利己主義者Nの献身
- ナノ -


雪の華の満開の下




―――……許すまじ……許すまじ、メトロポリス……!!!つくづく腐ってやがる……!!!

駆逐してやる…、この世から、一匹残らず……!と血涙を流しかねない勢いで怨嗟を零す、若干十二歳。この街に辿り着いて早一週間、心は荒みに荒んでいた。

ここまでの転落街道もあろうかと、人を呪わば穴二つと言おうか、私達を取り巻く環境は悪化の一途を辿っていた。住処は当然なく、市庁舎に日参してもなしのつぶて。路銀が底を尽き、ならば換金しようと貴金属を持ち込んでも、二束三文で買い叩かれる。身体からは年頃の娘からしちゃいけない臭いが漂い、仕事を求めて流離っても、誰もこんな小汚い小娘なんて雇っちゃくれない。

………拙い、これは、本格的に拙い。

私は都会の喧騒に怯えるミヒャを廃ビルの一室に隠し、今日も今日とて街を彷徨う。ここ最近まともに食べていないが、もう手元にはコインが二、三枚しか残っていない。うーん、とコインを握り締めて思案する。臆病な自尊心と、尊大な羞恥心がせめぎ合う。心だけならとっくに虎と化している。…だけど、私のちっぽけなプライドなんて、ミヒャの安全には代えられない。そう決意して、到達した思考の極致。

―――そうだ、髪を売ろう。

そうだ、京都行こう的なノリで決意して、早速高値で買ってくれそうな店を探し始める。自慢じゃないが、今世の私の髪はアジ○ンスのCMもかくやというほど、艶々でサラサラの素晴らしいブロンドヘアーだった。…まあ、今はちょっときちゃないかもしれないけど。でも洗えばちゃんと綺麗になる。

着の身着のまま、持っていたお金を使い果たしてしまったところで、私が売れるもの。……身体か、技術か。まー、手っ取り早くは前者でしょ、と即決した。マミーから教わった技術はあるけど、雇って貰えなきゃ意味がない。とにかく、お金がいる。明日の食事にも困る身、私はともかく、ミヒャを飢えさせるわけにはいかない。

別に身体って言ったって、あはんうふんな意味ではない。思い付いたのが、髪だった。若草物語だ、若草物語。髪って意外と需要あるんだよ。繊維技術が発達しつつあるけど、人工毛のウィッグだって未だにあるし。…辿り着いた先は、ぽつんと街の隅にある、ちょっと廃れた理容院。

「……本当にいいの?」
「はい」
「本当に、本当に?」
「はい、お願いします」
「……切るわよ?」
「どうぞ」

店に居たのは、店主らしき年配の男性と、その娘さんらしき女の人だった。簡単な英語を駆使して、髪を売りたいんですかくかくしかじか、まるまるうしうしと説明すると、二人は吃驚していた。どーしてもお金が要るねん。お願いしますん。いくらで買ってくれる?と聞くと、顔を見合わせた後、結構なお値段を提示してくれた。おっ、いいじゃん、交渉成立ぅ。

シャンプーをしてもらってから改めて椅子に座り、後ろから私の髪を触った女の人ははぁ…と溜め息を吐いた。さらりと零れる髪は、背中の中頃までの長さだ。綺麗、と小さな呟きが落ちた。えへへ、そーでしょ?髪には自信があるんですよ、髪には。

何度も何度も念押しをされて、それでもなお力強く頷くと、鏡の中の女性は泣きそうになった。やめて、こっちが悪いことしてる気分になるやん。いーんだよ、髪はまた伸びるんだから。伸びたらまた売れる。うーん、中々良いコストパフォーマンスじゃね?天才かも。ほとんど半泣きになりながら髪を切り、お金をくれた二人に御礼を言って店を出る。ほくほくである。毎度ありィ。

うーん、頭が軽い。ボブカットくらいだけど、丁度いいかも。キャップ帽を被って、ズボン姿の今、ボーイッシュ系の男の子にも見えるだろう。うう…でも冷たい風で首がちょっとすーすーする…なんてことを考えながら、たたっと廃ビルを目指す。これでご飯が買える!待っててねミヒャ、お姉ちゃんはすぐ行くよう!

