利己主義者Nの献身
- ナノ -


怪物、あるいは英雄と呼ばれる少年




チャリンと、手の内にコインが落ちる。釣銭は元の硬貨よりも重みを変じていた。物欲が薄く、腹を満たされば食にも拘らないノエルは、何かを欲しいと思ったこともなければ、食事だって適当に済ませる。だが、今日は違った。わざわざ遠くまで足を運んで、スラムの中でも安くて美味いと評判の店でバゲットのサンドイッチを買う。彼の日課の中に、緩く入り込んだ事象だった。

それを持ったまま、目指すのは先日知ったばかりの廃ビル。小さな子供が二人で身を寄せ合う、隠れ家だ。靴が階段を打つ音は、ここ数日でもう聞き慣れてしまった音。迷わず一つの扉を開くと、中にいた人物がこちらを振り向いた。対の双眸。揃いに誂えたように似た色彩をした、流浪の兄弟。……シュネーと、ノエルは片方の名前を舌に乗せた。

「ノエル、こんにちは」

合わせて、柔く細められる瞳。先般、ノエルが拾った、間抜けな行き倒れ。―――今、彼の心に緩やかに住みつき、その危なっかしさと世間知らず丸出しの振る舞いで、生まれて初めてノエル・ノアに″心配″という感情を抱かせている、兄弟の年長の方。

「……昼飯まだなら、これやる」

買って来たばかりの手土産を渡すと、シュネーはありがとうと深々頭を下げた後、真っ先にサンドイッチを弟へと差し出した。兄弟の年少の方は、まん丸な頬を膨らませ、あからさまに口を尖らせ、その上目付まで剣呑にさせてノエルを睨んだ。…相変わらず、顔に滲み出た生意気さ。幼児らしい可愛らしさは見た目だけの、敵愾心に満ち満ちた目だ。……別にコレに好かれたいと思っているわけではないので、いいのだが。

食べない、食べる、食べない、と遣り取りを繰り返した末、もぐもぐ…と小動物のようにサンドイッチを食べるミヒャエルの口の端を拭ってやったりと世話を焼いて、シュネーは嬉しそうに顔を緩めた。………腹の虫が鳴っているぞ。…もっと買って来てやれば良かった、と後悔しても後の祭り。


―――シュネーは、不思議な子どもだった。


…いや、不思議というのはオブラートだろう。一言でいえば、変だった。ノエルの価値観からすれば、相当に変わっている。ノエルが知っていることは、多くない。年齢は十二歳。あまりにも小さいのでもっと下かと思っていたが、意外や意外、自身とは二つしか違わないらしい。弟はミヒャエル。ノエルが上手く発音出来ていないらしい名前を冠する、九つ離れた生意気な子ども。出身はドイツ。何らかの理由で母国を離れ、保護申請を受けるためにフランス、パリまでやってきた。

すぐに騙されて拐かされてしまいそうな素直さ。擦れたところのない、温室で育てられたみたいにポヤポヤしたオーラを放つ浮世離れ加減。碌でもない父親がいると言ったノエルに「私達とおんなじね」なんてあっけらかんと宣う無感動さ。弟のことばかり優先して、自分を犠牲にしようとする献身性。……言葉と礼を他人にも尽くす、遍く慈悲深さ。………様々な表現が入り乱れる、ノエルの人生において、およそ邂逅したことのない稀な人間。

―――それが、シュネーだった。

どうにも、危険な目に遭っていないか、生きているか、気になっては様子を見に足を運ぶ羽目になる……。持て余し気味な内面に、明確な答えが出たのはとある昼下がり。…また、手土産を持って廃ビルを訪なった時。

顔を合わせて早々、泣きそうな顔をしている少年に、どうした?と聞くより先に、寝かされている弟の姿が目に入った。ノエルを見る度いつも恨めし気に睨み付けて来る幼子。覇気がなく、威勢も失せ、苦し気に喘いでいる様子に、風邪を引いたのか、とすぐに理解した。…無理もない。詳しく事情を聞いたわけではないが、どう見ても訳ありで、育ちがよさそうな兄弟が、スラム街での、それも冬に差し掛かる時期を健康に乗り越えられるわけもない。

医者を紹介してやろうか、という問いには、戸惑ったように顔を伏せられる。次いで発せられたあまりにも楽観的なセリフには、呆れるよりも先に罵倒が突いて出た。…だって、コイツは本当に、現状というものを全く理解していない。

「バカか、お前は」

えっ?なんて、無理解極まりない間投詞めいた言葉が、思慮の浅さを示していた。

「その申請をしてる人間が、このフランスにどれだけいると思ってる。二週間どころか、半年待っても通らないかもしれねーぞ。そんな簡単に援助が受けられるなら、路上生活者がそこかしこに溢れてるわけねーだろうが」

フランスは、移民が集まる大国だ。歴史的背景だとか、法律だとかなんだとか、難しいことはノエルには分からないが、このスラムにおいても人種の坩堝と言わんばかりに母国を異する者が集っている。自然、寄る辺もなく、公的な機関を頼る者が多く、当然それが一番手っ取り早い手段だ。…だが、誰もが知っている、誰もが思い付く手段というものは普遍的で、集約される数というものは想像を絶するものなのだ。だから、待つ。それしか拠するものがなければ、与えられるまで、ただひたすらに臥して耐えるしかない。

薄っぺらい、確実性のない展望。

「思考からやり直せ。他に取れる手段がないか、考えてみろ」

或いは。……或いは、と。もしその口から出てくるのが、……自身の名ならばと。瞳に、縋る色があったならば、と。

だが、シュネーはただ視線を落とした。思い付くことすらしないのか、それとも諦念か。……その意味を咀嚼した途端、自分でも驚くくらい冷たい声が出た。

「そうか」

―――そういうのを、思考停止って言うんだ。

「なら勝手に、野垂れ死ね」

冷たく言い放つと、シュネーはえ、と目を丸くしてノエルを見た。…何だ、優しい言葉でも掛けて貰えると思ったのか。だったらお笑い種だ。

彼等は今、誰かの慈悲に縋らなければ生きられない存在だ。それがノエルであってもなかろうと、同じこと。プライドを気にしたり、思考放棄をしたり、…己の力だけで生きていくことも出来ず、言葉に何の説得力も持たないことを理解していない。シュネーが組んでいる保護申請も、その待ち時間も、初めから破綻した理論なのだ。当人だけが、それを分かっていない。

