- ナノ -
泡沫

はあ、と深い溜め息を吐く。任務帰りの疲れをシャワーを浴びることで癒し、濡れた髪を拭き上げる。この度のAランク任務は一週間かかったが、内容としては大した怪我もなく、アクシデントにも見舞われず済ませることが出来た。だが、間を置かずして次の任務が組まれるのは頂けない。昼に戻って来たばかりだというのに、明日の朝にはもう次の任務に走らなければならないのだ。いくら人手不足と言っても、こうもこき使われるものなのか。

「(…やってられねェな)」

苛立つのは、それだけが理由ではない。アスマの心に深い淀みを落とす存在。それは、四代目火影に就任した波風ミナトという男のことだ。別に、彼個人に何らかの弊意があるわけではない。カカシから幾分か話も聞いているし、実際に闘っているところを見たこともある。黄色い閃光の名に違わない、実力者だと思っている。彼が四代目に就任したのは妥当だろう。事実、里の者は歓迎し、彼がトップに立ったことは戦後の収拾にも一役買った。

これはただ、アスマの個人的な感情に過ぎない。アスマにとって火影とは、後にも先にも、自らの父である猿飛ヒルゼンのことを指しているだけ。里のことばかり優先して、家族を蔑ろにして、その癖偉そうに父親面だけはするくせに、火影としての立場は崩そうとしない、どっちつかずのクソ親父だ。父親ではなく火影なのだと割り切ることが出来ればよかったのに、たまに見せられる親としての顔がそれを許さない。何もかも見透かしたような瞳と物言いが、癇に障ってしょうがない。

なのに、情けない。餓鬼でもないのに、胸糞悪くてしょうがない。父が引退して、火影の名を冠する者が変わったというだけなのに。アスマが目指していたものが、なりたかったものが、越えたかった存在が、急に目の前から消えてしまったような錯覚すら起こしてしまった。仕方がないことだ。分かっている。世代交代なんて当たり前なんだから。

「……あ」

着換えを終えて、ふと外に視線をやる。そのまま何となしに家を出て、里の中を歩きはじめる。中忍になった時に、アスマは猿飛の屋敷を出て、一人暮らしを始めていた。なるべく父親と顔を合わせたくないと、そう思ったからだ。目的の場所の前に立つと、少しだけ躊躇ってから、ガラガラと引き戸を開いた。

「いらっしゃ……おう、どうした坊主。ここは餓鬼の来るとこじゃねェぞ」
「いや……その。…………雪乃さん、いますか」

おず、と口を開くと、店の主人らしき男は目を瞬かせて、それから頬を掻いた。「あー、嬢ちゃんの知り合いか」と声が掛けられる。…知り合い、と言ってもいいものか。確かに名前はお互い知っているし、何度も話したことはあるけれど。では、自分達の関係はなんなのだろう。友人というには年が離れすぎているし、かといってただの知り合いと言ってしまうのは、何となく釈然としない。結局、頷くことしかできなかった。

「悪ィな、今日あの子は休みなんだ」
「……そう、なんすか」
「ああ。最近本当に元気がなくなっちまってな…無理してんのが丸分かりで、見てるこっちが辛くなる。無理やり休み取らせたんだがよ。…坊主、知ってっかよ?」
「…シカクさんのことですよね」

そう。これだ。アスマを苛立たせる理由の、もう一つ。アスマにとっても決して深くない関係を築いている先輩、奈良シカクが木の葉の里に未だ帰って来ていないことだ。アスマはとある任務を切っ掛けとして、この居酒屋、苦楽で働いている女性、雪乃と知り合いになった。それからだ、里内で顔を合わせると、何となしに世間話をするようになったのは。

何故こんなにも彼女のことが気になるのか、正直よく分からない。けれど見かけると、話しかけずにはいられない。彼女のことを考えると妙な動悸がするし、顔が熱くなる。少しでも会話が出来た日は、自分でも驚くくらいに調子が良い。その気になって仕方がない相手が今…婚約者が行方不明になっていることで、意気消沈している。哀し気な表情を見ると胸がぎゅうっと締め付けられて、落ち着かない。だから、こうして任務が終わる度に、彼女のことを探してしまう。自分に何が出来るわけでもないくせに。

