利己主義者Nの献身
- ナノ -


我が心のユートピア




今日のお給料をもらって、私はとてとてと家路に着いた。暫くはお試し期間として…というお達しのもと、頂いているのは日給15ユーロ。日本円にすれば、1500円ってとこ。安い、と思われるかもしれないが、正規に雇って貰えない年齢で、お昼ごはんまで頂いていれば、破格過ぎる金額だ。私の勤務時間は朝九時から三時まで。先程話したように、一時間の休憩も挟む。小さな弟がいることと、遅い時間にスラムを歩くのが危ないという理由で、働く時間にも配慮してもらっているのだ。…至れり尽くせりで、本当に頭が上がらない。

お試し期間だからという理由も、日給として渡してくれる為の方便だろう。月給として給料を待てるほど、生活に余裕がないことはとっくに見抜かれていて、その上でこちらが恐縮しないように建前まで作ってくれる。……二人とも、良い人過ぎる。私も、かくありたいと思う大人の気遣いというヤツだ。色々あったけど、ノエルといい、二人といい、人の縁には相当に恵まれている。

おっとと…考え事している場合じゃない。私は足早に家に着くと、無くさないように小さな鈴を付けた家の鍵でドアを開けた。ノエルがタンスなどを引っくり返して見つけてくれた合鍵。たった二つのソレは、一つはノエル、もう一つは私のものになっている。ドアを開けると、すぐさま「しゅべすたぁ!」と可愛い声が耳朶を撃った。

あ〜〜〜〜〜ん、ミヒャたん、六時間ぶりぃ〜〜〜〜〜!!逢いたかったよぅ〜〜〜!!!

「ただいま、ミヒャ。良い子にしてた?」
「うん!!しゅべすたぁ、抱っこ〜〜」

はいな。一人でお留守番させてごめんね〜〜〜という謝罪も込めて、走り寄って来た弟を抱き上げて、そのほっぺにただいまのちゅーをする。するとミヒャも「ちゅ〜」と言いながらほっぺにお返しをくれた。………我が今生に一片の悔いな……、おっと、ダメダメ、あんまりの尊さに尊死するところだった。口から魂出ちゃう。うちの弟が天使すぎて浄化されちゃう。

もうすぐ四歳になるとはいえ、まだ三歳のミヒャを一人置いて行くことには、勿論抵抗があった。でも、働かなくちゃ生活も立ち行かないし、自立だって出来ない。ので、ミヒャとは膝を突き合わせて、懇々と話しをした。ヤダ〜〜〜!ミヒャも行く〜〜〜!!と、こんな時ばっかり自分のことをミヒャと呼ぶあざとさを発揮して、泣き落としにかかって来たけれど、だが残念。今日の私は難攻不落なのだ。小田原城然り、真田丸を備えた大阪城然り。

……まあ、恰好良く言ってますが、結局は宥めて賺してあやして、「ミヒャは良い子だからお利口にしててくれるよね〜?待っててくれたらお姉ちゃんすごぉく助かるなぁ〜嬉しいなぁ〜」とご機嫌を取っただけ、なんだけどね。…ミヒャは賢いので、癇癪を起したりしてもどれだけ私が許してくれるのか、こちらを試している節がある。絶妙な加減で、嫌とは言われない程度の我儘を言う見極めが上手い。私が折れないことを察すると、可能な限りの譲歩を引き出して、ぐすり…と鼻を啜りながら「いいこだからがまんする…」と言うのだ。……なんて、考え過ぎかなぁ。…………将来魔性の男になりそう……末恐ろしい。

今日は何してたの〜と聞くと、ミヒャは満開の笑顔で教えてくれる。うんうん、お昼寝して、ちゃんとお昼ご飯は食べたんだね。ふんふん、お絵かきしてたのね!これ!と差し出される絵。棒人間ではなく、しっかりと特徴を捉えた人間の女の子だと分かるこれは、……もしかして私?…ミヒャぁ、これお姉ちゃん〜〜?ワクワクして聞く前に「しゅべすたぁを描いたの!」と天使の宣告。OH…と、私は天を仰いだ。―――誰か額縁!!額縁を持て!!これを至宝として飾らねばならん!と私の中の王様が叫んでいた。