「お前は良くても、弟はどうなる。思考を放棄して、遠回しな自殺願望を全うしたいなら好きにしろ。…それに巻き込まれる側は、堪ったもんじゃないだろうがな」

言ってしまってから、ノエルは茫洋と視線を落としたシュネーから目を逸らし、乱暴に頭を掻いた。可笑しい。こんなことを言うつもりではなかったのに。ーーーどうも、コイツを見ていると自分は、心配と同時に苛々と感情を揺さぶられてしまうのだ。

スラム街において、誰もが自分のことばかりで精一杯なのに、このシュネーという少年ときたら、自分のことは後回しで弟のことばかり気にしている。食事も、着るものも、金についても、徹頭徹尾。身内だからかと思えば、たかりに近い押し売りを受けても、あの子達も、お腹いっぱい食べられるといいねなんて宣う。……人に施し出来る立場か、と言うセリフを、ノエルは飲み込むのに必死だった。

―――…最底辺まで堕ちても、まだ綺麗でいようとしている。偽善的で、愚かで、…とても眩しい。その様は、ひどく、ノエルの神経に障った。…自分の醜悪さを、浮き彫りにさせられるようだった。

かつての記憶が、また蘇る。ノエルを見て目を輝かせた、幼い少年。名前も知らない少年が、無残に路上に打ち捨てられている姿―――もはや顔も朧げなのに、その姿だけが瞼の裏に焼き付いて離れない。骸を見たことなんて、別に初めてでもないのにどうして……あの子どもだけ忘れられないのだろう。大人に運ばれていく様子を、ただ静かに眺めていることしか出来なかった、幼い自分では、もうない筈なのに……。

知らずノエルは、彼の弟にその姿を重ねているのかもしれない。だから義理もないのに、こうして日参して無事を確かめてしまう。緩やかに死に向かっていく子どもに抱いているのは憐憫か、それとも―――。

感傷に浸るノエルを現実に引き戻したのは、脛に走った痛みだった。

「いてっ」
「ミヒャ?!」

見下ろすと、いつの間にかミヒャエルが立っていた。初めて会った時と同じように、その瞳を爛々と怒らせ、熱と疲労に苛まれた赤い頬をしながらも、キッとノエルを睨み付けて来る。意思の強さを感じさせる、小さな身体とは裏腹な、苛烈なまでの感情―――…それを、人は怒りと呼ぶ。

「―――しゅべすたーを――――!!!」

決然と、語気の荒い、高い声が響く。ノエルの脛を蹴り飛ばした恰好で拳を握り込み、幼い少年は怒っていた。思えば、最初からそうだ。悪ガキ共はノエルの脅しに尻尾を巻いて逃げ出したのに、彼等よりずっと幼い子どもが、真っ直ぐノエルに対峙して立ち向かって来る。子どもの怖いもの知らずではない…きっと、大きくなってもそうだろうと、妙な確信があった。

「しゅべすたーを――――!!」
「――!!―――!!―――!!」
「―――!!……しゅべすたーに―――!!―――!!!」
「ミヒャ、やめなさい!」

「……何て言ってるか、分かんねーよ」

蹴れ蹴れっ!と、いくら小さくとも、人体の急所である脛を何度も蹴られればそれなりに痛い。しかも、一切の容赦がないのだ。慌てて窘めたシュネーに後ろから抱え上げられても、ぶんぶんと足を振り回して暴れている。何とも活きが良い。病人とはとても思えない暴れっぷりだ。

「………元気なチビスケだな」

避けようと思えばいくらでも避けられたけれど、そうする気にならなかった。じんじんと鈍い痛みが脚を無視して、ミヒャエルを見つめる。…言葉は分からなくても、少年の言いたいことのニュアンスは正確に伝わっている。彼は、ノエルが兄を苛めていると思ったのだろう。事実、意地の悪いことを言った自覚はあった。

…そうだ。―――そうだな。


……ミヒャエルは、あの時の子どもではない。


勝手な感傷を押し付けられて、要らない同情心を抱かれているなんて、当人は望んでもいないのだろう。素直な性質らしい兄ならばともかく、少なくともこの弟は、プライドだけは一丁前のようだから。

シュネーが、暴れるミヒャエルをぎゅっと抱き締める。その手は、小さく震えている。しゅべすたぁ、と、弟が兄を呼ぶ。……義憤と、憂いが籠った声。……怒っているのに。…ノエルの言葉に、この少年は正当に怒っているだろうに、その言葉を理解出来ない己を、ノエルは不甲斐なく思った。

ふと上げられたシュネーの瞳とかち合う。先程までの寄る辺なさを消して、何か確固たる意志を持ったような強さを宿して、蒼が煌めく。…陳腐な感想だが、ただ、綺麗だと思った。ぎゅ、と弟を抱く手に力を入れて、敢然と唇が開く―――…のを、ノエルは咄嗟に遮った。何を言おうとしているのか分からずとも、その前にノエルが言わなければいけないことがある。……答えを聞くのは、その後がいい。

「待て。……俺から話す。いいか?」
「…うん」
「……意地の悪いことを言って、悪かった。お前が、諦めるようなことを言うから、勝手に……、勝手に、腹を立てた。………俺の感傷だ」
「?」

こてり、と首が傾げられる。分からないだろうが、それでいい。いつか話す時が来るかもしれないが、それは今じゃない。じっと、沈黙して考えてみる。かつての記憶を封じ込めて、度外視して考えれば、辿り着く思考はシンプルなものだった。

―――この二人をどうしたいのか。助けたいのか、助けたくないのか。…それだけだ。

「…ノエル?」
「シュネー、俺と来い。一度助けたんだ、最後まで責任は持ってやる。………気が引けるなら、家事でも何でも、してくれればいい。―――……一緒に来い」

迂遠な言い回しはやめて、ストレートに伝えることにする。だって多分、寝ても覚めても、ノエルは恐らくこの兄弟のことが頭から離れないだろう。これから寒波がやってくるのに、寒さに凍えていないか、腹を空かせていないか、ふとした時に思い出してしまうだろう。…始まりはそうであったとしても、今抱いているこの感情が、拘泥でも感傷だって、何だっていいではないか。

この最底辺の街で、ノエルが見つけた、宝石のように美しい瞳を持ったふたり。

自分でも不思議だが、この二人に係ると、ノエルはお節介な人間になってしまうようだった。それが嫌ではないのだから、もう、誰に憚る理由もない。

「………」
「………伝わらねェか。……あー、」

発音が可笑しいのか、文法が間違っているのか。もうちょっと英語の勉強でもするか、と思いながらもっと簡単な単語を思い返そうとした……ところで。

「………よろしく、」
「!」
「…………よろしく、お願い、します」

蚊の鳴くような、声がした。?と小首を傾げている弟を抱いたまま、その身体に顔を隠すようにして、チラリとノエルを見つめて来る。恥ずかしがっているのか、戸惑っているのか、どちらとも取れる仕草と赤くなった頬が、とてもいじらしくて。

