- ナノ -
高嶺の花

シカクの口から女の名前が出ることは、別段珍しいことではなかった。何処そこの忍具屋の娘だとか、他国で出会った旅人だったとか、長い付き合いの友人ではあるが呆れてしまうこともしばしば。そんなシカクが、あるときから一人の女の名前ばかり連呼するようになった。誘い寄ってくる女の一切を跳ね除けるようになった。可笑しい、と思うわない方が無理というもの。シカクは会う度、

「たまにちょっと眠そうに瞼を擦るときがあるんだが、それがまた可愛くてな」
「今日は珍しく雑談に付き合ってくれたぜ」
「雪乃…あいつにぴったりな名前だよな」

と、耳蛸になるくらいその女の名前を出して、相好を崩した。雪乃。聞覚えがある。異国風な雰囲気を持った、記憶喪失の娘だと聞いていた。あんまりにも良い女だとシカクが繰り返すので、おれとチョウザはよし、ならばその女の顔を一度拝んでやろうと思い、居酒屋苦楽に繰り出した。店に踏み入れたおれ達を中音の声が迎え入れる。

一目見て、シカクではないが成る程確かに言うだけのことはあると納得してしまった。木の葉の女とも他国の女とも一線を画した印象を齎す雪乃という女は、本当に記憶喪失なのかと訝ってしまうくらいにそつない仕事っぷりで、凛としていて隙がない。ただ一切の感情を見せない鉄面皮だけが記憶と共に感情もなくしてしまったのかと感じさせた。

「なァ、雪乃ってのはあんたのことか?」
『はい、そうですが。…そちらは?』

何か用か、と向けられるのは黒い瞳。

「あ、悪かった名前も言わずに。おれは山中いのいちってモンだ」
「おれは秋道チョウザ」

名乗ったにも関わらず、雪乃さんはさして興味もなさげに注文を聞いてきた。とりあえずと料理を頼み、チョウザと目を見合わせた。彼女に視線が惹き付けられる。シカクが惚れ込むのも分かった気がした。肩を流れる髪を掻き上げる指先の流れや仕草の一つ一つすら、目を逸らすことを躊躇わせる。平凡な顔立ちと裏腹に、纏っている匂い立つような魅力と魅惑的な振る舞いが彼女の非凡さを窺わせた。それを悟ると同時に、

「…シカクも、厄介な相手を選んだね」
「そうだな」

親友の望みのなさに、ついつい同情してしまった。あれは、無理だろう。高嶺の花過ぎる。うーん、と苦笑いをしていると、噂をすれば何とやら、シカクがやってきた。こちらを見つけて、ぎょっとしている。面白半分に恥ずかしい昔の(といっても全て一年以内の話)をバラしてやったら、目に見えて怒りを露にした。悪い、慌てようが面白くて、つい。

『ご注文は以上でお揃いですか?』
「雪乃、誤解すんなよ?今のおれはお前一筋だ」
『ではこちら伝票になります』
「…」
「シカク、完全に相手にされてないね」

チョウザに激しく同意する。泣けてくる。本当に悪かったな、からかったりして。もうやらねェから…ぽん、と肩を叩けば凄い勢いで睨まれてしまった。だが、あの様子はおれ達が余計なことを言う前からああだったのだと確信出来る。そこは人のせいにすんなよ?

「っち…てめェらに話したことがそもそもの間違いだったぜ」
「よく言うな、散々惚気聞かせやがって。そりゃ、顔見たくもなるだろ」
「言っとくが、惚れたりすんなよ?」

いくらお前等相手でも容赦しねェぞ?とそう言うシカクの眼は間違いなく本気だった。これは、おれとシカクが中忍試験の本戦で闘うこととなったときと同じく、真剣な色を持った瞳。いつも悠々としているヤツが、垣間見せる表情。おれは、びっくりして目を丸くしてしまった。この女にだらしない男が、よくもまァここまで。驚いたのはチョウザも一緒だったらしく「惚れないから睨むなよ」と言いながら酒を煽った。

「……お前、本気で好きなんだなァ…」
「………わりーかよ」
「んなこと言ってねェだろ。感心してんだ、お前が一人の女にそこまで入れ込められたことに」
「……おう」
「今のところ、眼中にねェみたいだけどな」
「やかましい」

恰好付けのシカクが、女に袖にされていること、本気になっていることを隠そうともしなかった。きちんと本音を教えてくれるのが嬉しくもあり、感慨深くもある。ふんと鼻を鳴らして随分と早いペースで酒を呑むシカクにどうにかして上手く仲を取り持つ方法はないだろうか、と考えた。

『あの、水をどうぞ』
「あ、悪いね、雪乃さん」
「ほら、シカク起きろ。雪乃さんが来てくれたぞ」

今日はやけに酒の回りが速いらしいシカクは、だらしなく机に突っ伏している。雪乃さんは店員らしく素早い対応で冷水を持ってきてくれる。今にもそれをシカクにぶっ掛けそうなオーラを感じたのは気のせいだろうか。気のせいと思うことにしよう。とにかく、こいつが起きなくては話にならない。必死に揺するが、起きる気配はない。そのまま行こうとしてしまう彼女をチョウザが引き止めてシカクの援護射撃をする。流石だ、チョウザ!心の中で喝采をしつつ、おれも便乗する。しかし返って来るのは、

『はァ』

という気のない返事。何処までも冷ややかだ。完全に興味がないらしい。絶対零度の視線を浴びて、歴戦の忍であるこっちがビビってしまった。本当に一般人なのか?すまんシカク、やっぱ無理みたいだぞ。

「………雪乃……」

そのとき、シカクが雪乃さんの名前を小さく呟いた。間を空けて、落とされた溜め息。

『…悪い人とは思ってませんよ。どーしようもない人だなァとは思いますけど』

シカク、どうしようもない男だと思われてるらしいぞ。評価が底辺だ。見込みが塵に等しい。好意を持たれていることは、微塵も琴線に触れないらしい。細い指が、そっとシカクの髪を撫でる。

『………可愛い人だなァって、思っちゃうんですよね』

思ってもみなかった言葉は、おれ達の眼を点にさせた。か、可愛い…?!こいつを可愛いなんて評する強者がいるなんて。それよりも何より、おれ達の思考を奪ったのは彼女が浮かべた表情だった。

笑っていた。無表情が嘘のような、子供っぽい笑顔で。唇の端が釣り上がっているのを確かに見た。何が感情をなくしてしまったよう、だ。これはどうだろう。呼吸を一瞬忘れてしまいそうな微笑みは、柔らかく細められた目元は。彼女が決して人形のように心ない人間ではないと教えてくれる。

おれとチョウザは僅かに顔を赤くして、間の悪い男を見た。シカクは一度も彼女の笑った顔を見たことがないと言っていた。いつか笑わせてやりたいとも。もし今起きていたら、綺麗な微笑を見ることが出来たかもしれないのに、こんなときに限って酔い潰れるなんて本当に間が悪い。おれとチョウザは心の中で合掌した。




/7/次

戻る