- ナノ -
弱く、つよいひと


泳がせていた他里の忍が動いた―――。

木の葉の里の長である三代目火影から聞かされた言葉は、やっとかという思いで受け止めた。ただ一つ誤算があったとすれば、件の忍が禁術指定の巻物とともに、木の葉の里の一般人を人質として連れ去ったことだった。正直自分からすれば何だその程度、という感じなのだが、身内に甘い三代目からすれば一大事なのだろう。一刻も早く追跡し、人質を救出せよとの命が下った。

「参ったの…まさかあの娘が連れ去られるとは…シカクになんと言えばいいのやら」
「…?」

どうしてそこで奈良家の次期当主、奈良シカクの名が挙がるのだろう?その人質というのは彼の縁者なのだろうか。三代目としては「雪乃が浚われただと?!」と普段の冷静さを欠片も見せず駆けて行くことは分かり切っていたが、まさか黙っているわけにもいかないだろうと複雑な心地だ。何せ、敵と分かっていながら尻尾を出させるように作戦を立てていた張本人がシカクなのだ。彼はもうすぐ、任務を終えて帰ってくる。そんな三代目の心境など露も知らず、命じられたことを実行すべく里を発つ。

「(かったりィな…さっさと終わらせるか)」

人質は無傷で助けろ、とは言われていない。生きてりゃいいか、なんて物騒なことを考えながら森の中を突き進む。油断するつもりがなくとも、多少の慢心があったのは事実だろう。だから目標を見つけたとき、男が人質であろう女に向かってクナイを振りかぶっているのを察知し、肝が冷えた。流石に物言わぬ死体となってしまっていたら、こちらとしても立つ瀬がない。素早くクナイを投擲し、攻撃を阻止する。

「っ、何だと!!」

キイン、と弾かれた武器に驚きを露わにする男。やっぱり雑魚だ。自分の気配を察してもいなかった。

「…その人を離せ」
「な、なんだてめェ!木の葉の忍か…ガキがぁ!」

静かに感情を抑えて発した言葉に返された罵倒は、聊かも琴線に触れない。ガキだからなんだ。自分が一般的に子どもと言われる年齢であるのは分かっているが、忍者には大人も子どももない。強さがすべて。徹底的な実力社会だ。特に今のように激しく脈動している時代においては。ガキだろうとなんだろうと、大人にも勝てる。そういう世界で…自分は、勝てる方だ。再びクナイを構え、跳躍した。

ちらり、と一瞥をくれたが、女はこちらに視線を向けたまま立ち竦んでいる。その右頬は赤く腫れている。争い事に縁のない一般人が忍同士の戦いを見て萎縮してしまうのは当然だ。そのまま大人しくしていてくれればいいと思い、意識の中から一度女のことを追い出した。だからだろう。白く細い手がまさに敵の命を絶たんとして向けたクナイを掴んだとき、束の間時を忘れて固まってしまったのは。

クナイを握る手に伝わって落ちる、生温かい液体。それが女の血だと気付いたのは遅かった。そして同時に、見慣れているはずのそれにひどい忌避感を感じた。指先が震える。馬鹿な真似を、なぜこんなことを、そう罵りたい。そう問いたい。のに。見上げた先にあった彼女の表情は痛みなんて感じていないかのように小動もせず。―――瞳は、透き通るように純真な光に満ち満ちていた。なぜ。蚊の鳴くように細く、声が出た。

「…もう、止めましょう。こんなことは…傷付くだけです」

そう言いながら見つめた先には、膝を着いたままの男がいた。男の動揺も手に取るように分かった。当たり前だろう…自分を殺そうとした相手だというのに。そんな言葉を言える人間がこの世界にどれだけいるだろう?利己心や欲に塗れた思惑が溢れている現実のなかで、嘘や欺瞞ではなく、真実から他者を思いやることが出来る人間がいるなんて、信じられなかった。けれど、疑う余地もない。目の前にいる人の目には、一抹の寂しさと諦観、そして紛れもない慈悲の心しかなかったのだから。

