暗殺一家によろしく
- ナノ -
号泣させる準備は出来ていた




彼と話していたお蔭で、何だか気持ちも落ち着いて来た。取りあえず、とその日は休んで、次の日、きちんとレストランの奥さんと旦那さんには事情を説明することにした。子どもが出来たこと。産むつもりでいること。折角雇ってもらったのに、こんな形になってしまい申し訳ないと思っていること。

頭を下げて伝えると、二人とも吃驚していた。あなたみたいな小さい子が、とまで言われた。私のこといくつだと思ってるのかな。確かに日本人は若く見られるけど…一応、元の世界でも結婚出来る年齢なんだけどね。相手は、と気遣わし気に聞かれて、ほんとのことは話せないので、ぼかして伝える。結果、私はとある由緒正しい名家の若様と恋仲になって、それを父親に反対されて、若様の為を想って身を引いた健気な子、という認識になってしまった。

………ま、間違っては、いない気がする。ゾルディックは確かに名家だし。奥さん想像力豊かだなぁ…。私は、乱暴されて出来た子じゃないってことだけちゃんと伝えたかっただけなんだけど。

ま、まあいっか。正直、クビになってもおかしくないんだけど、二人は私を雇い続けてくれるらしい。奥さんは四人子供を産んでいるので、色々聞いてほしいと胸を叩いた。え、マジで。子どもそんなにいたの。全員成人済で出て行った?…奥さんの方が私より全然若作りじゃんね…。

「沢山食べて、元気な子を産め」

シャベッタアアアアアアアアアア!!!!!旦那さんが喋った!クララが立った並の衝撃!!なんか良いこと言ってくれた!渋みのあるバリトンボイス!

そんなこんなで。二人の支援もあって、分からないことだらけだったけど、私はなんとか生活を成り立たせることが出来た。重いものは持たないようにして、勤務時間も時短にしてもらって、細々と仕事を続ける。幸い悪阻は軽い方で何とか耐えられた。

そのうちお腹が膨らんできて、私は漠然とした不安に苛まれるようになった。考えるまでもなく、産むという選択肢を選んだくせに、今さら。この子を産むという不安ではない。これから一人でこの子を育てる不安でもない。

―――私は、何に怯えているんだろう。

私の顔色が悪いことを気遣って、奥さんがマタニティブルーってやつよ、大丈夫、と慰めてくれたけど、そんなものではないということは分かっていた。子どもの服だとか、おくるみだとか、そういうのを準備しながら考える。男の子だろうか、女の子だろうか。そう考えるだけで、また止め処なく不安が溢れてくる。駄目だ。私の想いがもしこの子に伝わってしまうのなら、まるで私が赤ちゃんのことを望んでないみたいじゃないか。そうじゃないよ。

『……あなたに、ちゃんと生まれてきてほしい』

お父さんは、いないけど。お母さんが、ちゃんと父親役と母親役、両方こなしてみせるから。早く、顔を見せてほしい。そうすればきっと、この不安もなくなる。きっと楽しいはずの産まれてくる子どもの為の準備にも、気がそぞろだった。どんどん顔色が悪くなっていく私に、奥さんと旦那さんは休むように促してくれた。

でも、駄目だ。一人でいるとどうしても考えてしまう。苦しい。正体の見えない、私の中の黒いもの。早く生まれて来てほしい。いいや、まだ心の準備をさせてほしい。自分でも意味が分からないけれど、矛盾した思いを抱えたまま、一日一日が経っていく。

私が臨月を迎えると、奥さんは頻繁にうちを訪れてくれて、様子を見てくれた。迷惑ばかりかけている私に、本当に優しくしてくれる良い人だ。申し訳ないやら有り難いやらの気持ちで一杯である。あ、この街は自宅分娩が主流なんだって。だから私も、家で産むつもりである。