ありがとう〜〜、ミヒャぁ〜〜〜。お姉ちゃんめっちゃ嬉しい〜〜〜と、上手上手、と頭をなでなでして、思う存分愛弟との触れ合いを楽しむ。…あ、でもそろそろお買い物行かなきゃ…。あんまり遅くなる前に、と出掛けようとすると、当然お話し足りないみたいミヒャも付いてくると言うので、お着替えをさせて、一緒に晩御飯の材料を買いに行くことにした。

…今日のお給料で賄えるもので…明日の朝ご飯にもなるもの…、あと、調味料ももうちょっと買い揃えたいところである。うぬぬ、と若干十二歳にして、店先で値段と品質とにらめっこをする私。こらこらミヒャ、無暗に障っちゃ駄目よ。あ〜〜ん、そっちにも行っちゃだめ〜〜〜!やんちゃ盛りのミヒャを連れてくると、いっつも倍の時間が掛かっちゃうんだよなぁ。でもなるべく一緒にいたいし、日中ずっとお家に一人だから可哀想だしと、塩梅が難しいところである。

お手てを繋いで、何とか買い物を済ませたところで、ミヒャが「あめ!」と叫ぶ。え?晴れてるけど?と空を見上げてあらびっくり。さっきまで晴れていたのに、頭上に広がるのは黒い曇天だ。流石ミヒャ、気圧と気温の変化にも人一倍敏感なだけある。…なんて、感心する間もなく、急いで家路に着く。やだ、傘持ってきてないんだよぅ〜〜!だが、速足も虚しく、重く厚い雲から水滴が落ち始める。わーーー!!雨、降って来た!!

「おいで、ミヒャ」
「うん!」

遠くの方は晴れてるから、通り雨だとは思うけど…!私は慌ててミヒャを抱えて家路を急いだ。しかし、叩き付けるような雨足のせいで、アパルトメントに辿り着く頃にはびしょびしょだった。うわぁ、最悪だぁ…。玄関先に大きな水溜りが出来てしまうほどの濡れ鼠っぷり。

ミヒャ、濡れちゃったねェ…。愛し子の前髪はぴったり張り付いてる。晩御飯作らなきゃと思ってたけど、風邪引いちゃったら困るから、先にお風呂入ろっか。そう言うと、ミヒャは散歩、と言われたワンちゃんみたいにピーン!と背筋を伸ばした。あ、嬉しい時の反応です、ちなみに。お風呂好きなのだ、うちの子は。

じゃ〜、タライ出して〜、お湯張って〜、と。最近購入した大きめのタライは、洗濯に入浴のお湯を溜めて節約にと、一役も二役も勝ってくれてる一品だ。生活の知恵的な…、私もお給料が入るようになったから、こういうところで頑張っていきたいところである。さて、とお湯がいっぱいになるまでの間に、ん!とバンザイをするミヒャの服を脱がす。

…ちっちゃい子ってさぁ、いつから自分でお着替え出来るようになるもんなんだろ?ミヒャに甘えた声で「やってぇ〜〜」と言われるとついついやってあげちゃうんだけど、いつから自分でやるんだよ〜って促せばいいんだろう。早々におムツは取れているのに、こればっかりは分からん…。私何歳だっただろうか。切実に育児書が欲しい…。

「ミヒャ、ちょっと待っててね」

すっぽんぽんになったミヒャを浴室に押し出し、私も服を脱ぐ。んわ、ぐっしょり…。気持ち悪…下着まで濡れちゃったぃ。これは後で洗濯するので、置いといて…と。さてはて、と何気なく振り返り、きゃー!と心の中で悲鳴を上げた。

「コラ、ミヒャ!!」
「ぶくぶく!」

ぶくぶく、じゃないの!ミヒャは器用にシャンプーの蓋を外して、その中身をドバドバとタライにぶちまけている最中だった。慌てて、ボトルを取り上げる。…軽っ!!あーもー!!ノエルと共同のヤツなのに〜〜〜〜!半分になっちゃったぁ。

