利己主義者Nの献身
- ナノ -


落ちこぼれの天使たち




「……おい、レンチ」
「ん」

カチャカチャと、器具と機械がぶつかる金属音が響く。鉄と錆びと油の臭い。もう冬だというのに、ここはひどく蒸し暑い。額に落ちる汗を拭うと、車の下に潜っていた男がのそりと這い出て来た。服も顔も、何処もかしこも油汚れに塗れている。彼は頭に巻いていたタオルを取ると、無造作に汗を拭った。そして、車の脇に屈み込んだままの少年を見る。

「……今日はこのくらいでいい。……あぁ、そこにある道具、手入れに出しとけよ。後、これはいつものところに届けておけ」
「…分かった」

分かりましただ、クソガキ、と睨まれて、分かりました、と言い替える。すると「相変わらず可愛げのないガキだ」と唾棄しながら吐き捨てられる。男は野良犬にするようにセント硬貨を数枚床へ放った。手伝いの駄賃である。生意気だと言われても少年が使われているのは、人一人雇うにしては破格の手間賃で、彼が良く働くからであった。奥の事務所に消えて行く背中を見送ってから、投げ捨てられたコインを拾ってポケットに入れ、指示された通りの仕事をこなす。

少年―――ノエル・ノアは日々の身銭を稼ぎながら、フランスのスラム街で生きていた。

華やかなイメージがあるパリの街であるが、貧富の差という意味では、世界でも飛び抜けて落差が激しい。生まれた場所が悪かったと、それが定められた運命だと言われれば、身も蓋もないがそれまでである。富裕層に生まれるか、貧困層に生まれるか、環境の差は教育の差となり、いずれは就職、生活、学歴の差にまで発展し、格差を浮き彫りにさせる。…少年が生を受けたのは、犯罪と貧困と隣合わせのスラム街の片隅だった。

幼い頃は、それなりに幸せだったのかもしれない、と思うこともある。貧しいながらも両親と暮らした日々。だが、物心付く前にその生活は呆気なく破綻した。失業と、掠奪と、ドラッグと…枚挙に暇のない要素が相まって、ただでさえ砂上の楼閣ともいえた家庭は崩壊し、……酒とクスリに溺れた父親の暴力に晒され、怯えて眠る日々に様変わりした。

そんな生活に比べれば、今一人で暮らしている時間の方が遥かにマシだ。

ポケットの中で、ちゃり、と小銭が鳴る。同時に、腹の虫も鳴き始めた。バイト程度の日銭で、家賃、ライフライン、食費に至るまで賄えるかといえば、当然否だ。だが、ノエルには別に収入を得る充てがあった。そういう意味では、他のスラムの住人よりは贅沢な生活をしている部類だろう。どんぐりの背比べと笑われようが、スラムの中でも格差はある。小遣い稼ぎ程度の仕事を渡り歩き、その日その日を繰り返す日々。

とにかく金だ。金が要る。

…この街は、餓鬼一人が生きていくにしても金が掛かりすぎる。パリの中でも街区の外縁に近いスラムが、少年の住処だった。いい加減取り壊し命令が出そうな程ボロい、外壁がところどころ剥げた集合住宅。それでもバラックに比べれば雨風も十分凌げて、寒さにも耐えうる。かつて両親と共に住んでいた部屋だが、大家は住人がノエル一人になったところで、金さえ払えばとやかく言わない。勝手に侵入して無断で住んでいる輩がいる中、まだ家賃を払っている彼は律儀だった。

「よー、ノア。仕事終わりか?…金が入ったならどーだ?安くしとくぜ」
「…要らねェよ」

顔見知りの売人が、ニヤニヤ笑いながら声を掛けて来る。この街で手っ取り早く稼ぐ方法といえば、売人になるか、斡旋をするか。危険な橋を渡ることになるが、その分リターンも大きい。だがノエルは、ドラッグに関わる仕事にだけは手を付けたことがない。意気地のないヤロウだと言われようが、構うものか。…父親が暴力と酒に溺れた最大の要因を忌避するのは、当然の感情だろう。背中に掛けられる罵声を無視して、路地を歩く。