「………あぁ」

ノエルは少しだけ笑った。



話が纏まったところで、次に纏めるべきは荷物の方だ。準備しろ、というと、床に敷かれた毛布を丸めて、もそもそと服や小物をバッグに詰める。…その間、約三分。……荷物無さすぎだろ、とは言うなかれ。こんな軽装で冬を過ごそうと思っていたなんて舐めてんのかと思うが、今更蒸し返しても仕方あるまい。……こんな危なっかしいから、ドライな性分のノエルですら気を向けずにはいられないのだ。

「貸せ」
「あ、」
「いーからお前はミシェルを抱いてろ。…ちょっと歩くぞ」

うー、と未だにノエルに対して睨みを利かせ、唸っている子どもを見る。…お前は野良犬か。そうとは到底思えないが、具合が悪いこれを歩かせるわけにもいかないだろう。シュネーとて小さいので、三歳児を抱いて歩くには十分な体格とはいえないのだろうが、慣れた仕草で背中を差し出し、ミヒャエルを背負う。…よし、いけるな。

ノエルが住んでいるのは、スラム街の中に建立されたHLM…低家賃住宅と言われるものだった。低家賃、と言ってもパリ一区の高級アパルトメントに比べれば、という程度で、郊外の方が同じ家賃でもっと広くて、綺麗なところに住めるだろう。だが、諸々の事情と、かつて家族で住んでいたところという意味も加味して、自身一人になってもここに居を構えていた。

店に行くには少し遠いだろうが、治安という意味では住宅地であるこちらの方が幾分マシだ。こいつらが住むにも、まあ、あのビルよりはマシだろう。シュネーはとっくりとノエルが指し示したアパルトメントを見つめてから、後ろをついて階段を登って来た。三階の、廊下を歩いた中央の部屋。鍵を開けて、中へ入るように促したところで、ぽそり…と落ちる幼い声。

「―――。―――」
「こら、ミヒャ」
「………」

こいつ、絶対なんか良くない事言ったろ…。いつものことだが、シュネーに叱られているところを見るに、臭いだとか汚いだとか、そういう類の言葉を使ったのだとは察せられる。そりゃ、御世辞にも綺麗な部屋だとは言えないが、自分で言うのと他人に言われるのでは違うものだ。まあ、相手は体調の悪い子どもだ。ここで目くじらを立てても仕方あるまいと靴を脱いでいると、シュネーは玄関先に立ったまま、ミヒャエルに何事かを語り掛けた。

「ミヒャ、―――――?」
「………」
「ミヒャ?」
「…………クソお邪魔します!!!!!」
「よく出来ました」

…………よく出来てるか?

ここ数日の交流で学んだことだが、クソだとか、そういう単語を口走った気がするんだが、このクソガキ。……ノエルはいまいち釈然としなかったが、よしよしとシュネーが頭を撫でているので、一先ずは何も言わずにおいた。…コイツの教育方針にいつか物申す必要性を感じる。そこはかとなく。

今後の展望については、さておくとして。ノエルは簡単に、家の中の説明をした。だが、物もなければ広さもない、何の変哲もない部屋なので、三分も経たずに注意事項は伝え終わってしまう。ボロくて配管はイかれ気味なので、冬場でも下手をすると真水のシャワーを浴びる羽目になってしまうかもしれないし、放置しているといつ火を噴くか分からないコンロくらいだろうか、一番注意するところは。……まあ、なるべく気を付けていれば問題はない。………実体験だ。

ノエルは自身の部屋であった個室を半ば強引に押し付けて、そのまま外に出た。仕事の時間が迫っているので、それまでに用事を済ませておきたい。戸締りについて厳命してから階段を降り、走って遠くに位置するドラッグストアへ赴く。…ココは単価が高いのだが、背に腹は代えられまい。手頃な風邪薬を買って来た道を取って返せば、玄関のドアノブは拒むことなく家主の帰宅を迎え入れた。……閉めろといったのに。危機管理の是正も、今後の課題であろう。

シュネーは、律儀なことに部屋にあったマットレスを移動させ、毛布の上にミヒャエルを寝かし、その額にタオルを乗せている最中だった。…もっと図々しくてもいいくらいなのに、どうしてこう変なところに気を回すのか。ノエルは放り投げるように薬を渡して、すぐさま部屋を出た。本当に時間が差し迫っている。副業と……その後の、本業とが。遅刻をして、クビにされては堪らない。

―――夜半。

起こさないように静かに帰宅をし、ソファの上で睡眠を取ったノエルが目を覚まし、仕事に出掛ける段になっても、シュネー達のいる部屋の中からは物音一つしなかった。明け方覗いてみたらよく寝ていたようだったので、あれらも気を張っていたのだろう。だが、ゆっくり寝ればいいと思っていたのに、シュネーは起き出して、慌てたように近付いて来た。よく寝るな、というと、何故かしゅんとされる。…?何故だ?

「俺は仕事に行ってくる。大したモンはないが、家にあるものは好きに食っていい。…ミシェルはどうだ?」
「あ、大分良くなって…、まだちょっと、熱があるけど…」
「なら診ててやれ。医者に罹った方がいいなら、言え」
「うん」
「……鍵、置いてくから出掛けるなら持っていけ。家にいる時も戸締りしろよ」
「う、うん」
「それと、……お前も、」
「うん?」
「…………お前も、ゆっくり休め」

あんな生活をしていたのだ。具合が悪いミヒャエルを置いても、シュネーだって弟を守って生活するのは相当に神経をすり減らしていた筈だ。わざわざ見送りなんてしなくてもいいし、十分に養生すればいい。言ってから、シュネーの顔も見ずに、ドアに手を掛ける。

……その背中に、勢い良く高めの声がぶつかった。

「……ありがとう!!……私、一生懸けてノエルに恩返しするから!」

………何だって?と振り返って見えたシュネーは、小さな拳を握り締め、緊張をその表情に宿して、ノエルを見つめていた。いや、凝視していたと言っていい。それくらい、意気込んだ目だった。

「………」

………ノエルは、気の利いた言葉を言える性質ではない。今まで年上や、それこそ図太さが服を着て歩いているような不良徒とばかり付き合ってきたから、シュネーのように如何にも良い育ちをしていそうな、大人しくて、素直な年下の子どもとはとんと交流がなかった。…だから、どうすれば気を遣わせないのか、気楽になれるのか、上手い言葉選びが出来ない。