勿体ない〜〜〜〜っ!ない、ない、もったいない!ないないないもったいない!ルー大○のMOTTAINAI、口遊んじゃうぞ!お湯を止め、意気消沈している私なんて何のその、ミヒャはタライの中のお湯をぐ〜るぐ〜るとかき混ぜて上機嫌だ。泡泡作るの好きなんだよね!知ってる!でも前のおうちと違って、ここでは節約しなきゃなんだよ〜〜〜っ。

「あわあわ〜」

だから、あわあわじゃないって!……と、思うのに、幼児らしいぽっこりしたお腹で、ふにゃあと嬉しそうな顔で泡まみれになっているミヒャがもう、かわゆうてかわゆうて…。はぅん、と私は心のシャッターを切った。…………って、ダメダメ!マミーがいた時とは違い、今の私はミヒャの親代わりでもある。甘いばっかりではなく、ダメなことはダメと言わなくては…!と己を鼓舞する。

「ミヒャ、あわあわはダメ。もったいないのよ」
「…ぶ〜」

ぶ〜じゃないの。……ああん、ぶすくれたほっぺとお口が可愛い〜〜〜〜っ!何でも許してあげたくなっちゃううぅ〜〜〜っ!今よりもっとミヒャが好きになっちゃう〜〜〜!夢中になっちゃううぅ〜〜〜!!

「めっよ。めっ!分かった?」
「ぶくぶくしたいの…」
「だぁめ。…代わりにね、ミヒャの髪をピヨ〜ンってしてあげる。ピヨ〜ンしなくていーの?」
「だぁめ!」
「でしょ?なら、ぶくぶくはしないのよ。…お返事は?」
「あいあい」

………ごぼェああぁ。良い子のお返事過ぎて昇天…。吐血しつつ、内臓まで吐きそうになるのを手で押さえて押し戻す。それなんてスプラッタ?戻さなきゃ、戻さなきゃ…。ミヒャの愛らしさに一々吐血してたら、一日に何回献血されても足りない。ダイイングメッセージにミヒャの名前を書く羽目になってしまう。

「イイ子ね。はい、ぽちゃん」

促すと、素直にタライの中にぽちゃっと腰を下ろす。肌荒れしちゃうから、シャンプー終わったらお湯換えないとなぁ…。お湯に浮かんでいる泡を取って、目の前の小さな頭の上に掛けつつ、ごしごしと優しく洗い始めた。シャンプーハットとかなくてもぎゅっと目を閉じて大人しくしてくれるのがべりぃきゅーと。えへへ、眉間に皺寄ってるぞ〜。そんなにキツく瞑らなくても大丈夫なのに。

「ミヒャミヒャ、アトム〜〜〜」
「あとむ!!」

ふわふわの泡でしっとりしたミヒャの髪をアレンジする。まずは小手調べ。頭頂部と後頭部に一つずつ角を作る。鏡を見て自分の髪型が変わっていることを確認したミヒャは、拳を突き上げて喜びの声を上げた。キャッキャ!と楽しそうで何よりである。そう、これがミヒャがバスタイムを楽しみにしている理由。ドイツにて一緒にお風呂に入り始めて、何かミヒャが喜ぶことが出来ないかなぁと考えた末の、お馴染みシャンプーアートである。

これがまた、ウケにウケた。ミヒャは全然知らないアニメのキャラなのだが、自分の髪が重力に逆らって、ピヨ〜〜ンと伸びることが新鮮だったのだろう。もっとやって!もっと!!というおねだりに調子に乗った私が様々なキャラの髪型を再現してしまったせいで、ミヒャはすっかりシャンプーアートの虜になり、しゅべすたぁとポチャに入る!!と、入浴のお供には必ず私を指名するようになった。………計画通り。ニヤリ。

予想外だったのは、髪を乾かした後も「アトムにして〜〜」と強請って来たことだったことなんだけどね。……ええっと、ミーくん?お姉ちゃんそれはやめてほしいなぁ…。ミヒャのサラサラボブカットが大好きだから、凶器にもなり得る髪型なんて、普段からしてほしくない。ヤダ〜〜と泣かれたけど「お風呂に入る時に特別」という言葉の元、三時間にも及ぶ説得を経て、やっと我慢して貰えた過去がある。……ミヒャ、頑固なんだよなぁ…でもここばっかりはお姉ちゃんも譲れない。

