、忠犬のように待った。知らない者が見れば、微動だにすらせず座り続けている少年をロボットだと勘違いしてしまうのではないかという不動さで、ひたすらに待っていた。

「……長いな」

更に時を重ねてようやっと、いやに長風呂だな、と思い至った。この家には、バスタブと呼べるような高尚なものはない。あるのシャワーと、先日シュネーが購入した、人が半浴出来る程度の大きさのタライくらい。かれこれ三十分は経っているが、いつまでも二人は出て来ない。ノエルの腹が、ぐう、と鳴った。

……人間とは不思議なもので、今までは胃に入れば何でも一緒と、嗜好も食への興味もなかったノエルですら、一度美味い飯というものを知ってしまえば、それ以下では満足できなくなるものだった。家庭料理というものを知らなかったノエルにとってはシュネーの料理がそれに当たり、その他の選択肢を無意識に除外してしまうくらい深層心理を侵食しているようだった。―――人、それを胃袋を掴まれるという。

廊下に放置してある買い物袋を見るに、何かを作ろうとしているのは間違いないだろう。…今日は何だろうか、と思考を巡らせる前に、はた、と停止する。……まさか、風呂場で倒れているわけではないだろうな…という想像が擡げたのだ。兄の方は見るからにひ弱そうで、弟の方は身体が弱いそうなので、どっちにしても気の抜けない兄弟なのだ、彼等は。

ノエルは腰を上げた。まあ本当にまさかだろうが、様子を見に行ってみよう。腹が減ったまま待たされるのは嫌だが、風呂場で傷病人を量産されるのはもっと御免被る。心配二割、といった割合で風呂場を目指し、無造作に脱衣所へ続く扉を開け放って―――……

―――……絶句した。

「おい、シュネー?いつまで…………は?」
「きゃっ」

シュネーの、声変わり前の少年といった風情の、高い声がする。眼前に広がる光景に、ノエルはチームメイトには見せられないようなポカンとした間抜け面を晒していたと思う。

…水気を吸って重厚さを増しているブロンド。風呂上がりのせいで、上気した頬。弟の髪を拭ってやっている体勢だったせいか、彼女の方は一糸纏わぬ状態で、真実無防備だった。


―――そう、……"彼女"は。


男にしては白く、華奢な体躯。すらりと伸びた両手足……そして、ささやかではあるが、男には決してない膨らみを帯びた胸。……反して、股座には、男にはあるはずのものが、ない。……処理しきれない情報量に、ノエルの脳内は一瞬にして飽和した。

慌てて弟の頭に被せていたタオルで胸元を隠すが、そんなフェイスタオル一枚で全身を隠せれば世話はない。思考停止をしているからこそ、凄まじく無遠慮な視線を具に浴びせかけていたのだろう、シュネーの白皙の頬がかあぁ、と色付いていく。身体が、湯を浴びたことを置いても、淡いピンクに色味を帯びる。…その様は、少女とは思えないほど、得も言われぬ艶麗さに満ちていて、ノエルは知らず咽喉を鳴らした。

「………」
「………」
「………」
「……あの、」
「………」
「……のえる………?」

泣きそうな、震える声。過敏になっている神経が、それを捉える。

「………」
「……あの、………あんまり、見ないで……?」

消え入りそうな、蚊が鳴くみたいに震えた声音を聴覚が認識した瞬間、ようやく飽和していた脳内が覚醒する。ノエルは悪い!と一声言うと、ぴしゃ!!!と壊れそうなほど乱暴にドアを閉めた。

リビングに向けて、よろ、と壁伝いに歩く。ドキドキと、痛いくらいに動悸がする。フットボールの試合でだって、こんなに心拍数が上がったっことはない。発刊機能に異常を来したのではないかとという勢いで、汗腺から汗が噴き出る。顔が熱い。…ノエルはそのまま、ずるずると壁に寄り掛かって腰を下ろした。

ビックバンというべきか、アルマゲドンというべきか、はたまたアポカリプスかカタストロフィーか。少年の心情を表すべき言葉は、どれも適切であって適当ではない。


……
…………………アイツ、………
…………………………………―――…女だったのか。


今更、本当に今更かもしれない。だが、確かに思い返してみれば、シュネーは一言だって自分の事を男だとは言っていない。ミヒャエルのことを弟と呼んだが、本当にそれだけだ。だから、偽られたわけでもなければ、騙されたわけでもない。……ノエルが、勝手に勘違いしただけだ。