………なんてことを考えてたのが、数十分前。

「いたか?」
「いねェ!」
「どっち行った?!」

……どうしてこんなことに……。天に問い掛けても答えちゃくれない。私は壁にへばりついて、息を詰めた。

情けないぜ〜、助けてくれ〜、もう駄目かも、しれない〜ミアミ〜ゴ〜。……歌ってる場合じゃない。でも、今の状況はあの歌詞そのものだった。例の奴等に追われてるんだ!…以前例に出したのが悪かったのだろうか、こんな展開を望んでいたわけではないのに笑えない。

あの後、私はすぐさまパン屋に掛け込んだ。うす汚れていたとて、お金があるなら立派にお客。数個の惣菜パンを選んで、袋に詰めてもらい、ミヒャのもとへを急ぐ。慌てていたので、軽く蹴躓いた拍子に握っていたお釣のコインが落ちる。…それを見咎められたのだと、今なら分かる。後ろから悪ガキ風の少年数名に声を掛けられた。言ってる意味はあまり分からなかったが、要約するとこうだ。………お前ちょっと飛んでみろよ、なんて典型的なカツアゲの言葉。実在したのか。逆にプレミアム。

と、感動したのも束の間。隙を見て、路地へと逃げ込み、小さい身体を生かして瓦礫を潜ったりえっちらほっちら。結構な間逃げて、何だか治安の悪そうな場所に入りこんでしまったみたいだが、敵も然る者。彼等はこの辺りを知り尽しているようで、何処までだって追い掛けて来る。…くそう、地の利はあっちにあるか…。助けて孔明さま!

トカゲのように壁にひっついて、隙を見てそろそろと動き出そうとした…ところで。ぐうう、と盛大に鳴ったお腹の音に、頬を引き攣らせてしゃがみ込んだ。…拙い、地鳴りみたいな音した…。もしくは、動物の唸り声か。ここ最近まともに食べられていないのは私も同様で、香ばしい小麦の匂いがしているせいか、空腹が刺激されてしまったようだ…うう、お腹空いたぁ…。

でもダメダメ、まずは食べ盛りのミヒャを満腹にしてから…と壁に手を当てて立ち上がろうとする。…が、今度はエネルギーが足りていないせいか、立ち眩みがした。……本格的に、目の前がチカチカする。動悸がする。…これ、もしかして、拙いヤツ?…あー、ダメだってば…こんなところで気を失っちゃ、何があるか分からない。叱咤する意識とは裏腹に、身体は手足の先から力を失っていく。

……追い討ちのように、ひらひらと空から舞い落ちるは、綺麗な氷の結晶だった。

………どーりで寒いと思った…。もう、雪の降る季節かぁ。うふふ、初雪だぁ…と、脳味噌が現実逃避の方向へと走る。壁に寄り掛かるようにして、ずるずると下に落ちて、遂にはころんと地面に頬をついたが、パンが入った袋だけはと、胸元に手繰り寄せるのが精一杯だった。…あー、地面のタイルが冷たぁい…。頬に当たる雪は、私の体温でゆっくり溶ける感覚がする。

…綺麗だなぁと、場違いにもそう思った。眼球だけを動かして、灰色の空から降る結晶をぼんやりと眺める。今年最初の雪をまさか寝転んで見ることになるとは思わなかったけど……うん、まあ、人生何があるか分からないもんだもんね。……頭ぼーっとする……ちょっと寝たら治るかな?ちょっとだけ、うん、ちょっとだけ…と、雪山で遭難して眠気に襲われた人みたいな思考回路になって、じんわりと瞼が下がる。

ダメだ……ミヒャが、ミヒャが待ってるのに……。

ミヒャラッシュ………ぼく、なんだかとっても眠いんだ…。……おう、洒落にならない。

―――……そのまま意識は、呆気なく白一色に染まった。


……
………

「……い……ぉ」

……んー、なあに……?うるさいなぁ……折角人がゆっくり寝てるのに……あと五分……。目覚まし時計って、スヌーズにしなきゃ何回も消しちゃうから絶対つけるんだけど、やっぱり煩わしいのは変わらない……。

「……おい、起きろ」

つん、と脇腹辺りに微かな衝撃。それは、私の意識を引き戻す呼び水となった。…うぅん…もう朝……?あれ、めっちゃ寒い…へぶっし!とくしゃみが出そうになる。…こたつで寝ちゃった時みたいな肩の冷え具合はどゆこと…?と何とか目を開ける。

―――光を照り返す銀髪と、少し鈍い色合いをした金色。

美しい宝石のような色彩を持った人物が、舞い降りる雪を背負っている姿は、寝惚けた思考では現実味を認識出来ないくらい綺麗に見えて。私の唇は、持主の意思を無視して勝手に動いていた。

「………天使さま?」

もしかして、お迎え?……フランダー○の犬みたいな?………ごめんなさい、まだ死にたくありません……。

なんて思っていると、ぐい、と肩を掴まれて引上げられる。その勢いと力強さで、浮き沈みしていた意識が完全に覚醒し、私の前で表情に呆れを滲ませているのが、天使などではなく紛うことなき人間なのだと教えてくれる。………あれ、ちゃんと人だ……。