―――一生、なんて。恩に着せるつもりだってないのに、大袈裟なヤツだ。

「………いらねーから、弟の面倒見てやれ」

胸の裡の感情が、正しく伝わっているのかすら、覚束ない。今だって、こんな突き放したような言い方しか出来ない、そんな己を初めて少し顧みようと思った。

大丈夫だ。安心していい。…心配しないで、もっと頼っていい。

そんな言葉を、考えるより先に、自然と口に出せる日が来るのだろうか、と自嘲して、ノエルは部屋を後にした。



それから、数日の時が刻んでも、ノエルは本業のせいで連日連夜忙しくて、かと思えば副業の方も重なって、ほとんど家にいないどころか、シュネー達は就寝していて、碌に会話も交わさない日々を過ごした。部屋の中が綺麗になっていたりすることに密やかに驚いたり、適当に置いていたパン等がなくなり、これまた律儀に「ありがとう」と書かれたメモが置いてあったりと。―――ノエルにとって、数年ぶりの誰かとの共同生活は、これでいいのかという程薄い関わりだけれど、確かな生活感を自宅に感じさせるものであった。

そして、夜。玄関先で靴を履こうとしているノエルに、シュネーは恐々と近付いて来た。しゅべすたぁ、と兄を呼ぶ舌足らずな声に、多分、「ちょっと待ってて」とか、そんな意味のドイツ語を投げてから、もう一度ノエルに向き直る。

「……また出掛けるの?」
「あぁ、先に寝てろ」
「…………何処に行くのか、聞いても良い?」
「……気になるのか?」

別に同居人といっても、必要なら金でも食糧でも申し出てくれれば渡してやるのだが。単純に気にする理由が分からなくて問い掛ける。すると。

「……だって、こんな夜遅くに出て行くなんて。……心配、で」


しんぱい。


………心配か。

……心配されてるのか、俺は、とノエルは沈黙した。見上げると、自分にどんな言葉を掛けられるのか不安なのか、小さな掌でズボンの端を握り締めているシュネーが視界に映った。どうだろう。こういう時、どんな反応をするのが正解だろうか。…お前に心配される筋合いはないと冷たく突き放すのか、頼りないと言いたいのかと憤るのか…。……生まれてこの方、誰かに心配されたことなんてないから、どういう言葉を返せばいいのか分からない。今の心境にすら、名前が付かない。

「………そんなに気になるなら、一緒に来るか?」

結局、ノエルが返したのは、答えにもなっていない問い掛けだった。ぱ、と暗かった瞳が輝く。弟と違って物静かで、泣いたり笑ったり、大きく感情を動かすことのないヤツだと思っていたが、なんてことはない、…その瞳は持主の感情を表して、言葉よりも雄弁に語りかけて来る。……今は、驚いて…次いで、不安と期待だろうか。様子を観察しながら、棚から目当てのものを取り出す。

「来てもつまらねーかもしれないが…文句言うなよ」

返答は「行く」という簡潔な言葉一つだった。




後ろからちょこちょことついてくるシュネーの歩幅は小さい。弟を抱いているから、余計に小さい。ノエルは何度もチラチラと後ろを振り返りながら、目的地へ急いだ。こうも目立つ兄弟だ、夜に人通りがいないところを歩けば、あっという間に路地裏に連れ込まれて終わりである。シュネーはともかく、ミヒャエルは置いてくるつもりだったのだが……。まあ、もう二人で一セットみたいなものだから、諦めるべきは自分の方なんだろうな、と内心息を吐く。

目的地に着くと、既にチームメイトどころか、見物人までもが既に集まっていた。昼間は売人だか、酔っ払いだか、ガラの悪い奴等が集まっている公園。夜は僅かなライトに照らされた寂れた空間が、今夜の舞台だ。不定期に開催されるこのイベントに、声を掛けられればノエルは必ず参加していた。ニヤ、と笑みを浮かべる奴等は、珍しくノエルが見知らぬ人物を帯同していることにいち早く気付き、好奇心に顔を輝かせた。

「何だぁ、コイツ等」
「ノアのツレか?」
「ちっちゃいんでやんの」

わらわらと、見るからに柄の悪い、チンピラだかヤンキーだか、如何にも裏社会に片脚突っ込んでますよ、と言わんばかりの悪たれ共。群がって来る奴等に、シュネーは怯えたようにノエルの背に隠れた。悪いのは見た目だけで、各々がそれなりに真面目に働く気の良い奴等だと知っているが、それはノエルが知己だからで。…まあ、怖いだろうな、と納得する。警戒心を剥き出しにする仔猫のようだ。

「……ただの見物人だ。寄るな、散れ」
「ほー。ま、いいけどよ」

シッシ、と犬にするように手を払う。が、ニヤニヤ笑いをやめない奴等に、眉根を寄せる。…なるべく目の届くところに居させた方がいいなと思い、座っているように促して、一度頭を撫でる。シュネーは、分かりやすく不安そうな顔をした。……そういう顔をされると、何だか後ろ髪を引かれるのだが。

「…大丈夫だ、取って食われやしない」

だが、ずっと傍にいてやれるわけでもないので、公園の真ん中に向かう。揃って着いて来たチームメイトがノエルからボールを受け取り、ポン、と軽く蹴り上げた。

「チョーシはどうだ、ノア?」
「誰に言ってる。―――絶好調だ」
「ならヨシ!…気合い入れろよー、今回の相手は20区の胴元の肝入りらしいぜ」
「下のモンに金入れさせてんだ、相変わらずだ、あの銭ゲバジジイ共」

ケケケ、と笑う一人はガッツリ入った剃り込みが特徴的な小柄な少年。もう一人は毒舌を発揮する、ノエルよりも体格の良い、半身に入墨を入れた少年。…ノエルのチームメイトだ。

―――3on3で行われる、サッカーの試合。

それが、スラムの中で密やかに開催されている、半非合法の賭け試合だった。始まりは、何だったのか。…バスケットボールだったり、殴り合いだったりしたこともある、とスラムに長く住む男から聞いたことがある。手を変え品を変え、警察の目を盗み休止しては再開されを繰り返し、スラム全体を巻き込みながら密やかに広まり、今は一種の娯楽として周知されつつある、運否天賦の賭け試合。

スラムに住む三人の男を代表とし、選出された相手チームと行う、三点先取のマッチアップ。―――ノエル・ノアは、代表としてその中に選ばれた一人だった。

次の試合はサッカーにしようと決まった時、賭けの胴元に当たる者達は自陣のチームのメンバーを探した。試合が行われる前に好きなチームにベットして、事前にオッズを掲示して、当たれば配当金を支払う。つまり、生半可なメンバーでは困る。最強チームだと銘打って、別の地区の賭博所同士で行う一大イベントなのだ。そうして選び抜かれた若き才能―――……このスラムでノエル・ノアが有名である理由は、そこにあった。