店の主人に礼を言って、店を出る。言い訳も考えずに、雪乃の部屋に行っても、彼女は留守だった。そのまま彼女が行きそうな場所を手あたり次第に訪れてみる。いない、ここにもいない。何処にもいない。何度も繰り返していくうちに、焦燥感が込み上げてくる。気が付けば、アスマは走り出していた。途中、紅を始めとした友人と擦れ違った気がしたが、脇目も振らず走り続ける。

「(………俺……何でこんなに焦ってんだよ…!訳分かんねェ…!!)」

雪乃は、大人だ。アスマよりもいくつも年上で、凛とした佇まいをした、立派な女性だ。自分なんかが心配することなど、何一つだってない。彼女だって分かっているはずだ。忍という職に就いている時点で、こうなることなんて、何処かで予測出来たことだって。恋人が、家族が、友人が還って来ないなんて、別段珍しいことでもない。掃いて捨てるほどある、ありふれたことだ。アスマだって戦友を何人か喪った。それが戦争というものだ。仕方がない。

俺に、何が言えるのだろう。彼女に会って、何を言うつもりなのか。陽が落ちる。夕暮れに町が染まる。闇が迫って来る。暗い夜の中を駆ける忍にだって、怖いものはある。誰だって、闇は怖い。孤独は怖い。―――では、彼女は?

「―――……雪乃さん!!!!」

薄ぼんやりと蛍が輝く橋の上で、欄干に寄りかかる背中を見つけた時、ほっと安堵すると同時に、背筋に悪寒が走った。そんなはずない、という思いと、まさか、という思いがせめぎ合っている。アスマは思わず、乱暴なほどの性急さで彼女の腕を掴み、振り向かせた。僅かに見開かれた黒い瞳。そんなわけない、早合点だ。……雪乃が死のうとしていたなんて、そんなわけない。

―――そんなわけない、筈なのに。

『……アスマ……君?』

それを否定出来ない自分がいる。二人がどんなに想いあっていたか、嫌と言う程に知っていたから。



馬鹿げてる。馬鹿げている。肩で息をしながら、アスマは雪乃の腕をぎゅうっと強く握った。瞳を鋭くして、無機質な、何の感情も籠っていない顔を睨み付ける。彼女が本当はとても思慮深くて、優しい人なのだということは分かっている。あの人が…シカクさんが傍にいれば、柔らかく笑うことがあるということだって、知っている。こんな…こんな冷めた顔をするような人じゃなかったはずだ。

シカクさんの存在が、この人をこんなにも絶望させるのか。

『別に何をしようと思ったわけじゃないの……ただ、何となく足を運んだだけ』
「そんな、」
『蛍が綺麗だってこと、知らなかったから。…シカクさんにも、見せてあげたかった……』

そう言って、何処か悲し気に、儚げに笑う横顔が、とても綺麗だと思った。一緒に見られなかったという蛍の淡い命と同じように、彼女まで消えてしまいそうで。シカクがもうこの世にいないとそう知れば、躊躇いなく後を追ってしまいそうなくらいで。アスマの胸を、締め付ける。

馬鹿げている。馬鹿みたいだ。人は死んだら、それまでじゃないか。アスマは知っている。もう現実に夢を見るような幼い時期は、とっくに過ぎている。人の命があまりにも簡単に散ってしまうものだということは、忍として敵と相対した時点で誰もが突きつけられる現実だ。変わらない真実。そうだ。死んだ者は、帰って来ない。どんなに嘆いても、悔いても、悲しんでも。願っても、だ。そう、還って来ない。

もし戻ってくるのならば、それは死者の魂だけだ。躯は地に還り、魂だけが想いとなって、愛しいの人の元に還る。―――還るのだ。

シカクが本当に死んでしまったのかは、まだ分からない。何故なら、誰も死亡を確認していないからだ。最後の戦いが終わり、里に帰還していない彼が、もしかしたら戦死したのではないかと実しやかに囁かれているだけ。真実は分からない。けれど、生存が絶望的だというのもまた事実だ。半年の間音信不通である彼が、再びここに戻って来ない可能性の方が高い。諦めてしまえば、楽だろう。シカクの生を信じるか信じないかは、雪乃の勝手なのだ。