「……あ、ごめんなさい」

……かんっぜんに寝惚けていた……、なんか変な寝言、言わなかった私…?と羞恥が襲って来ると同時に手が離されて、私はまたへたり込んでしまった。ぼうっとしたまま、目の前の人を見上げる。

感情が読めない顔をしてこっちを見下ろしているのは、十五、六に見える少年だった。大きめのパーカーと、擦れたジーパン。背の高さとしかつめらしい態度と相まって、非常に威圧感がある。でも、さっき私が寝転んだまま見上げた人物は、この少年に相違ないだろう。じいっと、磨かれた金属のような色をした鋭い目が私を見ている。

コ、コワ……。

………ん?ちょっと待って……えーと、なんかぼーっとしてたけど……記憶、戻って来た。そーだよ、私追われてたんじゃん!………もしかして、貴方が、そのボスだったり、なんかして?……貫禄あるし、デカいし、不良のリーダーと言われても納得出来る。マイキーってよりはドラケンっぽいけど。

「……すみません、……あの、ありがとうございます」

謝ればいいのか、御礼を言えばいいのか。すいませんカツアゲしないで下さいお金ないんですのすみませんと、取りあえずあのまま寝ちゃってたら凍死コースだったので、起こしてくれてありがとうございますをブレンドしてみる。反応めっちゃ薄い…どっち、あなたはどっちなの。悪い人なの、良い人なの?もう泣きそう。

「その、変な人達が来ませんでしたか?……ここに」

えへっ、と愛想笑い付きで、問い掛けてみる。まさか、悪い人だと思ってませんよ〜、という意味を込めて。一説には笑顔は威嚇だというものもあるが、私はそうは思わない。愛想笑いは武器だ。主に、同情を誘うという意味で。…ここで、「それは、こーんな奴等かぁあああい?」とホラーみたいなことを言われないように切に願う。

「……Mauvais garçon、――――――」
「…?…モヴェ…?」

ほ?と、首を傾げる。現在は学習の末、ドイツ語、英語、日本語が喋れる私だが、流石にフランス語は専門外だ。なので万国共通語である英語で話し掛けたのだが、返って来たのはフランス語だった。え?なんて?ぱーどぅん?

「………アー、――――……Naughty one(不良少年)……分かるか?」

………のうてぃ……わん?…えーっと、いたずらっ子的な意味だったかな…。不良少年、とか?…雰囲気とニュアンスで察するに、不良少年はいなくなった?とかかな。

私がまた首を傾げると、少年はガシガシと乱暴な仕草で後頭部を掻いて、しゃがみ込んだ。そしてもう一度、今度は簡単な英語を使って説明してくれる。……にゃ、にゃるほど?……もしかして、貴方が追っ払ってくれたの?…そ、それはご迷惑をお掛けしまして……、な、仲間かなとか思ってごめんね。確かに、座ってる私と目線を合わせる為、わざわざしゃがみ込んでくれるような優しさを持っている子が、カツアゲの主犯だとは思いたくない。…ありがとう、ごめんなさい。

「―――、――――?」

と、また何事かを問いかけられる。えーと、steal?少年は、私が持っている紙袋と私を指差す。あ、忘れてた。そうだ、ご飯のパン……よかった、潰れてはいなさそう。ほっと安心して、もう一度耳を澄ませてみれば、ThiefだとかRobberだとか、どう考えても穏やかではない単語が聞こえて来た。あれだ、よくRPGの職業とかであるヤツ。…シーフ。そういう意味では、盗賊、みたいな。

……………ん?私、疑われてね?

…っちがう!!違う違う、違います!!!意味を理解して、ぶんぶんと首を振る。こっちが疑う側だったが、とんだ思い上がりだ。こんなきちゃないガキンチョがパン持ってるから盗ったんじゃないかって?なんて安直な!証拠、証拠あるんですかぁ〜〜〜?!何時何分地球が何回回った時ィ〜〜〜〜???と子どもみたいな煽り方を心の中でしつつ、盗ってない盗ってないと主張した。断固、無罪を要求する!

