- ナノ -
その掌にあるもの

俺が一大決心を決め、雪乃への求婚を成功させてから暫く。言うまでもなく、俺は幸せの真っただ中にいた。まさにバラ色の人生。我が世の春である。夢ではないのだと現実を噛み締めたのち、惜しげもなく盛大な惚気をかましに悪友の元に突貫したりもした。出来ることならば、里中に吹聴して回りたいくらいだ。怒られるからやらないが。

そして今日、正式に雪乃を両親へと紹介する時がやってきた。

と言っても、今さら紹介も何もない。お袋はすっかりと雪乃を気に入っており、もう既に娘となることが確定したかのように振る舞っていたのだ。嫁入り前から外堀を埋めるかのように、少しずつ薬剤調合の秘訣を教わっていたことに、果たして雪乃は気付いていたのだろうか。親父も飼育している鹿に好かれている雪乃を嫁に相応しいと考えているため、反対される可能性は万に一つもない。いわば、この結果は奈良家にとって予定調和であったということだ。

「おい、大丈夫か?そんなに緊張しなくてもいいんだぜ?」
『…緊張しないという方がおかしいです』

だというのに、雪乃はすっかり萎縮してしまっているようで、少しばかり挙動不審だ。それでも他人には分からぬ微々たる違いだろうが、まさか愛しい恋人の変化が分からぬ筈もない。「こういう姿も新鮮で可愛いな」とでれでれと心の中で鼻の下を伸ばしつつ、宥めるように言葉をかけてやる。

「だから、心配しなくてもいいっての。親父とお袋には、もう説明してあっから」
『それでも…やはり、緊張します。奈良家に相応しくないと言われてしまえば、反論できませんから』

それが記憶の有無や身分のことを指しているのなら、全くの見当違いである。記憶のあるなしに関わらず、父母は雪乃の為人を認めた。確かに奈良家は木の葉では名家ではあるが、一般人の嫁を迎えるべからず、などという決まりがあるわけでもない。格式や伝統を重んじるうちはと日向とが、そこが少し違う。血継限界を持たないことも関係しているのだろう。彼等は特殊な才を絶やすことなく残すこと使命の一つでもある。しかし奈良一族は、代々口伝と膨大な智を以てしてそれらを次代に繋げていっているのだ。何より。

「雪乃、勘違いしてるみてェだから言っとくが…」
『はい?』
「俺は、お前に奈良家次期当主の嫁になれ、なんて言った覚えはねェぞ。俺は、俺の嫁になれって言ったんだ」
『!』

微妙なニュアンスの違いでしかないのかもしれない。けれど、大きな違いだ。奈良家次期当主、それも俺を指すものだが、俺を形作る要素の一つでしかない。役目と責務に縛られた、重苦しい責任ばかりを背負わなくてはならない立場の男を支える妻として、相応しいと思ったから雪乃を選んだわけではない。そうしたいのなら、見合いをすれば、もっといい女を見繕えただろう。俺の持つ肩書きの嫁にしたいわけではない。

―――雪乃は、奈良シカクという、一人の男の嫁になるのだ。ただ、それだけが事実。

「余計なこと考えんな。奈良家がどうだとか、そんなのどうでもいいっつの」
『…どうでもよくは、ないですよ』
「いいんだって、どうとでもなる。いやする。大事なのは、そこじゃねェだろ?」
『では、何が…?』

「妻にとって一番大事なのは、旦那のことで頭んなかいっぱいにしとくことだ」

だって、そうだろ?俺達、ようやく恋人…いや、婚約者になったんだぜ?なのに何で柵とかそういうことばっか先に考えてんだ?もっとこう、いちゃいちゃするとか、ラブラブするとか、甘い雰囲気があってもいいんじゃねェか?何だこのちょっと陰鬱とした空気。浮かれてんのは俺だけか?……俺だけか。まあそれはいいんだけどよ。とにかく、俺を支えようとしてくれるのは嬉しいが、家のことより、まず俺のことを考えてくれ。虚しくなっちまうだろ。