気付いてしまえば、納得はする。男にしては線も細いし、声だって高くて、身体も華奢だ。だが、弁明させてもらえるのならば、スラムには栄養の足りていない子どもは山のようにいたし、第一、性別が確定している弟があれだけ愛らしいのだ。…あくまで外見だけは、だが、幼女と見紛う愛嬌のある顔貌をしている。態度は生意気だし偉そうだが、外見だけは天使のような愛らしさを誇る子どもの兄だって、あれだけ綺麗で男だと思っても、違和感などないではないか。………いや、全部、言い訳だというのは自覚しているけれども。


おんな、………女……、……おんな?

もう、ゲシュタルト崩壊を起こしそうだ。…伝えようと思っていた弁当の感想なんて、それこそ完全に、頭からすっぽ抜けていた。


日本の子どもは、精神的に早熟だと言われている。ませていると言い換えてもいい。アニメや漫画の影響で、幼い頃から情報媒体が身近にあることで、性的な発達も早いのだ。…いくら大人びて、売春などが横行している街に生き、それなりに耳年増だったとしても、ノエルとて若干十四歳の少年だ。サッカーに関すること以外で感情を揺らさない、植物のように凪いだ内面をしている彼に衝撃を与えたのが、少なからず特別視している、年の近い美しい少女であったのなら、尚更で。

…瞼の裏から消えない、白い肌。煩悶としながら脳内からそのイメージを消そうと躍起になるが、中々どうして焼き付いたものは剥がれてくれない。ノエルはシュネー達が脱衣所から出て来る前に、ようやっとふらつく足取りでリビングへと移動した。

「ノエル、遅くなってごめんね。すぐご飯作るから」
「……あぁ」

着替えて戻って来たシュネーは、そそくさと料理の支度を始める。次第に部屋中に広がる匂い。ぼーっと座り込んだまま、ちょこんと床に座って何かを紙に描き始めたミヒャエルを見る。

「……何してる、ミシェル」
「?」
「………なに、してる?」
「…!…おえかき」
「………そうか」
「―――、―――――」
「…そうか」

ミヒャエルは、未だ片言のドイツ語しか話せない。なので当然、ノエルがフランス語で話しても理解出来ない。だが、何となく英語のニュアンスは伝わるみたいなので、ゆっくり区切れば答えは返して来る。おえかきと言ったのは分かったが、続く言葉はよく分からなかった。取り敢えず適当な相槌を打つと、何故かふん!と勝ち誇られた。意味が分からない。

???と相変わらず徹頭徹尾理解不能な幼児の反応に首を傾げていると、シュネーが料理を運んで来た。鼻腔を擽る、トマトの匂い。「ほら、お片付け」と愚図るミヒャエルを促して、テーブルの上を片付けさせると、手際よく料理が並べられる。頃合いを見計らって、ノエルはじっと食事の作り主を見つめた。これだけは、機を失する前に言っておかねば。

「……さっきは、悪かった」

多くの含蓄がある言葉だった。単なる謝罪では済まない。ノックをしなかったこと、風呂場を覗いたこと、あろうことかその裸身をまじまじと見つめてしまったこと―――何より、出逢ってからずっと、男だと思っていたこと。ノエル・ノア、生まれて初めて、心底から悪いと思っての謝罪である。言外に含まれた意味を解したわけではないだろうが、シュネーは。

「う、ううん。大丈夫…私こそごめんね」

その真白い頬を愛らしく染めて、下を向いた。?と疑問符を浮かべる。ノエルが謝ることがあっても、彼女に謝られる理由など見当もつかないのだが。…まあいいか、と深く考えることをやめる。許されたと、安堵した。だからこの話は終わりだと言わんばかりに食事を始め、舌と胃を満足させたのだが、終わりだと思っていたのは表面上で、深層心理のノエルはそうは思っていなかったらしい。

嫌と言う程思い知ったのは、暗闇の中。真夜中―――眠りに落ちた後。


―――その夜、ノエルは、夢を見た。


今よりも少し髪が伸びて、ワンピースを着て、誰が見ても女だと分かる愛らしさを振り撒いて、こちらを見て笑う少女―――シュネー。ノエル、と彼女の唇が名前を音にする。目の前に立った少女は頬を染めたまま、しゅるり、と胸元のリボンを解く。