十二歳で初めて試合に参加してから、総試合数86戦、無敗の男。―――…今日がその、87戦目だった。

「んでェ?アレは、何なんだよ」
「アレ?」
「あの激マブいコ。…んー、もうちっと胸がありゃあなぁ」

マブいって、お前…。死語じゃないのか?というと、うるせー!と返される。耳が痛い。

「拾った」
「拾ったって、犬猫じゃあるまいし…」
「居候だ。……あと、アレは男だぞ」
「………うっそだろ。付いてんのか、あの顔に……」

俺ショック、と呟いてみせる少年は、本気で衝撃を受けているようだった。ノエルはチラ、とシュネー達の方を見る。すると、案の定、シュネー達はすっかり悪友共に囲まれていた。おろおろと戸惑っているのが、遠目からでも分かる。ノエルは声を張り上げた。

「おい、寄るなと言ったろ!指一本でも触れるなよ!」
「ケチくせェこと言うなよ、ノア!減るもんでもねェ!」
「減るんじゃねェ、穢れるからやめろっつってんだ」
「言うに事欠いて穢れるってお前!」

俺達はバイキンかよ!と抗議の声が上がるが、そんなものは無視だ。ったく、物珍しいからって群がりやがって…やっぱり連れて来るんじゃなかった、と若干後悔しつつ、準備運動をする。

だが、気持ちは分かる。こんなスラム街に居るには、シュネーとミヒャエルはあまりにも高貴で、綺麗で、眩しい存在だった。この世の汚いもの、醜いものから一切隔絶されて育って来た、悪意に無頓着で、無垢な子どものよう。

汚いもの。醜いもの。苦しいもの……このスラムで嫌というくらい目にして、もう身飽きてしまったもの。ここの住人にとって綺麗なものとは、シャンゼリゼ通りのショーウィンドウの更に向こう、ショーケースに大事に入れられた宝石みたいに、遠目から見ることしか出来ないものなのだ。だから縁遠い、触れられそうなほど近くにいる綺麗なものに惹かれる。

……だからといって、ノエルが埋めて来た距離を一足飛びに詰められるのも、面白くないものだ。

「優しーじゃん、ノア」
「あんな柄の悪い奴等に囲まれりゃ、誰だって怯えるだろ。それだけだ」
「ばっか、じゃあお前に懐くわけねーじゃん!」

…………言われてみれば、そうだな。

自分も、普通の子どもから見ればアイツらと大差ない。ノエルは、御世辞にも愛想が良いとは言えないし、特別優しくした覚えもないし、何ならひどい暴言も吐いたのだが。……そういえば、気の強い弟は元より、アレも初めから、ノエルに怯えてはいなかった。怖がっている相手の背に隠れようなどと、間違ってもしないだろう。……今更だが、よくついてきたな、と少しだけ不思議に思った。

「お、始まるんじゃね?」

…別の事を拘うのはここまでだ。シュネー達に群がる有象無象すら、思考の埒外に置く。…暇を持て余すのも、今の内だ。どうせ試合が始まれば、誰も彼も、こちらに関心を寄せずにはいられないと、知っているから。

ノエルの瞳に、青い炎が揺らめいた。


試合の始まりは、プロの世界と同じ、コイントスから。ただし、こんな整地もされていない地面でフィールドも何もないので、勝者は必然的にキックオフの権利を得る。見事その権利を手に入れた小柄なチームメイトが、ノエルへとボールを蹴り出す……次の瞬間。……弾丸の勢いでスタートダッシュを決めたノエルの動きについて行けず、棒立ちの体勢のまま固まった相手チームの間を擦り抜け、二人抜きを決める。そして、ゴール前で同じく反応出来ずにいる男の足の間を通り、ボールがゴールネットに突き刺さる。

………試合開始から、一分も経たない間の早業。

シーン…と、痛いくらいの静寂が走ったのは、十数秒……追って、寒気を吹き飛ばすくらいの熱声が寒空を裂いた。

「……ノア!!さっすが!!最初っからフルスロットルじゃん!!アイツら見た?!ぼーだち!!」
「お前もだろ」
「うっせ!お前人のこと言えんのかよ!…ホラ、ノア!」
「やるか」
「冷てェーの!」

ハイタッチを拒否すると、分かりやすくぶすくれられるが、無視である。まだ一点だ。相手の意表を突いたごーりを決めたくらいで浮かれてどうする。まだ、向こうのチームが連携を為せるのか、それとも即席チームかどうかも分からない段階なのだ。

「バカ!!フリーにさせるなっつったろ!!マークしろ、マーク!!」
「うるせェ、分かってるよ!」
「ガキだと思って舐めてりゃ痛い目見るぞ!」


「―――相手は、スラムの怪物だぞ!!」


この賭け試合は有名だった。だが、間近でマッチアップをするのと観覧者でいるのでは大違いだ。彼等はまだ、体感したばかりだった…このスラムが誇る天才を。


相手ボールからのリスタート。最初だから決まったあのゴールは、再び再現することは叶わない一撃だ。こちらを警戒する敵チームに対して、きょろりと目を回して状況を確認する。正規の試合と違い、三人のチームで構成される試合ではポジションも固定ではなく、誰もがオフェンスとディフェンスを同時にこなす必要があり、ノエルは意識的に試合全体を俯瞰して見つめるようにしていた。

ガ、と胸元に掛かるハンドリングに、ボールをパスする。咄嗟に目の前に差し出された足はこちらを引っ掛けてやる意図があったのだろうが、生憎と見えている。軽く跳躍して避け、そのまま相手を後方に押し出して前を取る。品のないスラングが耳を撃った。…こういうラフプレーが平然と罷り通る辺り、ちゃんとした審判も居ない野良の、しかも賭け試合らしかった。

もう一度ノエルの元に巡って来たボールを、今度は強引にキープして相手を押し退ける。フィジカルで勝負を挑まれたと思ったらしい相手は分かりやすく表情を歪めた。クソガキが、という意味の雑言も聞くに堪えない。そのままゴールを目指して走ると、左側から声がする。

「おい、ノア!!こっちだ、パス出せ!」
「ノア!!」

………うるせーな。…アレにパスを出しても、どうせ通らない。アイツには、ノエルのイメージする以上のゴールが描けない。それはとんでもない自己中心的な思考回路なのだろうが、さりとて彼が胴元にも観客にも歓迎されるのは、強いからだ。チームメイトとの連携よりも、ゴールに抱く執着心。

