利己主義者Nの献身
- ナノ -


DNAが叫ぶから




……遂に、来てしまった。恐れていた時が、来てしまった。

―――ミヒャが、風邪を引いたのである。

朝起きた時から、様子が可笑しいな…とは思っていたのだ。元からミヒャが子ども体温だけど、妙に熱くて目が覚めて、その顔を見てぎくりとする。はぁはぁ、と少し荒い呼吸。とろんとした瞳。おでこに手を当ててみると、やっぱり熱い。……寧ろ、よく保ってくれた方かもしれない。私は、ごくりと唾を飲み込んだ。

……ミヒャは、あんまり身体が強くない。

これは、マミーがミヒャを産んだ時から、お医者さんから言われていたことだ。元々、出産予定日よりも早く生まれて来たこともあり、身体も小さければ、免疫力も劣る。この年頃の子はよく熱を出すのだが、ミヒャは同年代の子と比べても、体調を崩すことも多かった。生来の性格のせいか癇癪を起こし、泣いたり騒いだりするせいで余計に体力を消耗して、風邪を引いては治り、その繰り返し。……成長してからは頻度も減ったが、やっぱりその体質が劇的に改善したとは言い難い。

急いで持っているだけの服を被せて、おでこに濡れたタオルを当てて、水を含ませる。しゅべすたぁ、と私の名前を呼ぶ声が掠れている。……どうしよう。…どうすればいい?

…病院、と思考を走らせる。保険証なんて持ってないけど…掛かったら、診てくれるんだろうか。出世払いでも何でも良ければ、いくらでも払うつもりはある。念書を書いたって良い。…とにかく、こんな寒々しいところではなくて、何処かきちんと休めるところで養生させてやりたい。今までの経験上、二、三日ぐっすり寝れば、経過は安定することが多かった。

でも、どうすれば……、

「シュネー、入るぞ」

あ…。……ノエル少年。すっかり馴染みとなった少年に向けた私の顔は、あんまりにも情けないものだったのだろう。僅かに目で細めて「どーした」と問い掛けられる。……ミヒャが。ミヒャが、風邪引いちゃったの。………身体が弱くて、体調崩しやすくて、何度もあったことだけど、私はその度に動揺してしまう。…何度直面しても慣れない。

「……こんな劣悪な環境にいちゃ、具合も悪くなるだろう。……どうする?モグリでいいなら、医者も知ってるが」

そんなブラックジャックみたいな人が…。天才外科医?…でも、背に腹は代えられないかな。いや待って…もうすぐ二週間だよ。明後日が、約束の時間。保護の申請が通れば、ちゃんとしたお医者さんにだって診て貰えるかもしれない。……今日と、明日は…。安いモーテルくらいなら、何とかなるかもしれない。………コレを売れば、と胸元に掛かる首飾りを握る。母の顔すら覚束ないミヒャに、残してあげたかったけど……、マミーもきっと、許してくれるだろう。

「…大丈夫。もうすぐ、申請してから二週間だから…。それが通れば、」
「バカか、お前は」
「……えっ?」

バ、バカ?バカっておっしゃいましたノエルさん?

「その申請をしてる人間が、このフランスにどれだけいると思ってる。二週間どころか、半年待っても通らないかもしれねーぞ。そんな簡単に援助が受けられるなら、路上生活者がそこかしこに溢れてるわけねーだろうが」

………そ、そうなの?

ところどころヒアリング出来なかったが、ノエルの言いたいことは何となく分かった。つまり、あの路上でキャンプをしている人達は、私達と同じような申請待ちの人達だというわけだ。下手をすれば、想像も出来ないほどずっと前から、ああして生活をしている。…でも、だったら、どうすればいいの。……私にどうしろって言うの。―――もう、私達には、帰るところだって……。

項垂れている私に、追い討ちを掛けるようにノエルが言う。

「思考からやり直せ。他に取れる手段がないか、考えてみろ」
「……でも、私……。頼る人もいなくて……、他の方法なんて、」

あるわけない。身一つでここまで来たんだ。公的な組織が頼れないなら、他の方法なんて以ての外だ。


「そうか」


「―――なら勝手に、野垂れ死ね」



……
…………え?

