- ナノ -


*伍*






目の前に、薄い桃色の花弁が落ちてくる。
俺は手元の書類から視線を上げて、その花弁を手に取った。
桜の花びら…
風に乗って、ここまで流れて来たらしい。


「…もう、春か…」


早いものだ。
ここに来たばかりの頃は、身を切るような寒さだったというのに
今はもう暖かな日差しが降り注いでいる。

春は、嫌いじゃない。
春には桜が咲く…そして、月が綺麗だ。
まるで夢幻のように幻想的なものが多いこの季節には
俳句の創作意欲も掻き立たされるというものだ。
今は忙しくて叶わないが、落ち着いたら一句詠んでみるとしよう。

俺は文机の前から立ち上がり、部屋の襖を開けて外に出た。
太陽の光は燦々と漲っている。
新鮮な空気を吸い込むと、少しばかり陰鬱になっていた気持ちが晴れた。
墨の匂いに慣れきっていた嗅覚も幾許か元の感覚に戻る。

そこで俺の耳は、妙な音を捉えた。

ザクザク、と土を掘り返すような音。
断続的に、途切れては始まり、始まっては途切れるを繰り返している。
動物かと思ったが、それにしては妙だ。
首を傾げながら音の方へ足を向けると、その正体が視界に映った。


「…何してんだ、お前」
『……あ、土方さん。こんにちは』


見えたのは、小柄な背中だった。
男にしては華奢で、線の細い体躯と肩幅。
その後ろ姿の持ち主にはすぐ思い至ったが
何故こいつがこの場で小刻みに揺れながら土を掘り返しているのか理解に苦しむ。
軽く声を掛けると、奴はくるりと振り返った。


「…!」


土で汚れた頬を着物の裾で拭う仕草をして、
男の格好をした女――月島はにこりと笑いかけてきた。
木漏れ日に照らされて、舞い散る桜の花びらに彩られたその顔に
一瞬息を止めて見惚れてしまったのは、こいつが「女」に見えたからだ。

最初の頃はそこいらの野良猫のように警戒心丸出しだった…
癇癪玉みたいにピリピリした様子は威勢の良い少年に酷似していて
どう見ても女なのだが、中世的な顔立ちも相まって男に思えないこともなかった。
そのせいか、未だこいつを男と疑っていない輩も多い。

しかし…今は、違う。

近頃は生活にも慣れ、平助を筆頭とした者達と仲良くやっているらしい。
源さんからは「よく手伝ってくれる良い子」と評判も良い。
彼や平間さんには懐いているようだ。
暮らしに慣れ、人に慣れ、最初の警戒心が薄まったからなのか…
月島の表情は、目に見えて柔らかくなった。

だからか、全ての動作の男とは違う繊細さが浮き彫りになってしまった。
今みたいに穏やかに笑まれれば、尚更だ。
こいつ…このままでやっていけんのか?
これじゃ女ってバレるのも時間の問題だぞ。

俺は出そうになった溜め息を抑えて、月島を見た。
奴は笑顔のまま、掘っていた場所を指差した。


『庭の隅っこに、種を蒔いてたんです』
「種だぁ?」
『はい、野菜の。八木さんの奥様には許可を頂きました』


あまり一目につかない所なら、好きにしてもいいって。
でも日当たりの良い部分を教えて下さいました。
本当にお優しい方ですね。
にへら、と締りのなく口元を緩ませて、言った。

種…何でまた。
疑問符を浮かべた俺に気付いて、奴は続ける。


『えっと…食材を自分で作れたら、食費が浮くかなって思いまして…
経済状況、あまり芳しくないようなので井上さんと相談してたんです』
「源さんと?」
『はい。少しでも工夫しようってことになりまして。
私、自宅じゃ見様見真似に野菜作ってたのでちょっとやってみようかと』
「…」
『勝手なことしてすみません、土方さん達にも許可を貰いに行こうと思ってたんです。
でも種とか買ったら、気持ちが急いてきちゃって…』