陣痛が来てからのことは……、正直、思い出したくない。身も世もなく叫んだ気がする。鼻からスイカが出るような痛みって言ってた人誰なんだろ。すごいよね。分かるーーーーって言いたくなる。頑張れ!と産婆さんの声が聞こえる。奥さんが、手を握ってくれている。私は、必死に歯を食い縛った。どれくいらいの時が経ったかも、覚えていない。ただ、あるラインを越えた瞬間ふっと痛みが消えて、身体全体を気怠さが覆った。

次いで、聞こえたのは空気を裂くような甲高い泣き声。

「頑張ったわね、ユキノちゃん!」

涙と汗で視界がぼんやりとしている。奥さんが涙声になりながら、私に声を掛けてくれる。この街で何百人という子どもを取り上げたというベテラン産婆のお婆ちゃんが、元気な男の子だよ、という声が聞こえた。

男の子……。ぼうっとした頭で、息を整えながら考える。今まで抱いていた不安は、ついに形を得て、目の前に現れた。私の胸元に、生まれたばかりの赤ん坊が手渡される。その子の泣き声を聞きながら私が感じたのは、歓喜でも安堵でもなく、諦観だった。心の中でそうでなければいいと思っていたことが、具体的な形を以て現れてしまったことに対する、諦観。

―――取り上げられた赤ん坊の瞳は、夜を閉じ込めたような漆黒をしていた。

せめて彼に似た灰青色をしていたならば。そうであれば、私は未だに現実から逃げたままでいられたのに。後悔とも懺悔とも取れない混迷とした想いに胸が疼いたけれど、涙が後から後から溢れて止まらなかった。でも、この涙は。悲哀ではなく、歓喜のためだ。失望ではなく、愛のためだった。

この子は、私の子だ。可愛い、私の子。狂おしいほどの愛おしさで、胸が潰れそうだった。必死に生きようとして泣いている様を見ているだけで、愛しくて堪らない。十月十日私を蝕んだ不安は、この子の顔を見た瞬間消え去った。ただそこにいるだけで、この子は私のちっぽけな憂慮を全て取り払ってしまったのだ。

『よしよし…良い子ね』

気怠い身体を圧して、赤ちゃんを抱き上げる。あったかくて、疲れた手にはずっしりと重くて。これが、命の重み。こんな思いをするだなんて、一年前の私に想像出来ただろうか?いや、出来るはずもない。私は、お腹の中にこの子がいてもなお、母親としての自覚はあまりなかった。不安で押し潰されそうで、苦しくて、どうにかなってしまいそうだったから。

でも、今は違う。私が正しく母になったという実感と覚悟を持ったのは、今、この瞬間だった。

すり、と頬を擦り寄せると、赤ちゃんはより一層高く泣いた。元気な男の子だ。力強い泣き声をした、健康な男の子。そうだ、名前を決めなくては。そう思った途端、一つの言葉が脳裏に浮かんで、するりと口を突いて出た。まるで初めからそうであると決まっていたみたいに。考えていた名前は、他にいくらでもあったはずなのに、顔を見たらその名前しか有り得ないとでもいうように…その名前は"しっくり"来た。

『―――イルミ。あなたの名前は、イルミ』

それはきっと、禁忌だった。私も、この子も、そして彼をも宿命付けるような名前だと分かっていても、きっと私は、そう名付けた。

イルミ。私と、シルバさんの子。

私は、ぎゅっとイルミを抱き締めた。零れた涙が、ふっくらとした頬に落ちる。これでいいのだ。この子が父親と会うことは、きっと一生ないけれど。母親として、与えられるものは全て与えてこの子を育ててみせる。母一人である理由すら、いつか笑って話せる時が来るかもしれない。イルミには、イルミにだけは、いつか話そう。私がイルミの父親のことをどう思っていたかを、笑いながら。

―――私がどれだけあなたを愛していたかなんて、シルバさんはきっと一生、知る由もないけれど。


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