「ドンパッチ〜」
「どんぱっち!!」

今度はウニみたいなツンツン頭にしてみる。プルコギ、で有名な生命体だ。結局あの生き物って何なんだろう…と変なことを疑問に思う。まあ、何でもいいけど。きゃはは!と嬉しそうなミヒャにほのぼのしていると「しゅべすたぁも!」と促された。え、私…?…うーん、じゃあこれで…と自分の頭をごしごしして髪の形を整える。左右の髪がぴよんと重力に逆らい、天を差す髪型。

「ウランちゃん」
「だあれ〜?」
「アトムの妹よ」
「あとむの?!…おれ、もいっかいあとむにして!どんぱっちやだ〜〜」

え。もう一回?…ヤダって、ドンパッチは悪くないのに可哀想じゃないか…と思いつつ、ミヒャ様の言う通り、だ。仰せのままに、王子様〜ともう一度髪をアトムにしてあげる。

「しゅべすたぁといっしょ!」
「うん、一緒だね〜」

作品がね。次はどうしようかな…角といえばやっぱり蘭ねーちゃん……なんて夢中になっていると、体感でも大分時間が経ってしまっているような気がする。そろそろ出ようか、とシャンプーを流してボディソープで身体を洗ってから、ミヒャを入れ替えたお湯でしっかり温めてから外に出た。……ふう、良いお湯でしたっと。これで風邪引かないで済むかな。抱いていたミヒャを床に降ろすと、ミヒャは犬みたいにぷるぷる!と頭を振った。や〜ん。すぐ拭いてあげるから、それやめてェ。

私はきゅ、と軽く自分の髪を絞り、次いでタオルでミヒャの身体を拭き始めた。気持ち良かったねェ〜。早くお着替えしようね、と撫でるように頬を挟んでむにむにする。おまんじゅうのようなぷっくらほっぺ、食べちゃいたいくらい可愛い。ミヒャはん〜と小さな声を上げながら、されるがままになっている。あ、服持って来るの忘れちゃった…。取りに行かないとなぁ、と、そんなことを思考した矢先。

……何の前触れもなく、ガチャっと勢い良く、廊下に通じるドアが開いた。……へ?

「おい、シュネー?いつまで…………は?」
「…きゃっ」

無造作に扉を開いた闖入者と、バチリと目が合う。いや、闖入者というか、この家の正式な家主なのだが、それでも出現が唐突に過ぎた。帰って来ているとも思わなかったし、ドアを開けられることも予想だにしていなかったので、………、と、私は間抜け面を晒してノエルと数秒見つめ合った。

「………」
「………」

すう、とノエルの眼球が上から下へ動く。釣られて、おんなじようにノエルの上半身から下方へ視線を走らせ……はた、と気付く。

………待って。……ワタシ、イマ、ドンナカッコウしてる???

答え。―――アダムとイブ。ヴィーナスの誕生。ミケランジェロのダビデ像。―――生まれたままの姿。……アイアム、すっぽんぽ〜〜〜〜ん。


……
……………ふぁっ?!?!?!

私は、一瞬でぼっ!!!と瞬間湯沸かし器にみたいに顔を沸騰させて、ババっと胸元を隠した。あ、いや待って!どっち隠せばいいの?!上?!それとも下?!…タオル小さ過ぎて絶対隠れてない!!ともう片方の手で下半身を隠す。ミヒャは?と小首を傾げて、私の足にしがみついてきた。あ、ミヒャナイス!!ナイスカバー!!エクセレント!!

―――な、なんというラッキースケベ!!!!

…いや〜〜〜〜ん!!まいっちんぐ〜〜〜!!ノエルさんのえっち〜〜〜〜!……とでも言えばいいのか?!そうするのが正しいのか?!…出来るかぁ!!!!ちょっと!!ノエルさん?!主人公じゃあるまいし、ラッキースケベが現実的に起こり得て良いとお思いですか?!……否!断じて否である!!

