- ナノ -
まあ、悪くはないよ

起床時間は朝の六時。隣で寝息を立てる人を起こさないようにそっとベッドを出て、パジャマを着替えて部屋の外へ。新鮮な朝の空気を肺一杯に吸い込むと、ベランダに置いてある鉢植えに水をあげる。知り合いの奥さんに譲って貰ったもので今丁度綺麗な花を咲かせていた。そして朝食の準備とお弁当作りを並行して行う。台所に良い匂いが立ち込めてきた頃、息子の部屋をノックして起床を促した。

ここまでを見れば、ごくごく普通の一般家庭の主婦の日常に思えるだろう。私もそう思う。ところがどっこい、重要なのはここからだ。ほら、息子が階段を下りてやってきた。皆さん、目をかっぽじって彼の顔を見て欲しい。もしくは聞いて欲しい。

「ふァあ〜は…はよ」
『おはよう、でしょ?』
「…おはようゴザイマス」

短い返事を注意すると、気だるそうに言い直す声。そう、そうなのだ。この子の声は言わずとしれた人気声優、森久保祥太郎のものなのです!そして次、顔。ファンの人ならば一発で分かるであろうやる気なさげな表情。態度。後頭部でアップされた髪。あ、勿論顔は整ってるよ、そりゃああの人の子供だもの。

『顔洗って、座って』
「ん」

今年十ニを迎える一人息子の名前は、奈良シカマル。もうお分かり頂けただろう、私が誰なのか。九尾を身に宿した意外性NO,1のどたばた忍者、うずまきナルトが織り成す物語。彼が一心に努力し、ライバルを得、仲間を得、ときに辛い経験を乗り越え火影を目指すという少年ジャンプの看板漫画。…の、主人公ナルトの同期である、IQ200の超天才児、奈良シカマルの母。つまり、彼の父親、奈良シカクの妻。

―――それが私、奈良雪乃である。

驚いたかな、はっはっは、無理もない。私も未だに主人公組の息子を持つ母親になったなんて実感がないからね!ちなみに息子は、今日から忍者アカデミーを卒業して下忍として活動を始める。私が何故こんなに色々なことに詳しくて、起こってもいない未来を暗示するような台詞を吐いているのか、言わなくても分かるだろう。でも一応言っておこうか。私は漫画の中に突然放り込まれてしまった、所謂トリップ主というヤツなのだ。別に頭があいたたたなわけじゃないから。純然たる事実だから。

ある日ぽーんと知らない土地に倒れていた記憶は忘れたくても忘れられない。木の葉の里につき、漫画の世界に入り込んだことに気が付いた私がまず最初に思ったことは「死亡フラグ乱立!!」だった。当然だ、忍者や戦争、暗殺といった危険な単語がスーパーの特売の如く陳列されているデンジャラスワールド。きゃっほおおいトリップばんざーい!とはしゃぐ勇気は私にはなかった。俄然、保身に走った。記憶喪失と偽り里に住み着くと、極力原作キャラと関わらぬよう尽くしてきた。

…それが何故こうなったのか、息子を生んで十二年経った今も謎である。いやまァ、原因は旦那にあるんだけど、それは追々語るとしてとりあえず置いておこう。お、噂をすればTHE 原因のご登場だ。マル君(シカマルを心の中でそう呼んでいたりする。シカ君じゃ旦那と被るからね)と全く同じように欠伸を零す姿に親子だなァ、としみじみ実感した。

シカクさんは私を見て微笑むと、顔を洗ってきたマル君が食卓についてこっちを見ているにも関わらず、おもむろに手を伸ばして肩を引き寄せ、こめかみに唇を寄せた。ちゅ、と軽いリップ音。次いで「おはよう」と腰にクる低い声が耳元で囁いた。結婚して以来欠かさず続くこの遣り取り、いらないんですけど。心臓に悪いんですけど。原作では恐妻家と称されていた彼、今は専ら愛妻家と評判だ。マジハズい。慣れてきたけど、やっぱり恥ずかしい。息子は完全に呆れた目をしていた。ちょ、マル君違うから別に私は何にもしてないから「バカップル…」とか言わないで!

『おはよう、シカクさん。顔を洗って来て下さいね』

しかし動揺を少しも見せず、軽く体を押し返して洗面所を示す私スゴい。過剰なスキンシップは今に始まったことではないので、ポーカーフェイスはお手の物である。「つれねェなァ」と肩を竦めて、シカクさんは悠々と歩いていった。その間にお味噌汁をよそい、お茶を淹れる。家族揃って席に着くと、いただきますと合掌して箸を持った。礼儀作法や行儀に関しては厳しく接してきた賜物か、面倒臭がりのマル君は欠片もその片鱗を見せないくらい丁寧で綺麗な食事の仕方をする。姿勢ぴっしり、挨拶もばっちりである。