そのまま、ぷちり、ぷちりと、しなやかな指先がボタンを外して、細い鎖骨が露になっていく。おい、と止める間もない。上目遣いの瞳が、何とも蠱惑的で、コケティッシュで……。恥ずかしさに頬を染めながらも、遂にワンピースが足元にするりと落ちた。

「…ノエル」

「―――………」


「……っ!!!!!!!!」


ガバッ!!!と毛布を跳ね除ける勢いで、上半身を起こす。見渡すと、部屋の中は暗く、未だカーテンの間から光も漏れない、明け方のようだった。……夢か。自分の声が、誰もいない空間に落ちる。反響する音でその意味を咀嚼して、右手で顔を覆った。………なんて夢を見てるんだ、俺は…、と己が信じられない。…そして気が付く、毛布の膨らみ。!!!!と意思とは反した…いや、寧ろ応じているからこそかもしれない、自分の肉体の挙動に更に衝撃を受ける。そのまま、深い深い沈黙が落ちた。

どうすればいいのか。―――……どうするも何も。………こうするしかあるまい。

「………」

その日、初めてノエルは、セルフプレジャーというものを味わった。…プレジャーとは名ばかりの、後悔と罪悪感だけが残る朝を、きっと一生忘れない。


「………」

ノエルは、ぼうっと空を見つめて黄昏ていた。仕事が終わった今、さっさと家に帰ればいいものを、そう出来ない理由があった。生まれてこの方抱いたことのない、奇妙な動悸と、不整な感情の起伏と、体温の上昇。…その原因は全て、一人の少女に帰結する。先だっての衝撃的な事実の発覚を経て、更には罪悪感を刺激する行為の後ろめたさもあって、居心地が悪い。

生来の鉄面皮のせいかお陰か、同居人である少女がモヤモヤしてしまうくらい通常運転かと思われていたノエルも、きっちり不調を来していたのだが、如何せん外見に現れなければ無いのと同じだ。無為に時を過ごすこととは無縁の筈の少年は、今まさに時の流れにただ身を任せ、はあ、と溜め息を吐いた。

「よー、ノア!こんなところで何してんだ?ヒマそーだな」
「……お前か」
「ぼーっとしてるなんて、珍しいじゃん」

軽く手を上げて掛けられた軽快な声に顔を上げる。チームメイトの少年はノエルの前に立つと、ノエルが口を開く間もなく「そーいえばよー、聞いてくれよー」と勝手に話を展開し始めた。…いつものことだ。この少年はお喋り好きで、寡黙なノエルとは対照的に、こちらが黙っていても一人で喋っている。普段は鬱陶しいが、今はこんなヤツの軽口でも気が紛れるな、と失礼なことを思いながら、話を聞き流す。

「あ!そーだ!!…つーかお前、ウソ吐いたろ!!」
「は?」
「あの激マヴちゃんのこと!!やっぱ女なんじゃねーか!男だなんてウソこきやがってこのやろー!」
「…あれは、………」
「何だよ!」
「………何でもない」

まさかあの時は本気で男と思っていた、なんて間違っても言えるわけがない、とノエルは口を閉ざした。どー見ても女だと思ったんだよ!と言われれば、尚更言えない。……そうか、どう見ても女なのか……。じゃあ、僅かでも疑問に思わなかった自分は何なのだろう。裸を見てようやく気付いたくらいなんだが…、なんて言えば、バカにされるのは火を見るより明らかだった。ので、取りあえず黙っておく。

「どーせ女だってバレたら危ねーからって理由なんだろうけどよ!せめて俺には言えよな、内緒にしてやっから!」

…………良い案だな。そういうことにしておこう。

「…デカい声出すな」
「おっ、悪ィ!………そっかー、そうだよなー。あんな可愛い子に付いてるわけねーよなぁ」

何かに納得したように、うんうんと頷くチームメイト。……確かに付いていなかったな。…何がとは言わないが。次いで、ノエルはぶん、と頭を振った。………思い出すのはやめよう。精神衛生上良くない。