と、いうか!!!

「……あの、………あんまり、見ないで……?」

目ェ逸らさんかい!!!と、内心でドスの効いた声で叫んだ。何故かノエルは固まったまま、じいっと私のことを凝視していたのだ。こんな生物初めて見た、と言わんばかりに目を丸くしている。珍獣?!私は珍獣か!?仮にも乙女の裸を前にして、照れて「わ、悪い!」とか言うならともかく、きょとんとして見つめてくるってそんなのアリ?!…情緒死んでるんですか?!メンタル鋼鉄ですか?!覗かれたのは私の方なのに、こっちの方が気まずいって、どゆこと?!?!

せめてもの抗議と、そう言ってみる。すると、ノエルははっとした様子で動き出し、悪い、と言って扉を勢いよく閉めた。ちょっと!ノエルのパワーでそんな乱暴にしたらドア壊れちゃうじゃん、優しくしてよ!と文句をつける間もない。…ん遅っ!その反応、私が裸だって分かった瞬間にしてほしかったヤツ!!

「…くちっ」
「あ、ミヒャ、ごめんね」

耳朶を叩くのは、可愛らしいくしゃみの音。そうだね、いつまでもすっぽんぽんじゃダメだね。折角温まったのに、意味がなくなってしまう。見られた…見られた…と、思わぬトラブルに脳内は未だパニック状態であったが、ひとまず感情は端に置いておいて、身体をきちんと拭き上げる。扉を開けてきょろきょろすると、ノエルの姿がなかったので、おそらくリビングだろう…良かった、服忘れてたから、居たら気まずいところだった。ささっと素早く部屋に滑り込み、何とか自身とミヒャが服を着て、一心地着いた。

着いたということは……、考えねばならぬのだ。……さっきのラッキースケベについて。

……うっ、うおおおぉおおおおォおおォぉおお〜〜〜〜〜!!!!は、はだ、はだはだはだはだ、裸………ば、ばっちり見えてたよね絶対〜〜〜〜!!!!うわ〜〜〜ひゃえ〜〜〜〜んぎゃあ〜〜〜〜!!

ゴロゴロゴロ〜〜〜!!と床を転げ回りたい衝動を必死に抑えて、しゃがみ込んで頭を抱える。背中だったらまだしも、ばっちり前を向いていたので、上も下も、見せちゃいけないところを完全に晒していたのは間違いない。しゅべすたぁ〜、あたまいたいの〜?と心配そうなミヒャの声に、よろよろ…と顔を上げる。だ、大丈夫……お姉ちゃんのSAN値が直葬なだけだから。ファンブッただけだから。無問題。発狂しそう。

……も、もうお嫁にいけない……。か、かくなる上は責任を取ってノエルに…

「しゅべすたぁ?」

…………っは!!!あ、危ない…危ないぞ私…思考がダークサイドに落ちるところだった。決して踏み込んではいけない領域まで行ってしまうところであった。それ以上いけない!!……私を引き戻してくれるのはいつもミヒャである。感謝感激。らびゅ〜〜ん、とミヒャにちゅーすることで気持ちを落ち着ける。…ふう、流石私の精神安定剤。

深呼吸、深呼吸…と息を吸って吐きつつ、リビングへの扉を開ける。ソファに座っているノエルがこちらを見るような空気を感じたけれど、「急いでご飯作るね」となるべく意識しないように頑張ってシンクへ向かう。ミヒャには遊んでいるように促した。……よし、何か作業をしてる方が余計なこと考えなくても済む。

しばらく、トントン、と包丁がまな板を叩くリズムだけが響く。

「……何してる、ミシェル」
「?」

何か二人が会話をしているので、耳を傾けてみる。喋れないなりにボディランゲージなどを加えると、意思疎通が出来るから、人のコミュニケーションってすごい。ミヒャには英語の勉強をさせた方がいいかなぁ〜。