「―――。―――…―――、―――」

わ、……分からぁん……。疑いが晴れてるのか、疑念が強まっているのかも分からん。言葉が通じないのがこんなに不便だとは思わなかった。ドラえもん、ほんやくこんにゃくをおくれェ……。えー、どうしよう……と、本気で泣きそうになっていると。

「………家に、帰れ。…ここは危ない。………送って行ってやる」

……あ。

私は、パチクリと、何度も目を瞬いた。分かる。英語だった。中学英語くらいのレベルがあれば、海外旅行での会話は大抵困らないと言われるが、本当にその通りなのかもしれない。難しい単語じゃなくても、組み合わせたり、それ単体でも意味は伝わる。―――相手が伝えようと、努力してくれるのなら。

………慈しい目だった。

怖いと思ったのが嘘のように、目の前の少年はその瞳に確かな優しさを乗せて、私を見ていた。……不思議だ。全然、怖くない。意思の強そうな、猛禽類みたいな鈍金色の目に、抱いていた恐怖はすっと溶けて行った。……初めましての人なのに、……こういうのも、インスピレーションっていうのかな。


―――この人は信頼できると、私の本能が叫んでいた。


いや、言い替えよう。

―――…私のサイドエフェクトが………そう言ってる。


「……ありがとう」

悩むより前に、こくんと頷いて、自然とお礼を言っていた。…信じよう、私のSEを。着の身着のまま、碌な荷物も財産もなく、私が信じられるのは私自身なのだ。だったら、それに逆らうなんて選択肢があるわけない。柔らかく細められる瞳に、吸い寄せられるようだ。……目が逸らせなかった。

………こんな魅力の塊のような人がこの世にいるんだなぁ。世界って広いや。

「……お前、名前は?」

………な、なんかすっげーデジャウ……えーっと、地面に座ったままの私に、立った状態で見下ろして名前を問うてくる少年………と、東リベじゃん……。

「……シュネー」
「……シュネーだな。俺はノエル」

だが、ノエルと名乗った少年は、当然だけど私にシュネーみっち、みたいな渾名を付けることはなく。マイキーみたいに「今日から俺のダチ!」と笑ってくれることをちょっとだけ期待しちゃった私は、しゅんと落ち込んだ。?と首を傾げるノエル少年。……当たり前だ、勝手に期待されて勝手に落ち込まれてるなんて。

えへへ、と誤魔化すように、愛想笑いをしてみせた。


途中何度か迷ってしまったけど、無事帰って来ましたマイホーム廃ビル!!!別に方向音痴のケはないのだけれど、同じような構造ばっかりだと分かりにくくてさぁ…。目印になるお店の名前をいえば、ノエル少年はすいすいと私の先導をしてくれた。ありがと〜、ホント助かる。色々ふらふらして、何とか隠れ家として住めるかな、と辿り着いたのがこの地域だったので、まだまだ新参者なのだ。

おっと!こんなことしてる場合じゃない!!ミヒャ、ミヒャミヒャ〜〜〜!!まいえんじぇるミヒャた〜〜〜〜ん!!お姉ちゃんが帰りましたよぉおおお〜〜〜〜!!ダダダ!と階段を駆け上がり、ミヒャを驚かせないようにそっと扉を開く。すると、こんもりと膨らんだ毛布がもそもそ動いてひょこ、とぷりてぃーフェイスが出て来た。

あ〜〜〜!クッションの間から出て来た坊にちゅちゅちゅ、とする湯婆婆の気持ちが分かるなぁ〜〜。ただいまぁ〜〜、良い子でおねんねしてた?とちゅ、とほっぺにちゅーをする。ミヒャは、しゅべすたぁ、と言って頬を緩めた。ごめんね、一人にして〜〜〜。はあ〜〜〜、ミヒャマジ癒し。マジ天使。生きてミヒャの元に辿り着けたことに今日も感謝します。あーめん。

五年ぶりの再会かよ、というくらい熱い帰還の挨拶を交わしていると、背後で再びドアが開く音がして、あ、そういえば…と我に返る。振り向くと、ノエル少年が変わらぬ無表情でこっちを見ていた。……たぶん、表情筋があまり仕事しないタイプの人なんだよねっ。私に呆れてるわけじゃない……よね?と希望的観測を働かせている傍で、腕の中にいるミヒャもノエル少年を見た。あっ、ちゃんと紹介しなきゃね…と思った矢先だった。冷たい、不機嫌そうな声で一言。ついでに、もみじのような手も動く。

「……だれ?コイツ」

こらミヒャ!人を指差さないの!めっ!このお兄ちゃんはね、お姉ちゃんがお間抜けにも行き倒れてところを助けてくれて、悪たれ共を追っ払ってくれて、ここまで連れて来てくれたんだよ!…うわあ、初対面の人に恩を重ね過ぎている!ただでさえお金もないのに!御礼が出来ない!