なんて言われたのか、分からなかった。俯けていた視線をのろのろと上げると、氷のように冷たい、酷薄な瞳と目が合って、ふるりと背筋が震えた。初めて会った時に感じた優しさなんて見る影もない、ひどく冷然とした目…。そこに込められているのが呆れなのか、失望なのか、想像するのも恐ろしい。元々表情があまり変わらない人だと思っていたけど、不良を追っ払ってくれたり、道案内をしてくれたり、訪ねてくれたりと…その行動の端々から優しさを感じていたから、こんなこと思ったことがなかった。

でも、初めて、彼を怖いと思った。

―――機械的で、冷ややかで、何の感情も籠らない目……。

「お前は良くても、弟はどうなる。思考を放棄して、遠回しな自殺願望を全うしたいなら好きにしろ。…それに巻き込まれる側は、堪ったもんじゃないだろうがな」

心の何処かで、温かいを言葉を期待していたのかもしれない。自分が世界で一番可哀想な気になって、大丈夫だよ辛かったねと、同情してくれるのを望んでいた。市庁舎の役人にも、多分きっと、目の前のこの少年にも。

―――理解した途端、私は愚かであったことと、怠惰であったことに、生まれて初めて、心の底から羞恥を覚えた。

…ああ、そりゃそうだ。ようやっと理解して、顔から火が出そうなくらい恥ずかしくなった。何処まで子供なんだ、私は…。……そうだよね、当たり前だ。申請をした時でさえあれほどの長蛇の列で、限定のイベントじゃるまいし、あの日だけ特別だったわけもない。連日連夜、ああやって申請する人達でごった返して、その処理に追われる人達がいる。

己の目算が如何に夢見がちで現実味のないものだったか、痛烈に実感した。

沈黙が、落ちる。…何にも言い返せなかった。バカだ…私。今まで何をしてきたんだろう。日本で私は、何を学んできたの。…どうして私は、こんなにも物知らずなのか……あんなに恵まれた環境にいたのに。過去に戻れるなら戻りたい。…今、心底から学びたいと思った。―――それは飢餓にも似た、生きる手段を得る為の知識欲。

私は良いのだ。どうなったって、もう、悲しんでくれる人なんていないんだもん。遠回しな自殺願望と言われても仕方がない。誰かの慈悲に縋って、希望的観測に浸って、怠惰で他力本願で、……そんな私が一人で野垂れ死ぬのは勝手だろう。


でも、ミヒャは?

ミヒャは違う。…この子を連れ出したのは、他でもない私なのに。

―――ミヒャが死ぬことを、私は仕方ないなんて思えない。

ミヒャは、どんな大人になりたい?何がしたい?……ミヒャの理想を、この子の口から聞きたい。

………この子の輝かしい未来を……、…………諦めたくない。


横たわる、永遠にも似た沈黙。それを破ったのは、―――…私がずっと守っている気でいた、小さないのちだった。


ゴン!と痛そうな音がする。ノエルとミヒャが初めて対面した時にも聞いた音。違うのは、音の発生源が全くの逆だったことだ。はっとして顔を上げると、ミヒャは小さな足を振り上げていた。一度だけではない。今度こそ私の見ている目の前で、思いっきり、手加減なしにノエルの弁慶の泣き所を蹴り上げる。…ひょ?!と弟の暴挙に目を丸くした。何してんの、ミヒャ君?!


「―――しゅべすたーをいじめるな!!!」


掠れた、大きな声が部屋に木霊する。

「しゅべすたーをいじめるな!!」
「バカ!!吊り目のっぽ!!しもじものぶんざいで!!」
「あやまれ!!……しゅべすたーにあやまれ!!ばーかばーか!!!」


………ミヒャ。


まだ小さくて、世界とも、家族以外の人々との交流も浅いミヒャの語彙力は、それはもうびっくりするくらい貧弱で。罵倒も口汚いどころか、何処か尊大で愛らしいものだったけれど……熱に侵されているとは思えないくらい、力強くて雄々しくて、生命力に満ち満ちている。

言葉なんて分からないはずだ。私だって、ノエルの発する英語を全部理解してるとは言い難い。母国語であるドイツ語ですら覚束ないミヒャは、言わずもがなだろう。でも、この子は、昔から察しが良いのだ。周りが発する悪意に、殊の外敏感で、自分をよく思っていない使用人には決して懐かない。…私達二人の雲行きを、感じ取れないわけがないのだ。

茫然と、小さな背中を見る。何度も容赦なくノエルの脛を蹴る……私を守るように立ち塞がる、小さい背中。

守るどころか、守られていた、―――小さい背中。

……いとしい背中。

…………って、ぼうっと見てる場合じゃねェ!!!慌てて我に返り、ミヒャを抱き上げる。ダメダメ!何はともあれ暴力はダメ!殿中でござる!殿中でござる!!