「………なに、してる?」
「…!…おえかき」
「………そうか」
「できても、のあにはみせてあげないもんね!」
「…そうか」

…ノエル、絶対意味分かってないよね、これ。ミヒャの意地悪にも気付いてないだろう。チラリと二人を見ると、言ってやった!と踏ん反り返るミヒャと、どーでもよさげなノエル、両者の温度差とギャップにぷ、と思わず吹き出しそうになる。……どっちの言っていることも理解出来ると、こういう時に笑っちゃいそうになるんだよねェ…。

さて、これくらいでいいかな。味見をして、ちょっと薄かったので、そのまま味を調える。今日のメニューは野菜スープだ。鮮度が良くないからと安売りをしてもらったものだが、切って煮込んでしまえば気にならない。…何だか食に対する"大丈夫"の基準が下がって来ている気がするが、ま、いっか。味付けはシンプルだが、素材の味を生かしたトマトベース。…うぬ、悪くない。と海原先生みたいに重厚に頷いてみせる。

ここは家賃が高いので、ノエルが得ている収入も潤沢とはいえない。試合がなければ、その間は無収入なわけだし。冬が厳しいフランス、降雪でサッカーが出来ない時期、ノエルは堅いパンだけで飢えを凌ぐこともあるらしい。……節約、倹約…と己に言い聞かせる。エンゲル係数が増えて負担を掛けてるんだから、頑張りどころである。

「ごめんね、待たせちゃって。ほら、ミヒャご飯よ。お片付けして」
「んん〜…」

まだ遊び足りないのかちょっとむずかるけれど、空腹には敵わないらしい。素直にペンを置いてくれたミヒャを含め、三人分の食事をテーブルに並べる。Bon appétit、と、とある理由から絶対定着させてやる、と決めている挨拶をして、食事を始める…、前に。神妙な顔で、ノエルが私を見つめるせいで、ドキッと心臓が跳ねた。

「……さっきは、悪かった」
「う、ううん。大丈夫…私こそごめんね」

ぎょえ!と話題に出されて飛び上がりそうなる。忘れててくれてもいいのに…律儀だなぁ、ノエル。私こそごめんなさいって言うか…、お見苦しいものを見せまして…はい。少しだけ会話のキャッチボールをすると、ノエルはこの話は終わり、と言わんばかりに無言で食事を始めた。

………い、意外とフツー?

私は何だか釈然としないものを感じながら、ノエルの横顔を盗み見た。…平然としている。ちょっと塩が入った、ドライで淡泊な雰囲気。………さっきも思ったけど、同年代の女の子の裸を見たにしては平常運転過ぎない?修行僧か何か?…もっとこう……、…照れるとか、そういうの、ないの?

………ま、まあ?私の胸なんてまだぺったんこだし?どっちが前なのか後ろなのか分からない感じですし?スポーツブラとて不要だなってくらいの膨らみしかないですけどね???………くそう、自分で言ってて悲しくなってきた…。だから、何が言いたいかって言うとね?べ、別に気にされたいわけじゃ…、そう、私だって気にしてなんか……、は、はは、恥ずかしくなんか……。

……………ウソです、はい……。………しばらくノエルの顔、まともに見られそうもないくらいには、……だ、ダメージは大きい…。

意識しまくってる私に反して、ノエルはこちらを一瞥もしやしない。…何度も蒸し返されるより全然いいから、有り難いんだけど、なんかフクザツ…。ノエルの表情も態度も全くいつも通りで、動揺なんて微塵も感じられない。慣れてるのか、それとも私の裸なんて興味ないのか……。どっちでもなんか、もやっとするなぁ。

じいっと自分の胸元を見下ろす。……見事なまな板だ…。虫に刺された程度の膨らみしかない……AAくらいのサイズ感。……これが虚乳……うっさいやい!!いずれ大きくなるもん!!だってマミーはプロポーション抜群だったもん!!私だってたわわに実った果実ときゅっと引き締まったウエストとぷりんとしたお尻になるもん!!ホントだもん!!………た、多分……。

話題に出されたら恥ずかしいし、いっそ忘れて欲しいと思ってるくせに、意識されないのはそれでそれでなんか嫌だという、特有の面倒臭さを発揮しながら、私はもくもくと食事を口に運んだ。……結構上手く出来た筈の野菜スープだったのに、全然味が分からなかった。ぐすん。



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