これが終われば、次の仕事が待っている。犯罪に手を染めることをしないのならば、得られる僅かな金銭で切り詰めた生活をするしかない。成果と代償は等分だ。子どもながらに、ノエルは世界の原理ともいえる等価の理論を理解していた。

真っ当に生きようとする、その原動力もまた、少年が抱いている夢とも野望とも呼べる理由に在った。

冷たい風が吹き付ける中、ポケットに手を突っ込んで路地裏を歩く。幼い頃から幾度も歩いた、知り尽くした道である。迷路のようにもなっている入り組んだビルとビルの間を難なく擦り抜け、ショートカットが出来るのも経験から来るものだ。頭の中で道筋を組み立てて、すいすい、と歩を進める。

気付けば、雪が降り出していた。もうそんな季節か、と口元を隠すようにパーカーを引き上げる。フランスの冬は殊更に寒い。その寒さを凌ぐため、色々と物入りになる。雪に閉じ込められれば、スラムの空気は一層陰鬱に、陰惨になる。今年の冬を越せるのか…路上に住む者達からすれば、死活問題だろう。…冬は嫌いだ、と目を細めた。

煙草の吸殻や、放り投げられたゴミや、吐き捨てられたガム。それらが乱雑に溢れている路地裏に、いつもとは違う、珍しいものが落ちている―――そんな光景に巡り合ったことを、運命と呼ぶべきか、否か。それがまこと運命であったのだと、彼が実感するのは数年後のこと―――。

ともかく、少年は出逢った。

蹲るようにして地面に横たわる、小さな存在に。

第一印象は、あまり良くないものだったけれど。

「(………何だこれは)」

まあ、問うまでもなく、人間なのだが。

ノエルは警戒心を滲ませて、距離を取ってその塊を観察する。相手がドラッグでキマっていれば、手痛い一撃を食らうかもしれない。そうでなくても、弱者を装って善意で近付いた者を襲って来る輩も少なくない。関わり合いになるつもりもないので、いきなりの襲撃に備えたまま、横を通り過ぎようとした。

そのまま、何事もなかったかのように過ぎ去るはずだった景色の一つ。だが、横合いの視界に映ったのは、想像していたものよりずっと小さな、何かを守るように蹲っている身体だった。子どもだ、と考えるまでもなく察した。

ノエルの光景に、ある光景がフラッシュバックする。数年前の記憶。……地面に転がる、物言わぬ―――…。

その記憶を振り切るように軽く頭を振る。ぐ、とポケットの中の手を握る。考えても仕方ないのに、自然と足が鉛でもついているみたいに重くなって、ノエルは狭い路地から出ることが出来なくなった。………くそ。これが大人であれば好きなだけ見て見ぬ振りが出来たのに、と内心で舌を打って、踵を返して倒れている人物の傍らまで寄った。冬も近いというのに薄い服装、頭に被さったキャップ帽、ズボンと靴の間から覗く生白い肌、ぎゅ、と胸元に紙袋を寄せる小さなてのひらを、具に観察した。

………もしかして、死んでるのか?

疑問を解消するため、ノエルは倒れている人物をツン、と爪先で軽く蹴ってみた。すると、うう…と僅かに身動ぎする。…何だ、生きてるのか。人騒がせな。スラム街は無秩序と思われがちだが、最近は地位向上のため尽力している顔役のお陰か、昔よりは治安が良くなっている…らしい。無論、ドラッグでラリっている連中や、銃を持った輩もいるが、少なくとも、当たり前に死体が転がっていることはないくらいには。

それでも放置すれば、この行き倒れがカチコチの死体に取って代わるのは時間の問題だ。今年最初の雪は、この分だと積ることはないだろうが、人の体温を奪うには十分だ。おい、と声を掛けようとして、は、と息を詰める。ドタドタと、煩い足音が複数近付いてくる。現れたのは、近隣で有名な悪ガキ共だった。いたぞ!と声を上げるのも束の間、そこに立つノエルを認識して、う、と足を止めた。

