- ナノ -

廻る血潮と



しーんと静まり返ってしまった広間。
何となく重苦しい空気が広がってしまったらしい。
しかししばらくして誰かが食事を再開すると、
他の人も誰からともなくまた箸を手に取って食事を始めた。
私もほっとしながら、お浸しを口に含む。
このままお開きとかになっちゃったらどうしようかと思った。


『…ん、』


ふと隣を見つめて、先程自分で食べるからと言った沖田が
手付かずのまま食べるのを止めていることに気が付いた。
…この男、喧嘩売っているのか。
溜め息を吐きたいのを堪えて、注意しようと沖田を見やる。
けど私は、諫言を音にすることが出来なかった。

上座を見つめる沖田の眼が、とても寂しそうだったからだ。
何かに焦っているような、独りぼっちを悲しむような…
置き去りにされた子供にも似た哀愁の色を見付けて、息を飲む。
こんな目をする沖田を、私は知らない。

いつも自信満々に、人を食った態度をしている沖田が?
口から生まれたかと思うような、皮肉屋の沖田が?
思わず呼吸を止めて見入ってしまうような目をする?
目の前の光景が信じられなくて沖田を見つめる。
そしてゆっくりと、彼の視線の先を追った。


「お、おい何すんだよ近藤さん。
これじゃ、あんたの食う分がなくなっちまうだろ」
「何、遠慮することはないだろう。
試衛館にいた頃はこうやって食事を分け合ったもんじゃないか」
「いや、確かにそうだが…あんた、全然食ってねェじゃねェか」
「俺はもう食べたさ。だから、遠慮なく食ってくれ」


上座にいたのは、言わずもがな近藤さんと土方さん。
近藤さんはいつもの気持ちの良い笑顔のまま、
自分の分のおかずを土方さんのお皿の上に載せていた。
困惑しきって、固辞する土方さんの言い分も聞こうとしない。
にっこり笑ったまま、突き返されそうになるのを制す。


「トシには何度も食事を分けてもらったからな。…恩返しのつもりだ」
「水くせェこと言うなよ。俺達はそんなこと気にする間柄じゃねェだろ」


土方さんも引き下がらない。
だがやがて、根負けしたようにその顔が苦笑に変わる。


「…ったくあんたは…どんなときでも、自分より他人なんだな」


そのときの土方さんの表情を表現する術が見付からない。
言葉じゃ決して語りつくせない。
込められたのは信頼と親しみ。
近藤さんに向けられた苦笑は、他のどんな表情より柔らかい。
いつもの人形染みた綺麗さじゃなくて、人間らしい美しさ。
私は、ぼうっとしながらその顔に見惚れていた。

近藤さんの性質に呆れながらも、
好ましく思い、それが親愛を更に募らせる。
そんな風に感じる。
きっとこれは、江戸にいた頃の彼等の再現なのだろう。
重ねてきたときの中で、重ねられてきた信頼。
それが垣間見える、親友同士の遣り取りに見えた。


「早く、あんたにこんな真似させなくて済むようになりてェよな。
そのために、早いとこ資金の問題を解決しちまわねェとな」
「そうだな」


沖田、これがあんたの焦燥の理由?
二人の対等であり信頼を寄せ合うこの関係が、
あんたにそんな表情をさせていることの理由なの?
未だ物憂げな沖田の横顔に、私はそっと問い掛ける。
そのまま沖田は、静かに席を立った。


「…ご馳走様」
「何だよ総司、全然食ってねェじゃん」
「別に。今日は食欲がないだけだよ」


いつもならその言葉に私は反論を洩らすが、
今は沖田のつい一瞬前の表情を見たからか、言葉が出ない。


「資金繰りとか、会津藩の立場がどうとか、難しいことは分からないけど、
とりあえず剣の稽古をした方が建設的だと思ってね」
『…沖田?』
「にしても、一君と新八さんばっかりずるいよねェ。
僕よりも先に浪士を斬っちゃうなんてさ」


僕も早いとこ、不逞浪士を何十人でも斬り殺してやりたいのに。
そうすれば会津藩だって、僕達を認めざるを得ないだろうし。
沖田は笑いながらそう言った。
その言葉に、私の心臓は急速に冷え切っていく。

…さっき見た表情は嘘だった?
そんなことはない。確かに私は見た。
なら、どうして?
あんな顔をした後でどうしてこんなことが言えるの。

沖田は元々物騒な思考を持っていて、
簡単に「斬る」だの「殺す」だのを口にする。
増してや、彼は返り血に濡れた二人を目の当たりにしているのに、
またそうやって人を殺すことを簡単に音にする。
今回ばかりは、沖田の神経を疑った。

彼の言い分は単純明快だけど、
流石に子供染みていて賛成するには難い。
何より楽しげな表情が、事態を軽視しているように思える。
人を殺すって、そんなに軽いことじゃないでしょう。
「斬り殺してやりたい」なんて…冗談でも、聞きたくない。