『……何ですか、それ』

言いながら、拗ねた様子を見せてやると、雪乃はくすっと目元を緩めた。おっ、やっと笑ったな。今日初めての笑顔だ。役得。

「心配すんな。煩ェこと言ってくる爺共は、全部俺が黙らせてやるよ。だから相応しくねェとか、そんなこと言うな。……返事は?」
『…はい。シカクさん』

………ああもう、くっそ!可愛いなおい!!んな嬉しそうに笑うんじゃねェよ。往来だってのに、抱きしめたくなっちまうだろ!最近雪乃は表情を緩めることに躊躇いがなくなってきたのか、俺の心臓はオーバーヒート寸前だ。理性が焼き切れそうになる。だがそんなぎりぎりの情けない状況を知られるわけにもいかないと、必死に表情筋を働かせて「おう。それでいい」と笑ってみせる。何処までも恰好付けようとする、俺自身の涙ぐましい努力に、全俺が泣いた。…折角付き合い始めたのに、以前より我慢することが増えたって、どんな拷問だよ?



結論から言えば、勿論反対などされるわけはなく。「それで式の日はいつにするんだ?」「雪乃さんに似合う、綺麗な花嫁衣裳を用意しなくちゃね」と俺達以上に張り切る両親の姿に少しばかり呆れてしまう。ん?ウェディングドレスも着るかって?何当たり前のこと言ってたんだよ!着るに決まってんだろ、絶対似合う。…いや、でも待て。純白のドレスを着た雪乃を見て、招待客の誰かが惚れちまう可能性だってある。だったらいっそのこと俺のためにだけ着て貰った方が…。

「新居はどうするつもりなのかしら?…雪乃さん、私達と一緒に住むのは嫌?」
『いいえ。ただ、ご迷惑ではありませんか?』
「まあ、本当に?迷惑なんてことあるわけないわ。嬉しいわぁ、私、娘が欲しかったのよ」

…って、何勝手に決めてんだよ!母は報告した途端、わくわくとして娘としたかったことを口ずさんでいたが、まさか同居まで検討していたとは。俺としては、断固阻止すべき事態だ。

「同居なんてしねェぞ。二人で新しい家を借りるに決まってんだろ」
「ええ、どうして?」
「何でだ、シカク」
『何故ですか?』

おいおい、雪乃まで何言ってんだ。新婚生活だぞ?し、ん、こ、ん、せ、い、か、つ!新婚生活だ!大事なことだから三回言ったぞ。別に二人と一緒に住みたくねェってわけじゃない。だが俺はまだ奈良家を継いだわけじゃない。なのに屋敷に住むってのも俺的には違和感を感じるし、いずれはそうするにしても、少しくらい二人きりで新生活を味わっても罰は当たらねェ筈だ。ま、ガキでも出来りゃ色々変わるんだろーけどな。つーことで、その提案は却下だ。

ぶうぶうと年も弁えずに子どもみたいに反対するお袋はともかくとして、雪乃は何で不思議そうなんだ?同居は絶対じゃねェだろ。こういうの、嫌がる女も多いって聞いたんだけどな。その後、軽く今後の展望について話し合う。実は木の葉を覆った情勢ってのは、今厳しくなってきてるとこだ。第二次忍界大戦が第三次へと発展して暫く、平行線のように続いていた戦いは、またその勢いを強くしようとしている。雪乃に先に家を出て貰い、親父達にもその旨を伝えておく。俺達の見立てじゃ、恐らく終戦が近い。だからこそ、油断ならねェ時だ。前線を退いたとはいえ現役の忍、大体の事情は把握していたのだろう、親父は黙って頷いた。

「雪乃さんには言ってあるのか?」
「言ってねェよ。だが、心配いらねェ。死ぬ気なんざこれっぽっちもねェからな」

だから言葉は残さない。不安にさせることがあっても、必ず戻って来るのだから。俺の言葉に「たりめーだろ、バカ息子」と悪態を吐いて来た親父と、その隣に寄り添って微笑むお袋。この二人のような、いや、この二人を超えるほどの夫婦になってみせると、改めて思った。