「だめよ、ミヒャ。人を指差しちゃ」
「ねェ、だれ?」
「彼はノエル。…迷っちゃった私の、道案内をしてくれたの」

正確には絡まれてたのを助けてくれた…なんだけど。ややこしい事情は説明しなくてもいいだろう。言うと、ミヒャは指を下ろすことはしないまま、ぷうと頬を膨らませた。…かわよっ!…じゃ、なくて。うーん、やっぱりダメかなぁ。ミヒャ、人見知りだからなぁ。いきなり知らない人が来たら吃驚するかなー、とは思ってたけど。でも、挨拶して、と促してみる。すると。

「…おれはミヒャエル。ミヒャエル様って呼べ!」

ミヒャは、ふんす!と精一杯胸を張ってノエルに挨拶した。見下ろし過ぎて見上げている!ハンコックかな?と思うけど、私は心の中でパチパチと手を叩いた。偉いね、ミヒャ〜。ちゃんと挨拶出来て良い子だね〜!フランスに来てから、促しても私の胸に顔を埋めて嫌々していた子とは思えない。ノエルが大人じゃないからかな。これを機に少しずつ人に慣れてくれるといいな〜とほんわか出来たのは僅かな時間だった。

ゴチン!……と、ノエルがミヒャの頭にグーを落としたのだ。あっ、ちょっと!暴力反対!

今まで叱られたことはおろか、一度だってぶたれたことのないミヒャは大きな瞳に涙を溜めた。あ〜、そんな顔もかあいい!でも可哀想!ふえ、と口が歪んで、ふるふると震え出す。遂には決壊して、ふわぁあああぁん!と泣き声を上げた。

「ノエル!何するの」
「ぶった」

そりゃ見りゃ分かるわい!聞いているのは理由!

「言っても分かりそうにないクソガキの躾には、痛みが良く利く」

と、要約すれば、出て来たのはそんなお言葉。

何だそりゃ!リヴァイ兵長みたいなこと言うな!これは持論だが…ってヤツ?!やだやだ、ミヒャの歯が折れちゃう!漸く生え揃ったばかりなのに!…おーよしよし、可哀想にね〜。ひどいノエルだね〜、とミヒャを胸元に寄せてよしよしとしてやる。すると、涙を擦り付けるようにぐりぐりと頭を押し付けられる。うんうん、そうだよね、痛かったねェ。

「―――、―――」

また何事かをフランス語で呟き、フン、とノエルは一切の悪びれも見せず、腕を組んでみせた。む、と眉を寄せる。助けてくれた優しい人だと思ったのに…幼子に暴力を振るうなんて、なんて酷い人なんだ。大人げないぞ!ミヒャはまだ子どもなのだ。ミヒャエル様って呼べ、と言ったのも、ホントに今まで私と母以外には様付けで呼ばれてたからで、悪気はない。寧ろ、名前を呼んでもいいよ、という可愛い親しみの表し方……だと、思う。……兎に角、いくらなんでも殴って分からせようとするなんて酷いのだ。

よしよし、大丈夫だよ〜。お姉ちゃんは味方だよ〜、と撫でてやっていたが、ミヒャは涙で潤ませた目を煌めかせた。……お?

ビシイ!!と再び差される小さい人差し指。あ、ダメだってば人を指差しちゃ…。再び、不愉快そうにノエルの眉が顰められる。あっ、こっちもダメダメ!やだ、殴っちゃヤダよ?!だが、そんなノエルを気にした風もなく、ミヒャはまた胸を反らす。

「―――コイツ、キライだ!!!」

……どうやら私は、我が弟の負けん気の強さを侮っていたらしい。音にも気配にも敏感で、泣き喚いていたが、それは決して怯えているわけではなかったのだ。ミヒャは、自分を不快にさせるものが大人しくならないことへ憤っていた。思い通りにならないことへの苛立ちを、癇癪として発露していた。

………外の世界に出て、引っ込み思案になるような、大人しい性質ではない。力に屈さず、自分よりも身体の大きいものにも立ち向かう気概があるのだ。……ミヒャ……、………大きくなってェ……。

「………ーーー」

………はっ!!!……感動している場合じゃねェ!!

一触即発、といったバチバチとした雰囲気を漂わせる二人に、あわあわと慌てる。あー、ミヒャ駄目駄目、ノエルはお姉ちゃんの恩人だよぉ〜〜〜。でも、あの、ノエルさん?相手は小さい子どもだから……その、鷹揚に、寛大に受け止めてくれたら嬉しいんですけどぉ……。………ダメ?二人とも、ダメ?えへ、と可愛い子ぶっても変わらない。

私はがっくり、と肩を落とした。

―――これから先、ずっとこの二人の関係性に悩ませるなんて、この時の私は想像もしなかったのだ。



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