「…総司、お前は江戸に帰れ」


滲んだ嫌な汗ごと手のひらを握り締めると、
静かな声音が広間に響く。…土方さんだ。
言われた言葉に、沖田が目を見開くのが分かった。
必死に平静を装おうとしながらも、隠せない動揺。

何を言われているのか分からない…。
沖田は「面白くもない冗談を言うな」と震えた声で返す。
対して、土方さんは落ち着き払っていた。


「冗談なんかじゃねェさ。お前は、ここにいない方がいいんだ」


彼の発言はあまりに唐突だった。
その上、冗談ではなく本心。
他の人達もみんな、困惑した様子で顔を見合わせている。
土方さんの真意を読みかねているんだろう。

私達ですらそうなのに…
当の沖田が、動揺しないはずはない。
目を瞠りながらも何とか言葉を紡ごうとしている。
驚きのあまり、咄嗟に声が出ないみたいだった。


「…理由は?僕を江戸に帰す理由は何です?
今は一人でも多くの隊士が欲しい時期でしょう?
僕がいなきゃ、困るんじゃないですか」
「お前は百姓の俺や近藤さんと違って武家の長男だ。
何処かの藩に仕官するって道も、ねェわけじゃねェ」
「武家の長男って…そんなの関係ないですよ。
家はもう、義兄上が継いでるんですから。今更……」


沖田は武家の長男らしい。
初めて聞く情報に納得する暇もない。
切迫した空気に息をつかさず見入られてしまう。


「それに、武家の長男っていうなら永倉さんだって!
それなのに、どうして僕にだけ帰れなんて言うんです?!」
「お前と新八は、違うだろうが」
「何処が違うって言うんですか?!」


いつもの沖田らしくなかった。
顔からはすっかり余裕が消え失せて、
どうにか土方さんに食い下がろうと躍起になっている。
彼は明らかに、焦っていた。

しかし土方さんは一向に冷静だ。
表情一つ、眉一つ動かさず淡々としている。
言い分も、沖田の言い分よりよっぽど理路整然としていた。
その様相に更に沖田の焦燥が募る。


「お前が最近、やたら斬るだの殺すだの言ってやがるのはどうしてだ?
―――芹沢さんの影響だろうが」


お前は餓鬼なんだ。
ああいう人の傍にいると自分を保てなくなる。
だから、とっととここを離れた方がいいんだよ。
土方さんが連ねた台詞に、私はちょっと目を見開く。
あの物騒な物言いは沖田の生来の気性とばかり思っていたが…
彼は少なからず、芹沢さんに感化されていたってこと?


「…尤もらしいこと言ってますけど、単に僕が邪魔なんでしょ?
僕が傍にいたら、近藤さんにおかしなこと吹き込めませんもんね?
だから追っ払って、自分の思う通りしたいんでしょ?
……そうですよね?」
「…そう思いたかったら、勝手に思ってりゃいいさ」


最後の方の沖田の声は、泣きそうだった。
さっきの表情を見ているから殊更にそう感じる。
思ったのは、私だけだったのかな。

沖田は悔しげに唇を噛みながら、拳を握る。
そして駄々っ子のように、土方さんに言われる筋合いはない、
近藤さんに言われるならばともかく…と返す。
相対する土方さんは、依然まともには取り合わないつもりのようだ。
見かねた近藤さんが会話に入っても、主張は変わらない。
逆に「姉のミツさんはどう思うかな」と、
近藤さんの方を説得して沖田を帰すように促そうとしている。

ここじゃ、人を斬る以外に剣の使い道はない。
まだ「綺麗」に見える沖田の剣技を、血に染める。
私ですら不快に思う単語に、近藤さんが反応しない筈はない。
彼はやがて、意を決したように顔を上げて、口を開く。


「…総司」
「―――嫌です!!」


何を言われるのか悟った沖田が、続きを制す。
弾けるような渾身の声音だった。
その声量に、思わずびくりと体が竦む。


「僕は…絶対に帰りませんよ!
ここに残って、近藤さんの役に立ってみせますから!!」
「お、おい総司…!!」


一方的な叫びの末、沖田は広間を出て行ってしまう。
平助がその後を追おうとするが、土方さんの一喝に止められる。
反射的に腰を浮かせようとしていた私も、そっと座り直した。
…考えてみれば、私が行って何を言ってやれるわけもない。
苛立った沖田の神経を逆撫でするばかりだろう。


「すぐにゃ納得出来ねェだろうが、あいつもそのうち分かる筈だ」


土方さんの言葉に揺らぎはない。
すっかり考えを固めてしまっているみたいだ。
近藤さんも顔を伏せたまま、何も言おうとしない。
再び広間を、重苦しい沈黙が満たした。

彼等は、同じ道場の門弟じゃなかったの…?
私が気にしても仕方ないかもしれないけれど、
土方さんの物言いも沖田の反応も何処か妙だ。
変な温度差があると言って良い…不自然だった。

こんな気持ちじゃ美味しく食事なんて味わえなくて、
しっとりとした雰囲気のまま、その日の夕餉は終わった。
私の上機嫌も、すっかり何処かに飛んで行ってしまっていた。