待たせたな、と謝罪を入れて、雪乃と共に歩き出す。次の目的地は、雪乃が長い間働いてきた居酒屋、苦楽だ。アサヒのじーさんは退役した忍で、信頼できる人だが、流石に結婚してまでちんぴらや酔っ払いがやってくるとこで働かせるのは気が引ける。本当はずーっと前から、絡まれたって話を聞く度心配でたまらなかった。別に束縛する気がねェんだけどな…ただし、養って、甘やかして、大切にする気は満々だ。まあ、雪乃は納得してくれたが、不義理は出来ねェからな。挨拶するのは大事なことだ。

歩きながら、ちらりと横を見る。雪乃とこんなに近い距離で歩くなんて、初めてだな。しかも、他愛もない話をしながらだ。今までは少し後ろを離れて歩かれていたから、こういう些細なことだけで嬉しくなっちまう。特別なことがなくても、幸福は感じられるものなんだな。…ただ、欲を言えば…手、手ェくらいは、握ってもいいよな?駄目か?

「(な、情けねェな…手ェ繋いだり、肩抱いたりするくらい、スマートに決めてもいいだろうに…)」

何度か指先を動かして、その度に思い留まる。まさか拒絶されたりはしないだろうが、踏ん切りがつかない。それでも儘よとばかりに手を握る。細く綺麗な指先は一瞬だけぴくりと動いたけれど、振りほどかれはしなかった。頬に熱が籠るのを自覚しつつ、視線を向ける、と。

…ぱちり、と視線が合う。次の瞬間、こちらを見つめる雪乃の頬がぽうっと赤く染まる。その反応に、込み上がる感情を抑え切れなかった。だって、見たか?これは、この反応は、以前自来也に美人だと褒められた時に見せていた反応と同じものだ(根に持っている)いや寧ろ、少女のように初々しく恥じらっている分、今の方が数倍愛らしい。どうだ、自来也様め!これが尊敬の対象と恋人の違いってやつだ!(粘着気質である)

「…ま、まああれだ…今日はその、挨拶とかばっかだったけどよ…」
『はい』
「そのうち、ちゃんとしたデートに誘うからよ。……結婚してからも、そんな風に…恋人みてェなことするのも、いいんじゃねェか?」

いつかは慣れて、男と女ではなく夫や妻、父や母になっていくのかもしれない。でも。今のような気持ちを、俺はずっと抱いていたい。ずっとお前に、俺は心底惚れていたい。それこそ、出会った頃と同じように、あの鮮烈な感情を胸に宿して、これからを作っていきたい。出来れば、雪乃にもそうあってほしいからな。その為の提案だ。

『そうですね。考えてみれば、正式なお付き合いもしないまま、結婚ですから』
「それを言われると痛いんだがな」

段階を吹っ飛ばした自覚はある。罰が悪くて頬を掻くと、雪乃は優しく微笑んだ。

『でも、シカクさんの言いたいことは分かりますよ。…つまり、ずっと私が、シカクさんのことで頭がいっぱいでいられるようにしてくれるんですよね?』

…まあ、その通りなんだけどよ。先程の会話を引き合いに出して悪戯っぽく見つめられ、どきりと心臓が高鳴って、二の句が継げなくなる。なんか、ものすげェ告白された気になるのは気のせいか?考えてみりゃ、雪乃が惚れた腫れたの話をしてくるのは初めてだ。こっ恥ずかしくて、ぐしゃぐしゃと頭を掻く。

「そうしてやるって言いてェとこだが…まいったな」
『?』
「―――少なくとも、俺は十年後でも二十年後でも、お前にぞっこんだろうなって話だ」

このまま、何年経っても俺は、お前に惚れたままなんだろう。今と同じ、いや、出会った頃ままの気持ちと変わらずに。

―――俺は、この手を離さずにいられるだろうか。今握っている細く柔い手を、守り抜くことが出来るだろうか。愛するものを得て初めて、喪う恐怖に怯えることを知った。俺の手の中にあるのは、里の仲間の命だけでなく、雪乃との未来でもあるのだ。ぎゅうっと一層強く手を握りしめる。決して掌から零してはならないと、己に言い聞かせるように。


大事に抱えていこう。これからの日々の中で、失くしてしまわないように。

ずっと。

ずっと……―――。




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