「…変な目で見るなよ」
「分かってるよ。いくら俺でも、ダチの女にゃ手は出さねー」
「………」

…別に、ノエルの女では、ないのだけれど。…まあいいか、と深く考えるのをやめた。安全的な意味でも、男の振りをさせていた方がいいかもしれない。当のシュネーは、男装していたつもりはないかもしれないが。そこでふと、疑問に思ったことを口にする。

「お前、何で分かったんだ?」
「あん?…あー、あの子の弟がしゅべすたーって呼んでたからさ。どういう意味かなってアニキに聞いたら、お姉ちゃんって意味だって言ってたからよ」

……そうだったのか。あの呼び方は改めさせた方がいいな。コイツの言うアニキというのは、血縁関係がある者ではなく、彼は世話になっている兄貴分のことだった。ノエルも面識があるが、スラム街にいる大人の中でもまともな教養がある方の人物だった。確か、出身はドイツ。考えてみれば、多国籍の人間が集うこの街ではそういう来歴の者も多くいるわけで、当然シュネー達の母国語だって分かる人間がいるだろう。…呼び方か…、盲点だった。

「まーでも超羨ましいぜ!可愛い女の子と一緒に住んでてよー。ぶっちゃけ、どうなわけ?」
「どうって…料理は美味いな。家事も卒なくこなすし、正直助かってるが」
「爆ゼロ」
「はぁ?」

クソムカつくぜ!と言われて???とはてなを浮かべる。何故怒られているのか分からない。相変わらず意味の分からないことばかり言うヤツである。ったく、これだからイケメンは…とぶつぶつ言いながら、少年はお、と何かを閃いた。ゴソゴソとポケットを探り、ノエルにん!と手を出すように促す。

「?何だ?」
「良いモンやるよ、ノア。ほれ、手ェ出せ」
「?」

言われるがままに差し出した掌の上にぽんと置かれる、小さな正方形の塊。……ノエルの知識の中にも、当て嵌まるものは一つしかない。ジト目で見ると、少年はしたり顔をした。

「避妊は大事だぜ?」
「………」

要るか!!とノエルは無言のまま、ソレを地面に叩き付けた。

「あーー!!何すんだよ、折角分けてやったのに!無責任な男だな!」
「余計な世話だ」
「いいからほら、持っとけって!いつか俺に感謝する日が来るぜきっと!」

だから別に、アイツとはそーいうんじゃない。…と言ってしまえば簡単なのだが、言ったら言ったでコイツが余計なアプローチを掛けそうなので、言うに言えない。無理やりポケットにねじ込まれたソレに、ノエルは憮然とした顔をした。本当に余計なお世話である。せめてもの反抗として、少年のハートにクリティカルヒットする言葉を投げることにした。

「第一お前こそ、相手いないだろ」
「ウルセーーー!!!それを言うなそれを!!!!」

相手を煽ることに掛けては、ノエルの言葉選びも天性のものなのかもしれない。スラム街に、少年の声が虚しく響いた。


……全く、面倒なのに絡まれて時間を無駄にした。ようやっと帰宅を果たしたノエルは、玄関で靴を脱ぎながら溜め息を吐いた。あれは本人曰く恋多き男であり、色んな女に惚れてはフラれてを繰り返している。今までは呆れて見ているだけだったが、シュネーが女だと発覚した以上、注意してやらなければ。………まァ、現時点ではノエルの女だと誤解させておく方がメリットがありそうだ…なんて考えながら、無造作にリビングに通じる扉を開ける。

「あ、おかえり、ノエル〜」
「…ただい、……………?!?!?!?!??!?!?」

ただいま、と同居人が増えてから、自然と口に出来るようになった言葉の一つを口の端に乗せようとして、続く音を失う。

「何してる?!」

すかさず再起動して、バっとシュネーの手からそれを奪い取る。見間違えもしない、ありふれたデザインの布切れ。世間ではそれを、下着と呼ぶ。ノエルは羞恥やら衝撃やら困惑やら、入り乱れた感情を押し殺し、掌の中のものを握り締めることで発露させた。シュネーがこてりと首を捻る。