「……おい、あれ…」
「何でノアがいるんだ」
「どうする?」

ひそひそと、遠巻きに囁きが落ちる。彼等がチラチラと交互に見ているのは、ノエルと、地面に転がった行き倒れ。…これを探していたのか、と当たりをつけるのは容易い。大方集りでもしていたのだろうが、自分達より幾分も年下の人間を食い物するしか知らない、低能で下賤な振る舞いは目に余る。両者の間に立ち塞がるように立ち、ポケットに手を突っ込んだまま眼光鋭く睨み付けると、弱い者にしか抗えない小物共は震え上がった。

幸か不幸か、ノエル・ノアという少年は体格と運動神経に恵まれ、喧嘩であれば同年代でも負け知らず、近所の悪ガキのみだけではなく、大人のならず者からも一目置かれていた。身体能力のみならず、彼が持つ特別な理由も相まって、数人の悪ガキだけではとても歯が立たない。

「……うるせーな。相変わらず、狡いことして小金稼いでるみてーだが…」
「…お、お前には関係ねーだろ!」
「そ、そうだ!どけよ、俺達はそいつに用があるんだ」

竦んでいるが、虚勢だけは一丁前だ。ノエルは、再び倒れている人物に目をやった。怪我をしている様子はないから、別に暴力を振るわれたわけではないのだろう。安心した。……そうであれば、手心を加える理由がなくなる。

「まあな、俺には関係ない」
「…そ、そーだろうが!分かったら…」
「だが、生憎コイツに用があるのは俺も同じでな。……前からお前達のやり方は気に食わなかったんだ」
「………」

より剣呑さを増すノエルの目に、じり、と自然と後退る。弱い者にしか力を振るえないものは、自分より上位の者には対する反応が二つに分かれる。一つ目、少しでも気に入られようと媚び諂うか―――二つ目、勝てないと分かっているからこそ、尻尾を巻いて逃げるか。

「……徒党を組んでしか出来ねーカツアゲを何処でしようと勝手だがな……鬱陶しいから、俺の前ではやめろ―――」

「………三秒で消えろ。……じゃなきゃ、分かるだろ?」

ザ、とノエルのスニーカーが前に進む為、音を出す。それが皮切りとなり、少年達の天秤は一気に二つ目に傾いた。耳障りなスラングを零して、背を向けて逃げて行く。…これで向かって来るなら良い気概だと思うんだがな、と小さく息を吐いて、ポケットから手を出す。まあ、無駄な体力と時間を使わない選択肢は利口な方か。

さて、今度はこちらだ。

ノエルは、おい、と声を掛けた。くるんと丸まったまま、相変わらず微動だにしない。後生大事に抱えている紙袋もそのままに、近くで結構大声を出していたのだが、目覚める様子はない。…面倒だが、先程掛けられなかった声を何度か掛けて、つん、と脇腹辺りを蹴って見る。見物人が居れば足で起こすな、と言われるかもしれないが、手で優しく揺り起こしてやるのも面倒臭い。

「……おい、起きろ」

何度目かの声掛けの後、ようやっと顔が緩慢な動作で上げられる。前髪に隠れて見えないが、薄っすらと覗く瞳と、薄く開いた唇がその人物の覚醒を示している。……やっと起きたか、と息を吐く。だが。

「………天使さま?」

ノエルは、思いも寄らぬ言葉を聞いて、数拍言葉を失った。次いで、湧き上がって来たのは呆れに似た感情だった。何処をどう見たら、自分のことが天使に見えるんだか。ふざけてないでさっさと起きろ、と肩を掴むと、目深に被った帽子のせいで見えなかった顔貌が露わになる。

…今度こそ、ノエルは本当に言葉を忘れた。

ただ、先程のように呆気に取られたのではなく、驚きで。

はらりと零れる、肩口までの髪。空から降り注いでいる雪のように白い肌。大きな眼窩に埋め込まれている双眸は、煌めくサファイア。…天使のようだというなら、その言葉がこれほどまで似合う相手もそういない。

―――少なくとも、ノエルが今までの人生で見えた中では、この間抜けな行き倒れが一等綺麗な人間であったことは疑いようがない。

「………」
「……あ、ごめんなさい」

ぼんやりとしていた視神経が再起動し、像を結んで焦点が合う。澱んでいた瞳が光を取り戻し、キラキラと吸い込まれそうな輝きを宿していく様を、ノエルは至近距離で見つめていた。見惚れていたと言ってもいい。サファイアの主は無表情の少年に、支えられているせいだと勘違いしたのか、小さく謝った。は、とノエルも我に返る。そして、バッと肩を掴んでいた手を離すと、そのまま支えを失った小さな体躯はぺたりと地面に尻餅を付いた。

