暗殺一家によろしく
- ナノ -
彼女はエミリーだった




本を読むのは、昔から好きだった。

本は、自分ではない誰かが夢想した世界を文字として起こしたもので、ここではないどこかに行けるような、自分でない誰かに為れるような、そんな気さえした。きっと可愛げのない子どもだっただろう。その自覚があるだけに、半ば臭いものに蓋をするような感覚で、劣悪な環境下に置かれていた感慨は特になかった。

自分は、表舞台に立つことを厭われた子どもだった。私生児が家の名を穢すことを恐れ、だが嫡子に何かあった時の備えとして、家畜のように飼われていた幼少期。与えられた部屋の窓からは、曲がりなりにも兄妹である子ども達が自由に庭を駆け回る姿が見えた。時折、その様をぼうっと眺める。子どもの遊びも、文字と目で追うだけしか知らない自分。ボール遊び、砂遊び、ままごと、鬼ごっこ。数多の遊びがあれど、心惹かれていたのはその中の一つだった。

―――隠れんぼ。

もういいかいと呼び掛ければ、もういいよと声が返る。ずるずると壁に寄り掛かりながら、膝を抱える。もういいよ、と囁いてみる。声が木霊するわけもない。

―――自分を探しに来てくれるものなど、初めからいないのだから。


その古書店は、ハンター協会の中では有名な場所だった。市警には不正が横行し、元よりその店の裏情報に通じているかも怪しい。これだから馬鹿は嫌いなんだ、と溜め息を吐く。まァ、初めから期待などしなければどういうこともない。

自分一人で十分だというのに、師は事もあろうか部下を連れていくようにと命じた。不満げな様子が顔に出ていたのか、憂いているのは店側ではなくそれを取り巻く人物の方だ、と言われた。意味が分からない。少なくとも自分が知る限り、脅威となるような高い戦闘力を持つ人間はいないはず。だが、師の言葉には逆らえず、大人しく部下と共に店に赴いた。

家に入るや否や、その老婆はこちらが何者であるかを敏感に察したようだ。逃げの一手を打とうとするのを、素早く牽制する。放たれた攻撃を軽く躱すと、威嚇代わりの一撃が老婆の腕を裂いた。情けない悲鳴を上げて、床に蹲る小さな身体を冷然と見下ろす。哀れっぽく命乞いをされても、面の皮の厚いことだと溜め息しか出て来ない。

「残念だが、生死は問わずと言われている。抵抗するならば、死体でも構わないわけだ」

命乞いが無駄だと分かったからか、老婆の顔が歪む。外は雨が降って来たため、けたたましく雨粒が地面を叩く音が響いている。これでこの女を連れて行けば、仕事は終わりだ。その時だった。家の扉が開き、一人の女が屋内に踏み入って来たのは。

「…ああ、そういえば…今は一人、店に商品がいるんでしたね」

黒髪に黒い瞳。雨のせいで、しっとりと濡れた髪が頬に張り付いている。現れた女性は、室内の惨状にも関わらず、ぴくりと少し表情を揺らしただけだった。泣き喚かれたら鬱陶しいことこの上ないので静かなのは歓迎すべきことだが、ここまで反応がないのも何だか訝しい。

「意外と冷静ですね。この状況で騒がないなんて」
『騒いで犯人を刺激したくないだけです。…不法侵入です。警察を呼びますよ』
「どうぞ?呼んだところで、意味があるとは思えませんが」

その冷静過ぎる物言いに、思わず笑ってしまう。理性的なのは悪くない。頭の悪い馬鹿女など、相手にするのも億劫だ。彼女にも、いずれ詳しく話を聞かなくてはいけない。だが、犯罪者扱いされるのは不本意だ。

「私達はむしろ、貴方に感謝される立場だと思いますがね」
『感謝?』

彼女が不思議そうに首を傾げる。無表情なのと東洋風の見た目のせいで年齢不詳に見えるが、そういう仕草は彼女を少し幼くさせる。ふ、と笑みを浮かべて眼鏡を押し上げる。きっと、蒙昧な人間に知恵を与えてやるような、愉悦があった。どうやら彼女は、目の前の醜悪な老婆に心を移しているようだから。