「こら、ミヒャ!!やめなさい!」
「しゅべすたーをいじめるヤツなんかキライだ!!おれが、……おれがやっつけてやる!!」
「……ミヒャ、」

不意に、鼻の奥がツンとした。…両手でふんわり抱えていた、小さな赤ちゃんだったのに。あんなに小さかったのに、こうして全力で暴れられれば、対応に苦慮するくらいに大きくなった。天使のように愛らしくても、羽が生えているわけでもなく、ずっしりと重い、ちゃんと男の子だった。

……私を守ろうと必死になってくれるこの子を、愛しいと思わないわけがない。

ミヒャ。
―――……お姉ちゃん失格だね、私。

「ミヒャ、大丈夫。……大丈夫だから」

私はミヒャを一層強く抱き締めた。温かくて、柔らかくて、胸が潰れそうなくらいに愛おしい、私を生かしてくれる命を感じる。…寄る辺の無い私を、ミヒャのお姉ちゃんでいさせてくれる存在。……私なんてどうなったっていいけど……、あぁ、嘘だ。……そんなの嘘だ。―――ミヒャと、ずっと一緒にいたい。……ミヒャ。

―――私は私のエゴに、この子を巻き込んだ。

その責任だけは、きっちり取るべきではないか。ちっぽけなプライドなんかあったって、それでご飯が食べられるだろうか。思考を中断して、振って来る幸運をただ待つだけの、そんな余裕がお前にあるのか。ノエル”少年”だなんて、何様だろう。彼は私よりずっと大人で、地に足をつけて生きている、立派な先達だ。―――思い上がるな、シュネー。この大馬鹿野郎。

決めたんじゃないのか。

全力で、お姉ちゃんを執行するって、決めたんじゃないのか。

他人の慈悲に期待する、他力本願な自分。それが、今の私だ。だったら、どうするか。……何にもないんだったら、それを貫くこと。厚顔でも、恥知らずでも、地に頭を擦り付けて、泥を啜って、汚濁に塗れて、……助けて下さいって、……言うことしか出来ないじゃないか。

目の前の少年に、恥も外聞もなく、慈悲を乞う。―――それがダメなら、持てるものは何だって使おう。…”何だって”、だ。

「………ノエル。………私達を、」
「待て」

だけど、折角固めて発しそうとした言葉を、ノエルは遮った。

………ダメか。そうだよね、………だって、彼には何の義理も……、

でも、ノエルの言葉は、私が想像したものとは違っていた。悪かったと、何故かノエルが謝る。えっと、私が怒られるのは全然その通りだし、分かるから、謝られる理由なんてないんだけど…?と小首を傾げる。言い募るノエルの方が沈痛そうで、傷付いてるようにさえ見えた。……そんな顔されると…、なんか、尚更申し訳ないんだけど。

「…ノエル?」

私達の存在が、彼にそういう顔をさせているんだろうか。…だったら、私が言おうとしたことなんて、より一層苦しめることになるんじゃ…という思いを掻き消すように。―――ノエルは、真っ直ぐ私を見た。

「―――シュネー、俺と来い」

「一度助けたんだ、最後まで責任は持ってやる」

―――一緒に来い。

…………一緒に。……一緒に行っても、いいのだろうか。私が言いたいことを、気が引けないように、全部先に言って貰った気さえする。でも、ノエルの目があまりに真剣で真っ直ぐで、その中に自分が映っていると思うと何とも言えない気持ちになってくる。……もし、今。ノエルの手を取ることが許されるなら。そうすると、いうのなら。

―――私は、彼に何か、返せるだろうか。

返せるものがあるだろうか。

……返し切れないくらい恩が積み重なりすぎて、借金で首が回らなくなる人の気持ちが、分かった気がする。

………一生懸けて返していきます。…宝払いで。………だからあの、今は、そのぅ。

「………よろしく、………よろしくお願い、します」

何だかお嫁に行くみたい、なんて泣いた烏がもう笑ったくらいの単純さで、トンチンカンな方向に走る己の思考に自嘲しながら、囁いた。

ミヒャの身体に隠れていると、笑ったような声がしたけど、恥ずかしくてノエルの顔が見れなかった。




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