「……すみません、……あの、ありがとうございます」
「…いや」
「その、変な人達が来ませんでしたか?……ここに」

滑り出たのは、流暢な英語だった。ノエルは眉を顰める。スラム街は移民が多いので、フランス語を母国とするノエルでも万国共通語のヒアリングくらいは出来るが、話すのは難しい。そもそも、ほとんど実地で覚えたもので、まともに教育を受けたわけではないので、文法すら覚束ない。

「……Mauvais garçon共なら、追っ払ったぞ」
「…?…モヴェ…?」
「………あー、なんていうんだったか……Naughty one(不良少年)…分かるか?」

ノエルはガシガシと後頭部を掻きながら、しゃがみ込んで視線を合わせた。こいつがどこの言語体系を母体としているかなど、正直知ったこっちゃないのだが、フランス語が伝わらないのだからフランスではないのだろう。なけなしの知識を引っ張り出して、英語で伝えると、こくりと頷かれる。まるで幼子を相手にしているようだ。小さな身体と稚い表情で、一層そう思う。

「……お前、何か盗んで追い掛けられてたんじゃねェだろうな?」
「……、……steal?」
「そうだ。……あー…面倒くせェな。……Thief?Robber?」

フランスにいるんだからフランス語を喋れ、と半ば理不尽めいたことを考える程度には、意思疎通が出来ないことが面倒になってきた。ジェスチャーで、ん、と相手と抱いている袋を交互に指差す。そして首を傾げると、暫く考え込んでから、ふるふる、と首が振られた。意味は通じたらしい。…そうだろうな、とは思ったが、一応確認だ。成り行きで庇う形になってしまったのに、本当はコイツの方が悪党であったら笑えない。まあ、見るからに鈍臭そうなので、いくら奴等でもこれに物を盗まれるようなヘマはしないだろう。

「なら、強請られたか。ここいらじゃ、あんな輩がウロウロしてる。…悪い事は言わねェから、とっとと帰れ」
「……?」
「………通じねェか」

さっきから、右に左に小首を傾げられるばかりだ。

「………家に、帰れ。…ここは危ない。………送って行ってやる」
「……ありがとう」

仕方なしに、なけなしの英語知識で文法を構成してみる。…最後の一言は、思わず突いて出たものだった。旅行者なのか知らないが、見るからに世間知らずそうなガキは放っておけばまた絡まれるのが目に見えている。実際、そうなったとてノエルには何の義理もないのだが、自分でも不思議だ。…まあ、目覚めが悪いからだろう。偶然でも、一度助けた相手だ。

「……大丈夫か?」

こくこく、と頷かれるが、どうにもこの―――シュネーと名乗った少年の足取りは頼りない。顔色が悪いのは、雪のせいで寒いだけではないだろう。後ろからついていくが、何度も何度もキョロキョロと顔を動かしている。…まさか、家が分からない?迷っているのか、と思い聞いてみると、目印らしい店の名前を言われるので、そこまで先導する。すると、そこからは迷いのない足取りで、こっちこっち、と指で示して来る。

そういう仕草が地元の者ではないと顔に書いて歩いているようなものだから、余計に注目を集めるのだが。ジロジロと向けられる視線から庇うように背に隠し、大人しくしろ、と低く声を掛ける。シュネーは、こくりと頷いた。…本当に分かっているのか?と思うような、曖昧な首肯だった。年の頃が幾つかは分からないが、恐らく十かそこらだろう。これを一人で出歩かせるなんて、親は何をやってる…と胸中を呆れで満たしている…と。

シュネーは思いも寄らぬところで、足を止めた。てっきりスラムの外まで出て行くと思っていたのに、出逢った場所からいくつも離れていない場所、もう使われていないであろう、廃ビルを示す。

………ここに住んでいるのか?