ノエルは全身が熱く脈動しているのを感じた。シナプスが急速に活性化して、試合の成り行きも敵味方の動きも捉え、土埃や風の流れすら教示してくる。視神経が灼けるようだ。音も、光も、世界の色すら全て置き去りして、徹頭徹尾、ゴールしか見えない―――。

そのまま、左上角を目指して、シュートを叩き込む。白いネットが揺れるのを認識した途端、還って来る五感―――……ノエルは、息を吐いた。……嗚呼、最高に気持ちイイ。だが、そんな感覚を、無粋にも断ち切る者が居る。

「おい、ふざけんなよ!!」

チームメイトの一人が、ぐいっとノエルの襟首を掴む。自分よりも体格の良い相手にされると、振り解くのも容易ではない。まあ、初めからそんな気もないので、されるがままになる。そんな余裕綽々な姿にも、眼前の男は眦を吊り上げた。

「今!!明らかに俺にパス出すところだろーが!!ガラ空きだったの、分かんねーのか!」
「前の一人抜きゃ、右サイドが空いてた。だから抜いて、ゴールを決めた。それだけだろ?」
「あぁ?!何がそれだけだ!!」

てめェ、この試合にいくら掛かってるか分かってんのか!と怒鳴られる。分からいでか。説明はきちんと受けている。一試合で勝利すると得られる、所謂ファイトマネーは200ユーロ。一時間も掛からないプレー時間で、時給として換算すれば破格どころではない。だが、ノエルが住んでいるアパルトマンは、あんなボロさで月700ユーロも取る。四試合やって、ようやく賄えるくらいなのだ。パリはそれだけ、物価が高い。

その上、負けた際のペナルティ―――……胴元に支払う賠償金、〆て10000ユーロ。単純に五十試合分といっても、スラムのガキが払おうと思えば無茶な金額で……最悪の場合、身体を売ってでも払わせられるだろうというのは、賭博所に付き纏う黒い噂からすれば、あながち虚偽ではないだろう。それだけのリスクを負ってでも、試合に出ること選んで、少年達はここにいるのだ。何があっても勝たなければ…なのに、チャンスを不意にする目の前の男が許せなかった。

「パスを出せ!状況を読め!!勝手な動きばっかすんな!!」
「…お前が俺より上手けりゃそうするさ。出なきゃ出来ない相談だ」
「負けたらどーすんだっての、このジコチューヤロウ!!」

「それでもいい」

胸倉を掴まれたままの体勢で、ノエルが嘯く。静かで、それでいて恐ろしいほど冷たい目だった。そこに覗く狂気に、頭に血が昇っていた少年が冷や水を掛けられてしまうくらい。


「―――味方にアシストして勝つより、俺がハットトリック決めて負ける方が気持ちいい」


虚勢でもなければ、言い訳でも、大言でもない。……紛れもない、ノエルの本心だった。勝ち負けだとか、損得だとか、見栄だとか矜持だとか……そんなもの全て超越したところに、彼の心は在った。

射竦められたまま、ゾク、と背筋を震わせたけれど、一度走り出したら簡単には止まれない。このヤロウ、と己を奮い立たせるように拳を振り上げようとした…、瞬間。

「おい!!もーやめろっての!!仲間割れしてどーするブン殴るぞこのファッキンボーイズ!!!」
「……ッチ」

乱暴に、突き飛ばすような勢いで手が離れる。

「ノアも!頼むぜマジで。…俺嫌だぜ臓器売んの」
「………分かってる」

ノエルだって、別に負けたいわけじゃない。勝つために動くのは当然のことだ。売り言葉に買い言葉だったと、冷静になった今なら省みることが出来る。…どうやらゴールを決めたことで、高揚していたらしい。……頭を冷やさなければ、とフー、と息を吐く。

この瞬間。

ただ、この瞬間だけ。

ノエルは、己が生きているのだと、全身で実感することが出来る。

精神の核たる魂が、獣のように吠え荒ぶ。魂の器たる肉体が、生命の脈動を感じて荒ぶり猛る。全身から零れ落ちてしまいそうないのちの残滓を必死に追う為に、ただひたすらゴールを目指す。世界も、自分も、他人も、何もかもが溶け合って、五感が覚醒したようにフットボールに迎合する。その世界に適応する為に、ノエルの血も肉も骨も魂も、何もかもが変わって行く。……生きていると、教えてくれる。

この時だけなのだ。

ノエルが、昂ぶりを、高揚を、命を、―――叫び出したいくらいの激情を、己のすべてで感じられるのは。飢えた獣のようなゴールへの飢餓だけが、ノエルを駆り立てる。

だからフットボールの全てを、ただ感じていたい。……誰に理解されずとも。


仲間割れしていようがなんだろうが、順当に試合は再開される。今度は相手ボールからの、体格差を利用したゴリ押しのプレイ。技巧自体は先程の動きを見ていて分かったことだが、大したレベルではない。だが、身体を使ってコースを切るのが相当に上手い。さしものノエルも、肉壁になって視界を塞がれると、やりにくい。ノエルの支援をするプレイに慣れているチームメイトと、そうでない相手。警戒すべきがどちらか、相手にも分かるのだろう。

たった今仲間割れしていた相手に、パスなど出さない。…反骨心か、憤りの為に。―――そこが隙だった。

後ろからの、柔らかいトラップ。ふわりと浮いたボールをそのまま空中で弾いて、後方へと鋭く蹴り出す。ボールが向かった先にいるのは、先程ノエルに突っかかった少年だ―――ココでパスかよ!!と少年は内心で臍を噛んだ。ふざけんな、お前が決めるっつったろ、こんな場面でパス……いや、やってやる!と走り出す。だが。

相手チームからのファウルすれすれの…いや、実際の試合であればファウルを取られても可笑しくない鬼プレスを受けて、体勢を崩す。それでも持ち直そうと利き足を踏ん張り、顔を上げたところ……シュートコースを塞ぐ対戦者に、今度こそ進路を塞がれる。そのまま呆気なくボールを奪われ、敵チームのゴールが決まってしまう……ハイタッチを交わす相手に、はぁ、と荒い息を吐いた。

「………Putain……っ」
「……オイ。お前さぁ、…」
「分かってるっつの!!」

小柄な少年が声を掛けてくるのを乱暴に遮る。…呆れた顔をしてくる彼と違い、もう一人のチームメイト、ノエル・ノアは汗一つ掻かず、感情の読めない機械的な顔をしている。いっそほら見たことかとしたり顔をされた方がマシだ……分かっている、最近負けた男の代わりに参加した自分なんかより、ずっと長い間勝利の二文字を刻み続けているのが、このいけ好かない年下の少年なのだ。周囲の歓声も、期待も、向けられているのは彼だった。