認めたくないのは、アスマが抱く、醜い感情のせい。

「ふざけんな……」
『アスマ…君?』
「ふざけんな!!だからって、あんたがしようとしていることに、意味があんのかよ!!」

馬鹿げている。後を追って死ぬなんて、本当に馬鹿げている。この世界で、人が死ぬなんて珍しくない。割り切っていないと、心が張り裂けて死んでしまう。自分が殺人者だなんて思っていては、生きていけないのだ。


「仕方ないじゃないか…ここは、そういう世界なんだ!!人は、死ぬんだよ!!呆気ないくらい簡単に!!それが、忍びの世界だ!仕方ねェだろ!!!」


そういう世界なのだと、諦めてしまうことが、生きる術だ。

なのに。


『―――仕方なくなんてない!!!!』


叩き付けられるように吐き出された言葉が、アスマを硬直させた。雪乃は泣き出しそうに瞳を揺らして、こちらを見ていた。噛みしめられた唇から、音が洩れる。彼女がこんな声を出すところを初めて見た。呆気に取られていたのかもしれない。

『……仕方なくなんてない……仕方がないことなんて、この世に何一つ……何一つないわ』

押し殺すような声に込められた感情に、押し黙ってしまう。急速に自分のうちにあった勢いが萎んでいく。

『仕方ないって、大切な人がいなくなることは、そんな簡単に諦めてしまえるものじゃないでしょ?』

アスマは真っ直ぐに見つめられて、二の句が継げられなくなった。雪乃の声を聞いて、その通りだと思う反面、自分が抱いていた想いを見透かされた気さえして、かっと頬が熱を持った。胸に宿る感情が、嫉妬だということに自覚はあった。そうだ。自分は、嫉妬しているのだ。シカクのことを忘れようとせず、一途に想い続けている雪乃を見て。そうだ。分かっていた。初めて彼女を見た時に感じたこれが、恋なのだということに、気が付いていた。そうだ。だから、アスマは非情な現実を突きつけて、雪乃に諦めて欲しかったのだ。分かっていたことだ。


―――どんなに好きになったとしても、目の前の綺麗なひとはアスマのものにはなってくれない。

それが悔しかったのだ。


その時だった。はっとしたように雪乃が周囲を見渡す。そのまま走り出した背中を、数拍置いてアスマも追い掛けた。あまりにも唐突な行動に、一瞬何が起こったのか分からなかった。未だ、彼女が自ら命を絶ってしまうのではないかという懸念が消えない。また何か妙な気を起こさないかと、必死になって追いかける。というか、忍でもないのに、彼女はどうしてこんなに足が速いのか。それとも俺が鈍っているだけか?とぐるぐる考えながら、走る。


そこで、アスマの足は止まった。


まるで世界に二人しかいないように、じっと見つめ合う、シカクと雪乃の姿があったからだ。


シカクが幻なのではないかという考えは、不思議と浮かばなかった。彼が外套を羽織り、薄汚れた様相だったというのもあるかもしれない。でも、偽物にも、幻覚にも思えなかった。ただ、ああ、還って来たのだ、と思った。シカクは魂だけでは飽き足らず、その肉体と共に、生きたまま雪乃の元に帰って来たのだ。


そこで感じたのは敗北感よりまず、深い安堵だった。


アスマが、彼らともっと年が近ければ良かったのだろうか。子ども扱いされない年齢だったのならば、彼女は少しでもアスマのことを見てくれただろうか。始めから同じ土俵にすら上がっていないなんて残酷だ。シカクが還って来ないことを、チャンスだと僅かでも考えてしまった自分の浅ましさが疎ましい。でも、漸く理解出来た。


アスマは、シカクのことを深く愛する雪乃のことを好きになったのだ。

まるで子どもっぽい、恋に恋するような稚さで、恋をする雪乃を愛しく想った。




―――初恋が実らないという言葉も、苦い記憶ともともに知った。





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