ノエルは、ぽかんとした。格好は薄汚れているが、仕草も発音も洗練されているから、良いところのお坊ちゃんだと思ったのに。こういうのには育ちが滲むものだ。一朝一夕で身に着くものではない。第一、このスラムで噂にならない筈がない……こんな少年がいれば。

だが、そんなノエルの当惑も何のその、小さな背中はあっという間に廃ビルの中へと消えて行く。仕方なしに、その後を追った。

カンカン……昇る度に金属音が反響するのは、古めかしい階段と、だだっ広い空間のせいだった。使われなくなって大分経つのだろうが、壁の落書きやゴミの散乱具合から、溜まり場としても利用されていたんだろうと分かる。だが、ボロボロの壁材や窓のせいで、これから迎える季節の住処としては不向きだろうと外観だけでも察するには十分だ。……少なくとも、今は人の気配がしない。

体格の所為もあり、先を行くシュネーを追い掛けるのはさして苦労しなかった。キイ、と廊下の一番奥、薄暗い事務所のような一室に入って行くのについていくと、シュネーは誰かと話しているようだった。毛布に包まれた何かを抱き締めて、優しくキスを落としている。その横顔がこの上なく幸せそうで愛しげだった。……こんな顔をするのか、と思いながら、今度は腕の中の人物に視線を向ける。

「……弟か」

紹介されずとも、分かる。…よく似ている。淡い金髪と、煌めくサファイア。虹彩の色は弟の方が濃く見え、瞳も吊り目がちだが、一見して血の繋がりを感じさせる。大分年が離れているようだが、兄弟であることはすぐに分かった。

「……だれ?コイツ」

ノエルの姿に気付いた弟は、むう、と分かりやすく眉を顰めて、ノエルを指差した。窘められているが、頑なに指を下ろさない。…生意気が顔から滲み出ているな。

「…おれはミヒャエル。ミヒャエル様って呼べ!」

……ピキ、とノエルのこめかみに筋が浮かんだ。ドイツ語は分からずとも、今この子どもが何を思ってこう言ったのか、ニュアンスくらいは伝わる。胸を反らして、小さく膨らんだ小鼻。こういう態度のガキは、よくいる。そしてそういう輩に、どう対処すればいいかも心得ている。ノエルは躊躇わなかった。

「ぴゃ!」

小動物が鳴くような声が廃ビルの一室に響いた。何をされたのか分からなくて、数秒固まり、現状を理解して、ふるふると震え出す。

「ノエル!何するの」
「ぶった」
「どうして?!」
「言っても分かりそうにないクソガキの躾には、痛みが良く利く」

こういうのは、最初に上下関係を叩き込んでおくもんだ、といけしゃあしゃあと宣った。悪気など皆無である。力こそパワー。口で言うだけで自分の意見が通っていれば世話はない。ノエルは舐められるのは嫌いだった。シュネーのように素直なら相手ならともかく、目の前にいるクソガキのような相手ならば尚更。

「……よしよし、ミヒャ」
「うわァあああぁああん!!!」
「これに懲りたら粋がる相手は選ぶんだな」

ぶたれた頭を撫でながら慰められている子どもへと吐き捨てる。容赦など知らない。一頻り泣いた後、ミヒャエルと名乗った少年は瞳いっぱいに涙を溜めて、ギッとノエルを睨んだ。ん、と少しだけ印象を変える。甘やかされ可愛がられているだけの、甘ったれ世間知らずだと思ったが、中々どうして強気な目をするものだ。殴られても、痛みを越えてノエルを睨むだけの気概があるらしい。びしい!と再び突き付けられる指。…指差すな。

「―――コイツ、キライだ!!!」

ぴいぴいと泣き喚いて、それがミヒャエルの初めて抱く感情、敵愾心であった。だが、ミヒャエルの心情を考慮するほどノエルも優しくない。フン、と鼻を鳴らして腕を組む。そんな余裕綽々な態度にも、また感情のボルテージを上げる。バチバチと、火花を散らして視線が絡む。気の毒なのは、おろおろと二人の間に挟まれている少年だけだ。


この兄弟―――姉弟との出逢いが、互いの運命を大きく確定付けたことなど、知る由もなく。


一人の女を基点として、いずれ義理の兄弟となる二人の生涯変わらぬ関係性もまた、この出逢いにより不動のものとなったのだ。



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