「そうです。なにせ貴方は、この女に売られてしまうところだったんですから」

「何も知らないみたいですから、教えてあげましょう。

マリ=ランクルは、裏社会の人身売買を扱う仲介人。見目麗しい少女を自身の店の店頭に置くのは彼女の常套手段です。…あなたを、いずれどこぞの金持ちに売ってしまうつもりなんですよ」

放った言葉に、彼女は固まったように動かなくなった。衝撃とともに受け止めているのだろう。無理もない。信用していた相手が、自分を裏切っているなどと聞かされれば、当然の反応だ。縋るように向けられた視線に、マリ=ランクルは目を逸らす。それが答えだ。

あの古書店は世間を欺く仮の姿。本当は、裏で多くの女性や子どもを主体として、マリ=ランクルは人間を扱う商売圏の重鎮ともいえる地位を得ていた。自らの店に、自分が扱う商品の中でも一等美しい女を置くのは、彼女の常套手段だった。それは、これ程の女を扱うことが出来るのだという対外的なアピール。いわば、ショーウインドウに飾られている服のようなもの。

流石老獪なこの女は、今まで少しもボロを出すこともなく、ブラックリストハンターの目すら欺いて来た。だが、今回自分の師はこの老婆の確保を皮切りに、裏社会に蔓延る賞金首を一網打尽にすることにした。自分は、その先駆を任されたのだ。弟子となって、初めての大仕事だった。

自分の性格が悪いことは自覚済みだ。真実を知って、どんな対応をするかにも興味があった。泣くだろうか、怒るだろうか。憤りを、この老婆に向けるならそれもいいだろう。人間の持つ醜い一面を、無様に晒す様を悠然と観戦するつもりでいたその欺瞞に、水を掛けるように、女は予想外の行動に出た。

「―――!!」

笑ったのだ。怒りも悲しみも見せずに、ただ柔らかく微笑まれて、その顔に束の間見惚れる。それは、凄絶な美しさだった。部屋を照らす雷光を伴って、心臓を射抜かれたように指先が痺れた。だから、次の行動にさえ対処が遅れた。

「は?」

彼女は、勢いよく机をこちらに向かって蹴倒すと、マリ=ランクルの腕を掴んで一目散に駆け出したのだ。あの微笑みに虚を突かれたのは事実だが、たった今裏切りを示唆した相手に利する行動を取るなんて誰が予想出来ただろう。部屋を出て行く背中を茫然と見送って、数拍遅れて我に返る。すぐさま、二人を追い掛けた。

一般人の女と老婆の逃げ足など、たかが知れている。それでも追いついたのは、マリ=ランクルが女の手を振り払って、足を止めていたからだった。老婆もまさか想像もしていなかったのだろう。声には動揺が滲んでいる。

「あなた…聞いたでしょう?あの男の話…」
『あ、』
「全部本当だよ。私は初めからあなたを売るつもりで、あの店に置いていたんだよ」

善意ではなかったと。優しい仮面に騙されていただけだと、突きつける。だが。

『―――そんなことはどうでもいいんです!!』

投げられた大声に、今度こそマリ=ランクルは絶句する。自分もだった。雨に濡れて、寒さに震えながらも真っ直ぐな瞳を向けてくる少女。

『もし少しでも心配なら…痛いって思うなら、私と一緒に逃げてください』
「………逃げて、どうにかなるもんじゃないよ」
『どうにかなります。生きてさえいれば』

『私……マリさんには、生きていてほしい』

生きろと、そう囁く。僅かに歪められた表情は、悲しみを帯びていた。それは、騙されたことに対する悲哀ではなかった。きっと、老婆に対するもどかしさ。罪を償い、贖罪の為に、生きることを選んでほしいという懇願だったのだろう。暫くの沈黙の後、マリ=ランクルが笑う気配がした。馬鹿な子だねェ、と囁く。

「―――あなたのことなんて知らないよ。あなたと一緒に逃げるのだってごめんだわ」
『マリさ、』
「どこへでも行きなさいな。あなた、男がいるんでしょう?こんな年寄りよりも…その男と逃げればいい」

追い縋ろうとする彼女の後ろに、唐突に一人の男が現れる。鍛えられた肉体に、波打つ銀髪。こんな至近距離に近付かれるまで、一切の気配を感じなかったことに戦慄した。相当に強い。

「ユキノ。……すまん」

男は、少女の首筋に手刀を落とすと、くたりと倒れる体躯を抱えた。まるで宝物を扱うように優しく。その様子から逸らせなくなりそうな視線を無理やり剥がして、マリ=ランクルを拘束する。そして、男へと向き直った。最初に感じた通り、かなりの手練れだ。間違いなく、念能力者。