クナイを持つ手が、自然と離れる。赤い血が滴る。あまりにも隙だらけの状態だったけれど、男は項垂れたまま、もう抵抗する気もないように見えた。

「……あんたみたいな人がうちの里にもいりゃぁ…こんな思い、する必要なかったのかもしれねェな」

多分、本心から出た言葉だろう。忍者を道具のように思わず、蔑まず、侮らず、そして憐れまず。ただ純粋に愛しみ、慈しんでくれる存在がいてくれさえすれば、この世の誰にもそんな存在がいれば、争いなんて、決して生まれなかったのだろうから。そして自分は今…きっと、彼女が木の葉の里にいてくれた事実に、感謝すべきなのだろう。

彼女が固く握っていた手のひらを解くと、血に濡れたクナイが落ちる。そこで漸くはっとした。そうだ、この人は怪我をしているではないか。自分が攻撃しようとしたのは彼女ではなかったけれど、傷つけてしまったことの罪悪感が僅かに浮かび上がる。そして、そんなことを考えた自分の心にまた、驚く。あまりに日常的過ぎて、麻痺してしまった人を害することに関する抵抗が蘇ってきた気がした。

ほっとしたように息を吐いている女性に声を掛けようとして、逡巡する。自分はこの人の名前すら知らない。知りたい。聞けば、教えてくれるだろうか。戸惑いながらも口を開きかけたその時、

「雪乃!!」

聞き覚えのある声が聞こえた。そちらの方を見やると、いつもはどこか飄々としていて気だるげな雰囲気を崩さない奈良シカク上忍がいつになく慌てた様子で駆けてきていた。もしかしなくても、知り合いなのだろうか。そういえば三代目が何か言っていたような。そう思う間もなく、

「無事か、雪乃!」

彼は傍によるやいなや、ぎゅっと目の前の女性を抱きしめる。そしてその鼓動を確かに感じることに安堵して溜め息を零した。

「怪我してるじゃねェか!畜生、お前の白魚みてェな手に傷付けやがって、どこのどいつだ!!」

………もしかして、俺ヤバいか?怒気を漲らせ始めた様子に、そそくさとシカクさんから距離を取った。この人はやるといったらガチでやる人だ。その頭脳と作戦立案能力もさることながら、何より特筆すべきは実行力だ。頭の中で組み立てた作戦を綿密に実行し、また実行させる能力は秀逸といっていい。容赦などない。…いざとなったらこの男を犯人にしたてあげよう、と半ば本気で考えた。

「…おい、雪乃?……なんだ、眠っちまったのか」

見ると、シカクさんの腕のなかで静かに彼女は意識を落としていた。雪乃、って言うのか…。胸の内で反芻しながら、ふと目に入ったシカクさんの表情に目を瞠る。

「……悪かった。護ってやれなくて…けど、無事で良かった」

―――まるで、とても大切な宝石を見つめているような目。
この世で最も愛おしい存在を前にしたような優しい表情。

驚いた…この人が、こんな顔をするなんて。もっと淡泊な人だと思っていた。彼は確かに人当りがいいし、面倒見も良い人だったが、やはり頭がいいせいか、この世界の裏を誰よりも分かっていたように思える。時折感じた気のせいかと思うくらい微弱な雰囲気は、どこか酷薄で。特定の一人を大切にすることなんてないのだろうと、勝手に考えていたのに。

…或は。この人が、シカクさんを変えたのか。

「おう。お前が助けてくれたのか」
「いえ、別に…任務なだけです」
「何だ相変わらず可愛げがねェな」

可愛げなんて求められても困る。ムスっとした自分にシカクさんは笑う。それから敵の男を改めて拘束し、事の顛末を説明する。シカクさんは「こいつらしいな」と笑いながら雪乃という人の行為を全肯定していた。何故だ。笑ってすませることか?

「こいつはこういう奴なんだよ」
「誰かのために自分が傷ついても構わない、って?」
「…ああ。だから、放っとけねェんだよ」

また、愛おしそうに腕のなかの人を見る。確かに、そうだ。自分より年上の人なのに危なっかしくて、放っておけなくて…そして、とても眩しい。

「自分が情けねェな、惚れた女の一人も護ってやれねェんだ。…だから、お前はオレにとっても恩人だ。感謝してんだぜ?」
「だから、オレは別に…」
「素直じゃねェな、オレに感謝されるなんて滅多にねェんだ、受け取っとけ。ありがとな…








―――アスマ」


その謝辞には憮然として返して。オレ…猿飛アスマは、雪乃と呼ばれた女性を見つめる。誰よりも弱いのに、誰よりも強いその人を。



胸のなかに生まれた、僅かな熱には気付かないまま。




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