「…………ノア」
「……何だ」
「何で今、パスを出した?」

「……お前の位置から相手のマーク外してれば、ゴールのイメージが幾つかあった。だからパスを出した。文句ねェだろ」

「………」

少年は、もう一度Putain(クソ)、と呟いた。彼が見えたというビジョンが、自分には一つも見えなかった。実力の伴わない大言を吐いて、結果を出せない自侭な台詞を言っているのはどちらなのか…、思うところも言いたいこともたくさんあったけれど、全てを飲み込んで前を向く。この生意気なジーニアスに、自分だって懸けてやる。

「………OK、分かった………お前の、言う通りにする。……ただ、負けたら百回殺しても足りると思うなよ」
「だから……―――誰に言ってる」


「グダグダ言わずに、俺にパスを出せ。―――俺のイメージに喰らいつけ」


尊大どころの話ではない。冷然とこちらを見下ろす少年に、せめてこれくらい言っても許されるだろうと、やっぱイカれてやがるぜてめェ!!と悪態を吐いた。やってのけると分かっているから、余計にムカついた。それにノエルは、フン、と鼻を鳴らすことで答えた。


……さぁ、最後の一点だ。


これは、運否天賦の賭け試合。少年達は技巧を糧に、未来と安全を賭け金にして、名声と金を得る。ボール一つで運命を変える。衆人達は、暗いスラム街での試合に熱狂し、無責任に囃し立て、資本を代価にして大金という夢を見る。結果に一喜一憂する、憐れで矮小な人間の、誰に運の女神が微笑むのか―――。ただ、唯一の誤算があるとすれば。


―――運に左右されることのない、天賦の両利き。

………神に愛された、真正の天稟を持つ………ノエル・ノアが、ここにいることだけ。


体勢を崩された状態でも衰えぬ威力の蹴撃が、ゴールを貫く稲妻となり……ネットを焼いて、夜空に空気を震わせる歓声が沸き起こった。




試合が終わり、約束のファイトマネーを受け取って、ノエルは自身を揉みくちゃにしようとしてくる観客達をいなし、シュネーを引っ張って公園を後にした。付き合っていたら、しこたまビールを飲まされて潰されることは想像に難くない。まだアルコールを正常に分解出来るほど身体は出来ていないので、勘弁である。

シュネーは、うとうととし始めたミヒャエルを背負って、行きと同じようにノエルの後をちょこちょこついてきた。…代わりに負ぶってやってもいいのだが、泣き喚くだろうな…と思うと、余計な世話なのだろう。「あれがノエルの本業?」と問われる言葉に、頷き返す。最近は連日であるが、代わりに暫くは試合が組まれなくなるだろう。娯楽や賭け事は、日常生活の中の刺激であるから良いのであって、過剰なものとなれば常態化し、歯止めが利かなくなる。……暫くは休業だな、と、感情が急激に凪いだ。

その風化と共につまらなかっただろ、と言おうとして、寸でのところで飲み込んだ。先程の、試合が終わった直後のシュネーの様子を思い出したのだ。

勝利を収めた試合……相手チームは唾を吐き、スポーツマンシップもクソもない後味の悪い終わり方をするのが常だったので、もう何とも思わなくなっていたのだが、ただ今回は、ノエルには同伴者がいた。その同伴者……シュネーは、弟を抱いたまま小走りに傍まで走り寄って来た。大きな瞳が、更に大きく見開かれている。眼窩から零れるんじゃなかろうか。

「シュネー?」

「……スゴイ!!!!」

―――ノエル、スゴイ!!ホントにスゴイ!!スゴイ!!

興奮しているのか、後半はドイツ語で同じ言葉を捲し立てているだけだったが、シュネーがノエルを心から称賛しているのは伝わった。ブンブンと、全力で振られている尻尾が見えるようだ。…ミシェルが落ちちまうぞ、と注意すると、はっとして動きを止める。だが、目の輝きはそのままだ。こうも感情を露わにしている顔は、初めて見た。……こい、

「………Chiotみてー」
「オイ」
「あ、ワリーワリー」

Chiot……つまり、仔犬である。ノエルもそう思ったが、何となく、コイツには言われたくない。その場合、飼い主は……、自分ということになってしまう。素直な眼差しも何となく面映ゆくて、ノエルは「分かったから落ち着け」なんて素っ気なく返してしまった。

その様子を思い出すと、口に出そうとした言葉は皮肉っぽくて、シュネーの感情に水を差すようなものだろうと、音にするのは憚られた。……あんまり、そういう素直な反応をされるのは慣れない。金銭も、娯楽も、賭け事も、全てを脇に置いての反応なら、尚更だ。ノエルの戸惑いも知らず、シュネーは続ける。

「大人に勝っちゃうんだもん。ミヒャも……スゴイって言ってた」

……あのミシェルが?と目を瞬いた。意外だった。反発心と敵愾心を煮詰めたような目しかされたことがないから、俄かには信じられない。むにゃむにゃと口を動かしている幼子は、黙って寝ていれば天使なのに、口を開けばクソ生意気だから。…それに、凄いは凄いかもしれないが、ノエルには生まれ持った優位性がある。試合運びについては、そちらの要因が大きい。

どちらの手足だろうと、プレーの精度が劣らない事。―――天賦の両利き。

初めてボールに触れたのは、もうどのくらい前か分からない。ただ軽やかに跳び、思うままにならない白球を、夢中になって追いかけた。己の身体能力はほんのオマケで、「フットボールするために生まれたような才能」だなんて言われたのも後付けで、ただただ、サッカーをするのが楽しかった。…その気持ちのまま、いつの間にか収入源になって、生活の一部になって、切っても切り離せないものになった。

あの賭け試合は、ノエルにとっては正しく天啓で、渡りに舟であったのだ。

「……でも。……ノエル、負けても気持ちいいって言ってたから…」

だから、シュネーにそう言われた時、咄嗟に動きを止めた。まさか聞かれていたとは思わなかったから、動揺したともいえる。あんな衝動と昂ぶりに任せたセリフ…。と、思うと、聊かバツが悪い。そりゃ不安にもなるだろう。大口叩いて一緒に来いと言った相手が、巨大な借金を抱え込もうとしているとなれば、彼等の進退だって危うくなるのだ。