「……彼女を引き渡してもらえますか?」
「何だと?」
「マリ=ランクルに関する重要参考人です。詳しい話を聞く必要がある。身寄りがないなら…ハンター協会が責任を以て保護しましょう」
「断る。―――協会の狗が、吠えるなよ。ユキノは、俺が預かる」

ユキノというのか、彼女は。男と対峙して、その殺気を浴びて一瞬身が竦んだが、己を奮い立たせる。私情が混じっているのは否定できない。私は、もっと、彼女と話がしてみたかったのだ。一触即発ともいえるひりついた空気を、穏やかな笑い声が打ち破った。

「ほっほっほ。まァ、そうなるじゃろうとは思うとったがな」
「…会長」

音もなく現れたのは、ハンター協会の会長、アイザック=ネテロだった。その登場に、女性を片腕に抱えたまま、青年が警戒を露わにする。猫が毛を逆立てるように、殺気が高まる。

「待て待て、誰も娘さんを無理やり奪っていくなんて言っとらんじゃろー」
「……どうだかな。親父に、ハンター協会の怪物爺の舌先三寸には気を付けろと言われてる」

あんのガキャー、とネテロがおどけたように悪態を吐く。どうもお互い知り合いらしい。こちらをちら、と見ながらネテロが言葉を続ける。

「まァ、娘さんが無関係なのは分かっとったことじゃしな。お前さんに預けるぞい」
「……会長!!しかしそれでは…」
「わしゃこんなことでゾルディックと事を構えるのは御免でな」

ゾルディック、だと。目の前のこの男が。驚愕とともに、もう一度男を見る。しなやかな肉食獣のような、洗練された強さが立っているだけでも伝わる。伝説の暗殺一家。ブラックリストハンターからすれば垂涎物の獲物だろう。

少しの間ネテロに鋭い視線を向けていたが、男は次第に殺気を収めていった。そして、腕の中の少女を大事そうに抱え直して、そっとその額にキスを落とす様子が、まるで一枚の絵画のようで。現れた時と同じように、音もなく消えていくのをただ見送った。

「……会長が仰ったのは、ゾルディック家のことだったのですか」
「おお、そうじゃよー。娘さんは、あそこの長男坊に懸想されておっての」

ギリ、と歯噛みする。それは、あの男に自分が敵わないと初めから断じられていたということに他ならない。だが、それよりも更に、苛立つことがある。―――自分は、羨望したのだ。今悄然としたように蹲っているこの老婆に、薄汚い犯罪者を、この自分が、羨んだのだ。

騙されていたと知ってなお。犯罪者と知ってなお。あの美しく微笑む女性の全幅の信頼を得て、それを袖にするこの老婆を、羨んだ。

まさかそれで良心の呵責でも覚えたといっても、この老婆の罪が減るわけでもない。今まで途方もない数の人間を不幸にしておいてちゃんちゃらおかしい。だが、どれだけの憎悪を世界から向けられても、あの女性に生きてほしいと望まれただけで、きっと満足してしまうだろう。もし、自分なら、そうだから。

たとえば鬼ごっこをしていた時に、諦めず自分を探しに来てくれる鬼みたいに。幼い頃から渇望した存在を、こんな犯罪者すら得ていることに、どうしようもなく腹が立った。

「ほれ、ぼーっとしとらんで働かんかい」
「……会長」
「あ、ちなみにワシは横恋慕も上等じゃと思うとるからの」
「何を、」
「お前の悪いとこは、待つ姿勢でおるとこじゃな。自分から探しに行くくらいの気概を見せんかい。そうすりゃ……ククルーマウンテンのてっぺんで、いつかあの娘さんに会えるじゃろ。




―――ノヴ」


そうか。―――私は、いや、オレは……追われる者ではないのだ。追う者―――ハンターとなったのだ。だったらいつか…暗殺者の巣窟に、隠されたものを探しに行く鬼になればいい。

ふん、と鼻を鳴らして、眼鏡を上げる。師であるネテロが、可愛げがないのぉ、と笑った。



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ノヴさんの年齢よく分からない…
ただ、主人公よりは少なくとも年下かな。
声が三木眞なのが控え目に言って最高。



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