「どうしたの、ノエル?」

……どうしたもこうしたも、お前…。…反論しようとして、口を閉じる。呼吸を求める魚みたいな仕草を一挙動して、結局沈黙を選んだ。

「パンツ返して?干すから」

手を差し出して、あっけらかんと言われた言葉。………だって、あまりにも通常運転だ。

シュネーは同年代の異性…そう、異性だ。異性の下着を手にし、選択して干すことに何の感情も抱いていないようだった。事もなげな様子で、何故邪魔をするのかと言いたげで。意識しているのはこちらばかりか…と思うと、なんだか、ノエルの方が自意識過剰みたいだ。羞恥が募る。

「………………自分で干す」

何とかそれだけを絞り出して、釈然としないものを感じつつ、タライの中にある己の衣服を手に取った。…思えば、いつの間にか任せきりになっていた。シュネーは手際よく家事をこなして、ノエルが留守の時に粗方済ましてくれているから、それに胡坐を掻いてしまっていた。こうなっている原因の大元はノエルに違いないのに、今更勘違いが発覚したから戸惑っている、なんて遅きに失している。自己嫌悪に似た感情に苛まれながら視線を上げ―――……再度、フリーズした。

「…?ノエル、どうしたの?」

シュネーは、ノエルが洗濯物を奪ったので、次の洗濯物を手にしていた。真白いそれは、ノエルが使っているものとは全く違うデザインの下着。思えば、こういうところにも片鱗はあったのだろうに、全く気付かなかった過去の自分をタコ殴りにしてやりたい気持ちでいっぱいだった。その服の下に隠れた、余人の目に触れることが叶わない、それ。

ノエルの頭に、今朝夢で見たばかりの少女の姿が再生される。

清らな瞳にノエルを映し、対して纏う雰囲気だけは何処か淫靡で、唇が弧を描く。指先が、自らの胸元をなぞり、今度は両腕が迎合するように開かれる。目が覚める直前の、脳髄を焼くセリフまで、鮮やかに蘇る。



"―――……恥ずかしいけど、……ノエルになら……、見せてもいいよ……?"



「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!!!!」
「きゃ!?」


ガツン!!!と凄まじい勢いでドアに頭突きをかまし、脳内を侵食しようとするイメージを霧散させる。

―――シュネーはそんなこと言わない。

スリスリ、とノエルの額を撫ぜる指先。水仕事をしているからかあかぎれて、お世辞にも滑らかとは言い難いが、触覚がそれを認識した瞬間、ノエルの頭は瞬間的に茹った。近い。身長差のせいで上目になったシュネーの、長い睫毛の一本一本すら視認出来る距離。負傷部位を気にしている為に目は合わないが、至近距離で見るとその瞳はやはり宝石のように綺麗だった。

シュネーが何事かを言っているが、少しも頭に入って来ない。じ、とその白い首筋に、勝手に視線が走ってしまう。そして沈黙ののちに、もう一度伸ばされそうになった手を反射的に掴んだ。これ以上は不味い。勘弁してほしいという意味合いでの牽制だったのだが、悪手であったと気付いたのは、力を入れてしまえば折れてしまいそうなくらい嫋やかで、肉体の構造からして自分とは違うのだと強く認識させるには十分な細い手首の感触だった。


……
……………限界だ。……………ノエルは、思考を放棄した。

「走って来る」
「えっ?」
「走って来る」

言うが早いか、くるっと踵を返し、虚を突かれたようなシュネーを置き去りにしたまま玄関に向かう。手早く靴紐を結んでいると「ノエル?」と名前を呼ぶ声がするが、後ろを向いてその瞳を真正面から見据える余裕さえ、今のノエルには既になかった。…もう、この雑念を払う方法を、思考に割く余力がなくなるまで走り込むことにしか見出せない。

「先に食ってろ」
「のえ、」

重たい音を立てたドアが、二人を阻む。―――ノエルは、寒空の下に足を踏み出した。


走って、走って、走り続けて。
周りの景色が飛んで、寒さに咽喉が焼けて、身体が熱くなって冷気を感じなくなるまで。


雑念と煩悩と羞恥のすべてが、溶けるまで、―――帰れない。



彼女がいる、あの―――ディストピアには。



ノエル・ノア、十四歳。―――恋愛偏差値、ゼロ。

後にサイボーグと呼ばれる男が、心を与えられたブリキの樵のように、その感情を理解するのは、まだまだ先になりそうだった。



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