ぼそぼそと小さく語る月島に、俺は呆れた。


「お前、芹沢さんに許可貰ったら出てくんだろ?
こんなことしちまって、その後どうするつもりだったんだ?」
『…あ』


初日に許しを得たらさっさと出て行くと息巻いていたことを忘れたのか。
そう思って問いかければ、そういえばという顔をした。
…完全に失念していたわけだな。


『え、えと…井上さんに頼んでおきます。そしたら…』
「別に責めてるわけじゃねェよ。俺達のことを気に掛けてくれるのはありがてェ。
だが、ちゃんとてめェのこと一番に考えてろよ」
『…はい』


実るのなんて、ずっと先だ。
こいつがそんな時分までここにいることは出来ないだろう。
芹沢さんが許可しない云々じゃない…

この女をもしかしたら、斬らなくてはならなくなるかもしれない。
生きてここから出ることは叶わないかもしれない。

そう考えると、非常に心の内は苦くなる。
だから俺達の懐事情なんて無視して、ここから去ることを考えて欲しかった。
それを一番に、考えていて欲しい。
…同じ釜の飯を食った奴を、しかも女を平然と斬れる程自分は鬼じゃない。

少しばかりしょぼんとした月島に苦笑が零れる。
俺はその顔を晴らしたくなって、声を掛けた。


「で?何を育てるつもりなんだ?」
『あ、一応人参と胡瓜…後大根を。大根は沢庵とかにすれば日持ちしますし』
「……沢庵、だと?」
『はい。…あれ、お嫌いですか?』
「いや」


嫌いどころか、好物である。
しかしそれを言うのはこっぱずかしくて、視線を逸らす。
月島は首を傾げて俺を見ていた。


「虫には気を付けろ。肥料にも手を抜くなよ」
『えっ』
「野菜っつーのは繊細だからな。こまめに気に掛けてやれ」
『は…はい』


他にも野菜を埋めた場所と場所の区切り方や
観察の仕方など気になったことを随時挙げていく。
真剣に頷いて聞いている月島を見れば、自然饒舌になった。

…癖というのは、中々抜けない。
薬の行商や商家での奉公、百姓仕事…
長年経験してきたものは全て、しっかり身に染みている。
野菜の育て方一つもそうだ。

月島はふと、怪訝そうな顔つきになる。
そして「随分とお詳しいんですね」と零した。
その言葉に苦笑しながら「元は百姓だからな」と返してやる。
奴はひどく、驚いた顔をした。


「俺と近藤さんはそうだ。
農民の生まれだが武士になりたくて、ここまできちまった」
『…そう、なんですか』


何故こいつがこんな顔をするんだか。
心痛そうに眉を下げて、土を弄くる月島。
分際を弁えず、愚かな夢を抱く俺達への嘲りか、憐れみか。
どちらとも取れない表情をしていた。

…思えばこいつも、不思議な奴だ。
あの斉藤をして「怖ろしい」と言わしめる内に秘めた才能。
俺達と同じように鋭く狂気を孕んだ眼。
多分本人は気付いていないんだろう。

しかしそれでいて、こんな風に自分以外の者のことを考えている。
心を砕いて、時間を割いて、試行錯誤している。
他人に対して無造作に装っているくせに、損な性格をした女だ。

俺は手を伸ばして、月島の頬に付いている
拭い切れていなかった土を親指で拭った。
その手を下ろさず、そのまま目の前にある小さな頭に乗せる。
きょとんとした月島に向かって少し笑んで、くしゃりと髪を撫でた。


「ありがとな」


芹沢さんに無茶言われて、殴られているのは知っている。
新見さんにまで雑用を押し付けられて、苦労しているのも知っている。
その上源さんの手伝いをして、へとへとになっていることも、知っている。

でもお前が、泣き言一つ言わずに文句の一つも零さずに
朝昼晩と駆け回っているのもちゃんと、分かっているから。
俺は手出ししないし、口出しをするつもりもない。

御蔭で、助かってる。楽させて貰ってる。
だからどうか―――




生きて、ここから出て行ってくれ。