「勝利だけがフットボールじゃない。少なくとも、俺はそう思ってる」
「……けど、それは手を抜くってわけでも、勝利を諦めるってわけでもない」

付け加えたのは、安心させる為の一言だったのだが、シュネーの顔は晴れなかった。もっと、その心を安んじる為に、言ってやれることがあっただろう。…理性では分かっているのに、ノエルの口は勝手に、胸の裡にある思いを吐露していた。器から水が溢れるみたいに、ほんの数滴。……伝って零れてしまえば、もう歯止めは利かなかった。


「―――フットボールのことだけ、考えていたい」



ノエルだって、自分が異常だということは理解している。スポーツなんて、必ず勝敗がつくものだ。勝者がいれば、敗者もいる。誰だって、勝者になりたいだろう。……でも、ノエルは、敗北してもなお、フットボールから生じたものだとただ享受するだろう。生まれついた時からそうだったから、ノエルは自分の衝動に身を委ねているだけだった。

「嫌なことも、面倒臭いことも、全部取っ払って」

それが出来ないなら、心だって、感情だって欲しくない。我慢して、蓋をして、溢れ出ないように。……誰もが考える″普通″に適応する為に。

「―――フットボールの為だけに、生きていきたい」

他には、何も要らない。

「……いつか、」


「―――いつか緑のフィールドで、フットボールのすべてを感じられたら」



「―――……嗤うか?」

ふ、と自嘲しながら、こちらを見つめるサファイアに問い掛ける。誰にも言ったことのない、野望とも夢とも取れる望みだった。胸中を零してしまったのは、どうしてだろうか。己の庇護下にいるコイツならば、大っぱらに嘲笑するような真似はしないだろうという、自己保身に塗れた予防線だろうか。それとも、プライドだろうか。

スラムのガキが抱く妄想にしては、大それた望みだ。しがらみも、境遇も変わらない。ノエルは別に、自分の生まれを卑下しているわけではないのだ。ああなりたい、こうなりたいと、現実性のない理想を組み立てたって仕方ない。どうあっても自分の望みを叶える道筋が思い描けないのなら、それは最初から破綻した理論だ。非合理に割く時間の方が、よっぽど無駄で、不要だったと分かっているから、ただ無為に生きている。

ただ漫然と、生きてるだけ。いや……今の自分は、生きてさえいないのかもしれない。

―――死んでいないだけ。

死ぬ理由もなければ、生きる理由もないから、ただ息をしているだけ。それは、生きていると言えるのだろうか?

詮無いことを言った、と瞳を伏せる。コイツに吐露しても変わらない、由無し事だ。この少年は賢しい。ノエルが言った言葉の意味を、きっと正確に理解しただろう。緑のフィールド。こんな、土とひび割れたアスファルトではなく―――……照明に包まれた、緑のフィールド。世界の舞台。

どう答えるだろうか。無理だろうなんて、分かり切っている言葉は聞きたくない。きっと出来るよなんて、お為ごかしの言葉だって欲しくない。自分が聞いたくせに、なんて自侭なことだろう。何でもない、とノエルは前言を翻そうとした。慰めだって否定だって同調だって、どんな言葉だろうときっと虚ろに響く。

だが、シュネーは。

―――シュネーが放った言葉は、そのどれでもなかった。煌めくサファイアが、真摯な光を伴って、何処までも真っ直ぐにノエルを見た。…吸い込まれそうだ。


「嗤わないよ。―――私も見えたから」

「ノエルが、緑のフィールドを駆けるところ」

「貴方のゴールに、世界中の人々が熱狂する未来が―――、私には見えた」


楽しそうだった、とまるで本当に見て来たような口調で、シュネーは言う。


せかいじゅう。

………世界中、とノエルは口の中で、その言葉を馬鹿みたいに反芻した。今、シュネーが喋っている言語は間違いなく英語で、ノエルにだってヒアリング出来るものに筈なのに、まるで初めて聞いた言葉のように実体なく、身体の内を擦り抜ける。


出来るわけない。

スラムのガキのくせに、大それたこと言いやがって。

知ってるか?スポーツ選手ってのは才能あるやつの、更に一握りが……


満足にスパイクも、ボールも、練習時間だって用意出来やしない。どうすれば″そう″なれるのか、方法だって分からない。手段も理論も何にもなくて、このままスラムの端っこで、ただ大人になって、時を過ごしていくのだろう。……それでもきっと、何にも感じないんだろうなと、……描くことすらなかった、未来予想。


………コイツ、…………変わっているとは思っていたが、本当に変わったヤツだな。


未来が見えるなんて、お伽噺どころかフィクションの世界で、スピリチュアルな話だ。でも、こちらを見つめる瞳は思わず呆気に取られてしまうくらい真剣で、ふざけている様子も、その場凌ぎの繰り言を紡いでいるわけでもなくて。……その目の先に、何を見ているのだろう、と……美しいサファイアに、自分はどんな風に映っているのだろうと、本気で夢想した。


―――ノエルの無為な理想に………容易く色を付けた。

そんな、たった一言で。

当たり前のように―――。


ふ、と。ノエルの口元は、勝手に弧を描いていた。…大真面目な顔で、何を言い出すのだろう。きっと、目の前の子どものようなヤツは世界中探したって何処にもいやしない。ノエルの発想の斜め上をいく発言だ。…ノエルの貧相な想像力では、この目の前にいる少年の頭の中に広がる、無限の想像力の先の一端だって理解出来る気がしなかった。先が見えない……得体が知れない。だが、不思議と不快ではなかった。………バカなヤツ、と呆れにも似た思いが沸き起こる。

「…………ヘンなヤツだな、お前」

言うと、シュネーはむう、と少しだけ口を尖らせた。不本意だったらしい。

ノエルが見えないものを見ている……未だ想像も出来ない未来を、真面目腐った顔をして見えたと本気で宣う。それは、ただ応援しているだとか、信じているだとか、そんな言葉で飾るよりもずっと重くて、当たり前で、―――面映ゆい言葉だった。

汚いもの。醜いもの。…この世界に溢れる、身飽きてしまったそんなものを捨てて、綺麗なものだけを追い掛けて生きていけたら。

例えば緑のフィールドのような。例えば白と黒のボールのような。―――例えば自分を見つめる、美しいサファイアの煌めきのような。


綺麗なものだけを。


―――……、出来るわけがない。


分かってはいても、この時だけは、本気で夢に見た。シュネーが見たという景色を、ノエルも見たいと思った。シュネーの言う未来に―――その通りの己でいたいと、夢想したのだ。

……そんな言葉が嬉しいなんて、自分が一番ヘンなヤツなのかもしれない。幸せな夢想も、存外悪くない。


ハハ、とノエルは笑った。


多分、生まれて初めて、声を上げて笑った。……その声は、冬の夜の街に少しだけ響いて、雪のように消えた。




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