「お前もいよいよ下忍か…月日の経つのは早ェもんだ」
「ただアカデミー卒業しただけだろ…」
「自覚はあんのか。そうだ、まだまだひよっ子の半人前だ、お前は」

ほんと…月日の経つのは早いこと。昨日までよちよち歩きしてたと思ったら、もう下忍になっちゃうっていうんだから。あー、この子もいずれ木の葉崩しとかサスケ奪還任務とか経験すんのかァ。忍となり実績を上げていく様を見るのは、嬉しい反面恐ろしい。怪我をして帰って来た日を思うと身震いすらしてくる。私はじっと息子の顔を見た。

「…何だよ」

生意気な口利くようになっちゃったけど、相変わらずカワイー。天使やわ。…じゃなくて。

『無茶、しないのよ。危なくなったら逃げて来なさいね』
「…フツー男に逃げろとか言うか?」
『逃げるのも勇気よ。見栄や誇りより、命が大事』

生きてりゃ良いこともあるし悪いこともある。でも、生きてなきゃ何もない。命あっての物だねだ。敗走と言いたくないならほら、勇気ある撤退といいなさい。

「確かに、状況によっちゃそれも一つの手だな。だが、男には護らなくちゃいけねェもんもある」
『あら、別に男としての矜持を捨てろなんて言ってないわ』

頷きつつも反論したシカクさんにけろっと返す。何だかんだ言ってもこの子は仲間思いだし、サスケを取り返すことに失敗しても仲間が生きていたことを喜び、涙するような性格をしているのだから、絶望的な状況にあっても誰かを見捨てることは出来ないだろう。首を傾げた二人ににっこり微笑みながら言ってやる。

『シカマルはシカクさんに似て賢いから、危なくなったら仲間を連れて無事に帰ってくるような策、きっと思いつくでしょう?』

だから逃げて、次の方法を考えることを選んでね。知能的な親子二人は、揃って軍師の才があるから劣勢をひっくり返すことすらきっとやってのけると信じている。だってその軍師の才能に「原作キャラとなんかくっついてたまるか!」と誓っていた私の信念だってひっくり返されてしまったのだから。そう言えば、マル君は「惚気かよ…」と呆れながら呟いた。その耳が少し赤いことを見逃す私ではない。照れ屋なところはちっちゃい頃からちっとも変わっていない。シカクさんは「流石オレの女、よく分かってんじゃねェか」と満足気だった。…お世辞とかじゃなくて、本心なんだけど。ついでに惚気のつもりもない。

任務に出掛けるシカクさんと、説明会へと赴くシカマル。彼等はそれぞれの予定へ向かう前に、毎朝二人で修業をするのだ。場所は奈良一族の私有地、本家がある森である。現在私達は繁華街近くに住居を構えている。優秀な薬師の家系である奈良一族の家長はシカクさんだけど、本家に住んでいるのは彼の両親、つまり私の義父と義母なのだ。一族を継いで置きながら私有の土地に住まないのは可笑しいことかもしれないが、こっちの方が買い物にも便利だし、アカデミーにも近かった。同居が嫌、とかいう理由では決してない。二人とも実の娘のように可愛がってくれるし、シカクさんとシカマルは鹿の世話と修業にほぼ毎日、私は三日に一回は必ずあちらを訪れるので、顔を合わせない方が珍しいくらいだ。仲は至って良好。ただ、もう少しここに住んでいたい、という気持ちがあるから。それだけだ。

ここは、私達夫婦が結婚生活を開始した思い出の場所なのだ。まだ一族を継いでいなくて、一人暮らしをしていたシカクさんのアパートに私の荷物を運び込んで、家族が始まった。マル君が生まれてからずっと育ってきた場所でもある。シカクさんと相談してせめてマル君が十五になるまではここに住み続ける心積もりだった。マル君が一人暮らしをしたいならそのまま使っても良い。…家事が面倒だと言って、私達について実家暮らしになる可能性も大だけど。

お弁当を手渡して、いってらっしゃーいと小さく手を振る。シカクさんは再び近付いて、今度は額にちゅっとキスをする。それには私も頬に唇を落とすことで応えた。ははは、恥ずかしいけど結婚直後の約束で"いってらっしゃいのキス"だけは私もしなくてはいけないことになってんだよね。玄関先での恒例となっていて、欠かさず続けてきた。気分はいつでも新婚さんだ。またマル君は呆れていた。ごめん、分かってるよ。両親のラブシーンなんか息子からすれば寒いだけだよね。でも、やらないとシカクさん機嫌悪くなるからさ、ね?

「行って来るな、雪乃」
「…行って来る」
『気をつけてね、シカクさん、シカマル』

こうやって息子と夫を送り出すのは、もはや日常。最初の頃は困惑しきりで、中盤はどうにでもなれと開き直って、そして今は。

『よしっ、今日も頑張りますか』


うん、中々悪くはないよね。奈良家の嫁もさ。


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主人公独白。
これが結構客観的に見た場合とキャラが違う。素を出すと驚かれるから、喋り方は意識してすましている。



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